第5話 半日の沈黙
朝、祖母様の古文書を、縁側に広げました。
墨の色が、部分的に茶ばんでおります。
紐で綴じられた厚みは、掌にのせるといくらかずっしりといたしました。
『気の修復の儀』
表紙に、祖母様の字。
儀式の手順は、さほど込み入ったものではございませんでした。
――ただ、家人の深い集中を、半日、途切らせずに保つ。
そのことだけが、要でございました。
「琴音」
父上が、縁側の端から、覗き込まれました。
「わしも、座ろう」
「……父上」
「出来る時間の分、だけでも」
父上の膝は、冬のあいだ、だいぶ冷えてしまわれたとうかがっております。半刻もじっとなさるのが、お辛いことも、ございました。
それでも、と仰るお顔を、私はしばし拝見しておりました。
「父上のお気持ちを、心の内にお借りしてまいります」
頭を下げました。
「本日は、私ひとりで、試みまする」
父上は、何かお言いになりかけて、お口をお閉じになった。
――「誰か、供座の者があれば良かろうに」という呟きだけ、かすかに。
庭の白蔵主様が、笠松の陰から、そっと、私の方を御覧になっておりました。
その輪郭が、朝の光に、わずかに透けて見えました。
◇
昼前。
門の向こうに、気配がございました。
「薄月、仁様でいらっしゃいますか」
開ける前に、お名前を呼んでしまいました。最近、私は、門の音を聞き分けるようになっておりました。先日のお叩きようと、今日のお叩きようが、少し違うのも、なぜか分かる。二度、間合いを置いて、もう二度。
「琴音様」
仁様は、今日は荷物をお持ちでございました。細長い木箱を脇に抱えておられる。
「お仕事中でございましたか」
「いえ」
「お祖母様の古文書を、お広げでございましょうか」
仁様の視線が、縁側の方を、ごく短く。
それから、私の顔に戻られた。
「……なぜ、お分かりに」
「気の、色が」
仁様は、控えめに付け加えられた。
「家の気が、今、釣り合いを取ろうとして、少し、騒いでおります」
葉月殿が、仁様の肩から私の方に、鼻先をお向けになった。
門を通していただけるならば、と、仁様が切り出された。
「僭越でございますが、同座を、お許しいただけませぬか」
「……お作法を」
「存じませぬ」
仁様は、はっきりと仰った。
「ただ、座ることは、できます」
葉月殿が、くぅ、と、喉の奥で小さく鳴かれた。
ただ、座ることは、できます。
――その、お言葉の運び方が、なぜか、深うございました。
「……では、お願いいたします」
私は、頭を下げました。
◇
縁側に、二つ、座布団を並べました。
仁様は、私の左側に。
葉月殿は、仁様の斜め後ろの板の間に、体を伸ばして、お座りになった。これで、お休みになるのか、見張っておられるのか、判じかねるお姿でございました。
白蔵主様が、庭石の上に、薄い姿でお立ちになった。
私と、目を合わされた。
ひとつ、お頷きになる。
はじめまする。
――口の中で、そっと唱えました。
昼の光が、庭の霜柱を、少しずつ、解かしていきます。
呼吸。
息を、吸う。
息を、吐く。
祖母様の古文書には、こう書かれておりました。
『息の音を、家の木々と合わせ。心の音を、家の石と合わせ。やがて、家人の気と、家そのものの気とが、ひとつに溶ける』
溶ける。
その、字の通りに。
吸う。
吐く。
左から、別の呼吸が、聞こえておりました。
仁様のお呼吸は、最初、わずかに私より速うございました。
次第に、歩幅を、揃えてこられるのが、分かりました。
吸う時に、ほんのわずかだけ、お合わせになる。
吐く時は、はっきりと、私の間合いに、寄ってこられる。
作法を、ご存じない、と仰っていた。
けれど、お体が、覚えているかのよう。
昼の光が、午後の光に変わりました。
霜柱は、もう、庭にはございません。
代わりに、松の影が、縁側に落ちてまいりました。松の影は、動いておりませぬ。動いておらぬのに、少しずつ、位置を変えておりました。
吸う。
吐く。
膝の痛みは、どこかに預けて参りました。
首の重みも、左の肩の冷えも、預けて参りました。
ただ。
隣の呼吸だけが、いつまでも、途切れずに、そこにございました。
◇
陽が、西の笠松の後ろに、傾きました。
白蔵主様が、石の上から、一歩、前にお進みになった。
