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十年ぶりに「お帰りなさい」と言ってくれた人の話  作者: 九葉(くずは)


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第5話 半日の沈黙

朝、祖母様の古文書を、縁側に広げました。


墨の色が、部分的に茶ばんでおります。

紐で綴じられた厚みは、掌にのせるといくらかずっしりといたしました。


『気の修復の儀』

表紙に、祖母様の字。


儀式の手順は、さほど込み入ったものではございませんでした。

――ただ、家人の深い集中を、半日、途切らせずに保つ。

そのことだけが、要でございました。


「琴音」

父上が、縁側の端から、覗き込まれました。

「わしも、座ろう」

「……父上」

「出来る時間の分、だけでも」

父上の膝は、冬のあいだ、だいぶ冷えてしまわれたとうかがっております。半刻もじっとなさるのが、お辛いことも、ございました。


それでも、と仰るお顔を、私はしばし拝見しておりました。


「父上のお気持ちを、心の内にお借りしてまいります」

頭を下げました。

「本日は、私ひとりで、試みまする」


父上は、何かお言いになりかけて、お口をお閉じになった。

――「誰か、供座の者があれば良かろうに」という呟きだけ、かすかに。


庭の白蔵主様が、笠松の陰から、そっと、私の方を御覧になっておりました。

その輪郭が、朝の光に、わずかに透けて見えました。



昼前。


門の向こうに、気配がございました。


「薄月、仁様でいらっしゃいますか」

開ける前に、お名前を呼んでしまいました。最近、私は、門の音を聞き分けるようになっておりました。先日のお叩きようと、今日のお叩きようが、少し違うのも、なぜか分かる。二度、間合いを置いて、もう二度。


