第4話 奉納物の気
朝の粥の湯気が、障子の格子に吸い込まれて薄くなっていく様子を、私はしばらく眺めておりました。
七日。
仁様がお帰りになってから、七度、朝を迎えました。
火鉢の炭は残り少のうございます。薪も、蝋燭も、このまま冬の終わりまで保たせるには、算段のいる残り方でございました。
「父上」
粥の椀を両手で包み、私は切り出しました。
「お耳に入れたきことが、ございます」
「申してみよ」
「麓宮の宮司様――弓削殿に、お目通りを願いとうございます」
父上の箸が、わずかに止まりました。
「……鑑定の話か」
「はい」
私は、顔を上げずに続けました。
「あの宮には、古いお社にまつわる奉納物が多く集まるとうかがっております。古いものには、まれに、よからぬ気が憑いたものが混じってまいります。見鬼の目があれば、お役に立てるやもしれませぬ」
父上は、しばし粥の中を覗き込まれた。
湯気が、父上の白髪の生え際を、ぼんやりと曇らせておりました。
「藤原の娘が、働きに出るなど」
「祖母様でしたら、なんと仰いましたでしょうか」
父上の口の端が、ほんのわずか、緩まれた。
「……『今更、何を恥じることがある』と、な」
「はい」
「文を、したためる」
父上は箸を置き、腰をお上げになった。
「今度は、引き出しに仕舞うたりはせぬ」
◇
麓宮は、藤原家から東に半里。
雪解けの始まりで、参道はぬかるんでおりました。下駄の歯に湿った土が絡む。鳥居の朱が、冬の光に洗われて、どこかくすんで見えました。
社務所にお通しされると、奥から小柄なお方が、ゆっくりとお出ましになった。白髪まじり、肩がひとまわり落ちた、やや猫背の御方。宮司・弓削殿でございました。
「琴世殿の、お孫御でいらっしゃるか」
「藤原琴音と申します」
「よう、お顔立ちが似ておいでで」
弓削殿は、片手でお茶を淹れられた。湯呑みを置く音が、妙に律儀でございました。
「文は拝見した」
咳払いを一つなさって。
「ご無礼を承知で申し上げる。……試させてはいただけぬかな」
「はい」
「最近入ってまいった奉納物が、幾品かございます。混じっておるものの見分けが、つきかねておる」
社務所の奥の一室に、品々が並べられておりました。
巻物が三本。
短刀が一振り。
古い鏡が一面。
小さな石仏が二つ。
私は、襟元を正し、順にお近づきいたしました。
――一本目の巻物。
紙が薄く笑っているような、緩やかな光を帯びておりました。
「これは、祝福のお写経でございましょう。古のお坊様が、晴れた朝にお書きになったもの」
――二本目。
指先が、ひやりといたしました。
「こちらは、少々。気の濁りが、奥にわだかまっております。盗まれたる品が、戻る道のなかに人を恨んだ時期があるように見受けます。祓いを一度、お願い申し上げます」
――三本目は、からりと澄んでおりました。
「問題ございません」
短刀。
――鞘に触れる前から、頬に、風のような気を感じました。
「真の神気が籠もっております。お社の内陣にお納めなさいませ」
古鏡は、半分が眠り、半分が目覚めておりました。
「お磨きの日をお間違えにならぬよう。磨いた翌朝に一礼を、忘れずに」
石仏は、二つとも、穏やかでございました。
弓削殿は、片手でお茶を口に運び、もう一方の手で、何度か、膝頭を叩いておられました。
そして、低い声で、一言。
「任せたい」
畳の目の一つ一つが、ふっと、はっきりして見えた気がいたしました。
「謝礼として、この冬は米を。のちほど、銀子でお納めする形も考えましょう」
弓削殿は立ち上がりかけて、思いついたように付け足された。
「――琴世殿が、お喜びに、なっておられようよ」
頭を下げながら、私は、口の中で、小さく、呟きました。
(白蔵主様。お留守のお耳に、申し上げます。――私、お任せ、いただけました)
お返事は、いただけませぬ。ここは麓宮の社務所で、藤原の屋敷神様のお耳は、遠うございます。分かっておるのでございますが、それでも、どこかに、ご報告申し上げずには、おれなんだのでございました。
褒められるということに、十年、慣れておりませぬゆえ。
◇
帰り道。
麓宮の下働きの童が、俵を半分ほど、藤原家まで運んでくれました。童の背の俵が、藁の匂いを立てて、雪解けの道を進みます。
下駄の歯に絡む泥が、いつの間にか、軽うございました。
(――これが、わたくしの手で、取ってきた、お米)