細く透けていたお姿が、薄衣の下に、確かに、肉づかれた気が、した。
「――お嬢様」
お声が、はっきりとお聞きとれました。
「十年分、取り戻しました」
背筋に、ぽん、と、空白が訪れました。
手足の感覚が、急に、戻ってまいりました。
とたん、体の芯から、疲労が、せり上がってまいりました。
膝が、前にくずおれそうに――
「――」
袖を、取られました。
ほんの一瞬。
私の右の腕が、仁様の左の手のひらに、沈みました。
沈んだ、と思った時には、もう、離れておりました。
「失礼、いたしました」
仁様は、元の姿勢で、お座りになっておりました。
「――いえ」
私は、袖を、そっと、手で押さえました。
袖の布の、熱が。
お日様の熱では、ございませんでした。
(……白蔵主様。ただいまの、御礼の仕方、いかがいたせば)
心の内で、そっと、庭の方に、お尋ね申し上げました。胸の内のざわつきを、どなたかに、ご説明申し上げずには、おれなんだのでございます。
白蔵主様は、石の上で、ただ、目を、わずかにお伏せになっただけでございました。
お答えは、ございませんでした。
ございませんでしたが、その目の伏せ方に、――何か、大人の含みのようなものが、あった気が、いたしました。
……お答えを、いただけぬのは、今回ばかりで、ございましょうか。
それとも、こういう類のお尋ねに、お答えになる屋敷神は、世にあまり、おられぬのでございましょうか。
◇
仁様は、持参の木箱を、縁側の端にお置きになった。
「祖母の遺書に、もう一つ、お見せしたいものが、ございます」
「今日、でございますか」
「いえ、本日はここまで」
仁様は、ご自身の肩を揉むでもなく、筋を伸ばすでもなく、ただ、お立ちになった。
「お疲れでいらっしゃいますゆえ。次のお日和に、日をお頂戴いたしとう存じます」
葉月殿が、お立ちになるのが億劫そうで、しばらく板の間の上で尻尾だけを振っておられました。
門前までお送りするとき、白蔵主様が、私の耳元で、ひそり、と仰った。
「――あのお方、神道の心得は、ございませぬぞ」
「はい」
「存じませぬままに、半日、気を、お合わせになりました」
「……はい」
「そのようなことは、本来、できませぬ」
白蔵主様は、仁様のお背中を、じっと、見つめておられました。
「別の集中を、お持ちでございましょうな」
別の。
集中。
仁様のお背中が、門の向こうに消えられた時、私の胸の端が、また、少しだけ、急いておりました。
◇
翌朝。
門が叩かれる音は、昨日までと違いました。
遠慮がちに、けれども、諦めない、静かな打ち方でございました。
門を開けると、痩せた女が、頭を下げました。
藁沓の先に、泥がびっしり。頬が、冬の風に傷んでおりました。
「――蛍」
「奥様」
蛍の声は、歩き通した疲れで、少し、嗄れておりました。
「お供させてくださいませ」
私は、戸口の敷居を、踏み越え、蛍の腕を、取りました。
「寒かったでしょう」
「大丈夫でございます」
「いつから、歩いてきたの」
「一昨日の、夕刻から」
一昨日の夕刻。――雪の降る前の夜でございました。
火鉢の前に、毛布を重ねてお掛けしました。蛍は、白湯を両手で包んでから、ようやく、少しずつ、話し始めたのでございます。
「お屋敷、奥から順に、空いてまいりまして」
「空く」
「はい。若い下働きの衆から、お体を悪うし始めて。家に戻された者が、戻ってまいりません」
「……志乃様は」
「奥様。――お臥せりになって、十日でございます」
畳の目を、私は、見ておりました。
「志乃様が、ご病床からお呼びになる声が、いくら呼んでも、誰の耳にも、届かなくなりました。縁側の方に下働きの者がおっても、呼ばれたことに、気づかぬのでございます」
名を、呼んでも、届かぬ家。
火鉢の炭が、一度、ぱちんと、鳴りました。
蛍の手のひらの湯呑みが、かすかに、震えておりました。寒さのせいか、何かほかのもののせいか、私には、判じかねました。
「お供、してくださる?」
私は、静かに、問いました。
「はい」
「ならば、これからは、私のことは、名で呼んでくださいな」
「――琴音様」
その呼び声は、十年ぶりに、生きた人の口から、名で呼ばれた、朝でございました。
庭の笠松の陰で、白蔵主様が、ほう、と、長いお息を、おつきになっておりました。