「琴音様」

仁様は、今日は荷物をお持ちでございました。細長い木箱を脇に抱えておられる。

「お仕事中でございましたか」

「いえ」

「お祖母様の古文書を、お広げでございましょうか」


仁様の視線が、縁側の方を、ごく短く。

それから、私の顔に戻られた。


「……なぜ、お分かりに」

「気の、色が」

仁様は、控えめに付け加えられた。

「家の気が、今、釣り合いを取ろうとして、少し、騒いでおります」


葉月殿が、仁様の肩から私の方に、鼻先をお向けになった。


門を通していただけるならば、と、仁様が切り出された。

「僭越でございますが、同座を、お許しいただけませぬか」

「……お作法を」

「存じませぬ」

仁様は、はっきりと仰った。

「ただ、座ることは、できます」


葉月殿が、くぅ、と、喉の奥で小さく鳴かれた。


ただ、座ることは、できます。

――その、お言葉の運び方が、なぜか、深うございました。


「……では、お願いいたします」

私は、頭を下げました。



縁側に、二つ、座布団を並べました。


仁様は、私の左側に。

葉月殿は、仁様の斜め後ろの板の間に、体を伸ばして、お座りになった。これで、お休みになるのか、見張っておられるのか、判じかねるお姿でございました。


白蔵主様が、庭石の上に、薄い姿でお立ちになった。

私と、目を合わされた。

ひとつ、お頷きになる。


はじめまする。

――口の中で、そっと唱えました。


昼の光が、庭の霜柱を、少しずつ、解かしていきます。


呼吸。

息を、吸う。

息を、吐く。


祖母様の古文書には、こう書かれておりました。

『息の音を、家の木々と合わせ。心の音を、家の石と合わせ。やがて、家人の気と、家そのものの気とが、ひとつに溶ける』


溶ける。

その、字の通りに。


吸う。

吐く。


左から、別の呼吸が、聞こえておりました。


仁様のお呼吸は、最初、わずかに私より速うございました。

次第に、歩幅を、揃えてこられるのが、分かりました。

吸う時に、ほんのわずかだけ、お合わせになる。

吐く時は、はっきりと、私の間合いに、寄ってこられる。


作法を、ご存じない、と仰っていた。

けれど、お体が、覚えているかのよう。


昼の光が、午後の光に変わりました。


霜柱は、もう、庭にはございません。

代わりに、松の影が、縁側に落ちてまいりました。松の影は、動いておりませぬ。動いておらぬのに、少しずつ、位置を変えておりました。


吸う。

吐く。


膝の痛みは、どこかに預けて参りました。

首の重みも、左の肩の冷えも、預けて参りました。


ただ。

隣の呼吸だけが、いつまでも、途切れずに、そこにございました。



陽が、西の笠松の後ろに、傾きました。


白蔵主様が、石の上から、一歩、前にお進みになった。

細く透けていたお姿が、薄衣の下に、確かに、肉づかれた気が、した。


「――お嬢様」

お声が、はっきりとお聞きとれました。

「十年分、取り戻しました」


背筋に、ぽん、と、空白が訪れました。


手足の感覚が、急に、戻ってまいりました。

とたん、体の芯から、疲労が、せり上がってまいりました。

膝が、前にくずおれそうに――


「――」

袖を、取られました。


ほんの一瞬。

私の右の腕が、仁様の左の手のひらに、沈みました。

沈んだ、と思った時には、もう、離れておりました。


「失礼、いたしました」

仁様は、元の姿勢で、お座りになっておりました。

「――いえ」

私は、袖を、そっと、手で押さえました。

袖の布の、熱が。


お日様の熱では、ございませんでした。


(……白蔵主様。ただいまの、御礼の仕方、いかがいたせば)


心の内で、そっと、庭の方に、お尋ね申し上げました。胸の内のざわつきを、どなたかに、ご説明申し上げずには、おれなんだのでございます。

白蔵主様は、石の上で、ただ、目を、わずかにお伏せになっただけでございました。

お答えは、ございませんでした。

ございませんでしたが、その目の伏せ方に、――何か、大人の含みのようなものが、あった気が、いたしました。


……お答えを、いただけぬのは、今回ばかりで、ございましょうか。

それとも、こういう類のお尋ねに、お答えになる屋敷神は、世にあまり、おられぬのでございましょうか。



仁様は、持参の木箱を、縁側の端にお置きになった。


「祖母の遺書に、もう一つ、お見せしたいものが、ございます」

「今日、でございますか」

「いえ、本日はここまで」

仁様は、ご自身の肩を揉むでもなく、筋を伸ばすでもなく、ただ、お立ちになった。

「お疲れでいらっしゃいますゆえ。次のお日和に、日をお頂戴いたしとう存じます」


葉月殿が、お立ちになるのが億劫そうで、しばらく板の間の上で尻尾だけを振っておられました。


門前までお送りするとき、白蔵主様が、私の耳元で、ひそり、と仰った。

「――あのお方、神道の心得は、ございませぬぞ」

「はい」

「存じませぬままに、半日、気を、お合わせになりました」

「……はい」

「そのようなことは、本来、できませぬ」

白蔵主様は、仁様のお背中を、じっと、見つめておられました。

「別の集中を、お持ちでございましょうな」


別の。

集中。


仁様のお背中が、門の向こうに消えられた時、私の胸の端が、また、少しだけ、急いておりました。



翌朝。


門が叩かれる音は、昨日までと違いました。

遠慮がちに、けれども、諦めない、静かな打ち方でございました。


門を開けると、痩せた女が、頭を下げました。

藁沓の先に、泥がびっしり。頬が、冬の風に傷んでおりました。


「――蛍」

「奥様」

蛍の声は、歩き通した疲れで、少し、嗄れておりました。

「お供させてくださいませ」


私は、戸口の敷居を、踏み越え、蛍の腕を、取りました。


「寒かったでしょう」

「大丈夫でございます」

「いつから、歩いてきたの」

「一昨日の、夕刻から」


一昨日の夕刻。――雪の降る前の夜でございました。


火鉢の前に、毛布を重ねてお掛けしました。蛍は、白湯を両手で包んでから、ようやく、少しずつ、話し始めたのでございます。


「お屋敷、奥から順に、空いてまいりまして」

「空く」

「はい。若い下働きの衆から、お体を悪うし始めて。家に戻された者が、戻ってまいりません」

「……志乃様は」

「奥様。――お臥せりになって、十日でございます」


畳の目を、私は、見ておりました。


「志乃様が、ご病床からお呼びになる声が、いくら呼んでも、誰の耳にも、届かなくなりました。縁側の方に下働きの者がおっても、呼ばれたことに、気づかぬのでございます」


名を、呼んでも、届かぬ家。


火鉢の炭が、一度、ぱちんと、鳴りました。


蛍の手のひらの湯呑みが、かすかに、震えておりました。寒さのせいか、何かほかのもののせいか、私には、判じかねました。


「お供、してくださる?」

私は、静かに、問いました。

「はい」

「ならば、これからは、私のことは、名で呼んでくださいな」

「――琴音様」


その呼び声は、十年ぶりに、生きた人の口から、名で呼ばれた、朝でございました。


庭の笠松の陰で、白蔵主様が、ほう、と、長いお息を、おつきになっておりました。

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