心の内で、そっと呟きました。
嫁いだ先で、奥方様と呼ばれておった頃には、一度として、自分の稼ぎというものを、存じませんでした。帳簿も、蔵の鍵も、志乃様のお手のうちに。私は、ただ、奥向きを整える人形のようなもの。
人形は、自分でお米を運びませぬ。
人形には、下駄の泥が絡みませぬ。
門前に着いたとき、足の裏が、少しだけ、疼いておりました。
庭石の陰から、白蔵主様が、すい、とお出ましになりました。
「お嬢様。お帰りなさいませ」
「白蔵主様」
私は、童にお礼を申し上げて、門の内にお戻りしてから、声を落としました。
「……実は、弓削殿より、お任せいただきました」
「存じております」
「ご存じで」
「お嬢様の、お心の内でのお呼びかけが、届きましてございます」
白蔵主様の眉が、ふ、とお上がりになった。
「お遠くからでも、屋敷神のお耳は、届く折がございます」
……聞こえておられた。
袂で口元を押さえました。耳の先が、少し、熱うございました。これは、ご報告ではなくて、独り言のつもりで、ございましたのに。
◇
午の下がり。
裏口の木戸が、ごとり、と鳴りました。
戸を開けると、細い影が、ちょうど踵を返したばかりのところ。
「仁、様」
呼び止めますと、仁様は振り向かれて、お辞儀をされた。
肩には、葉月殿。
葉月殿の鼻先が、何やら熱心に、下の方を指しておられます。
裏口の沓脱石の上に、竹籠が一つ。
中に、艶やかな橙色の、干し柿。
薄紙で一つ一つお包みになって、その上から、また別の紙で、しっとりと全体を。
「仁様、これは」
「道すがら、美味しそうでございましたので」
「……道」
「はい」
「お茶の一杯も」
「本日は急ぎの用がございますゆえ。どうかお気になさらず」
葉月殿が、私の膝――ではなく、籠の上に一瞬、顔を近づけて、またすぐに引っ込められた。涎は、お垂らしになっておりません。さすがでございます。
「いただきます。ありがとうございます」
頭を下げますと、仁様は、わずかにお頭をお下げになり、踵を返された。
「――あの」
思わず、呼び止めてしまいました。
「お言葉が、少し、少のうございます」
「……左様でございますか」
「はい」
「善処いたします」
「善処、でございますか」
「……善処を、いたします」
踵を返される仁様の耳の先が。
茜ではなく、紅色を、しておいででございました。
葉月殿が、帰り道のどこかで、小さく、くしゅん、とくしゃみをなさった音が、ほんのりと、風に混じって聞こえた気がいたしました。
裏口に一人残って、干し柿の包みを、私はしばらく眺めておりました。
薄紙の折り目が、一つずつ、揃っておりました。揃いすぎて、誰かが、相当、丁寧に包まれたのだろうと思われました。
「道すがら」のお顔ではございません、これは。
――袂で、口元を。
袖の中で、私は、小さく、笑ってしまいました。
◇
夕刻。
炭を足した火鉢のそばで、干し柿を一つ、父上とお分けいたしました。甘うございました。
縁側に出ると、白蔵主様が、庭石の横に立っておられた。
風は冷えておりますが、日没前のわずかな朱が、松の幹の片側だけを、温めておりました。
「お嬢様」
「はい」
「少し、よろしゅうございますか」
「何でございましょう」
「……山の神々より、風聞がございました」
白蔵主様は、普段お遣いにならぬ、やや硬いお声でございました。
私は、縁側に正座いたしました。
「橘のお家の、屋敷神殿」
「はい」
「もう、ほとんど、お姿が、ないそうでございます」
風が、庭の枯れ菊の茎を、一度だけ、折らぬ程度に揺らしました。
「……ほとんど」
「はい」
「一度も、名を」
言いかけて、私は、口を閉じました。
嫁いでから十年。
奥方様、橘夫人、あの方、ご内儀。
――琴音と、お呼びになったお方は、おられなかった。
家中の誰も、名を呼ぶことを、なさらなかった。
屋敷神は、家人の愛情で保たれる。
名を呼ぶ、その声の数で、力を、お得になる。
祖母様の書簡には、そう記されておりました。
十年。
誰の名も呼ばれず、誰の名も呼ばぬ家で、
屋敷神様は、何を、お食べになって、ご息災でいらしたでしょう。
「お嬢様」
白蔵主様が、静かに仰った。
「これは、お嬢様のお咎めでは、ございません」
私は、縁側の板目を見つめたまま、
ただ、一度、深く、頭を下げました。
庭の奥で、薄紙に包まれた干し柿の甘みが、まだ、指先に残っておりました。




