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十年ぶりに「お帰りなさい」と言ってくれた人の話  作者: 九葉(くずは)


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第4話 奉納物の気

朝の粥の湯気が、障子の格子に吸い込まれて薄くなっていく様子を、私はしばらく眺めておりました。


七日。

仁様がお帰りになってから、七度、朝を迎えました。


火鉢の炭は残り少のうございます。薪も、蝋燭も、このまま冬の終わりまで保たせるには、算段のいる残り方でございました。


「父上」

粥の椀を両手で包み、私は切り出しました。

「お耳に入れたきことが、ございます」

「申してみよ」

麓宮ふもとみやの宮司様――弓削殿に、お目通りを願いとうございます」


父上の箸が、わずかに止まりました。

「……鑑定の話か」

「はい」

私は、顔を上げずに続けました。

「あの宮には、古いお社にまつわる奉納物が多く集まるとうかがっております。古いものには、まれに、よからぬ気が憑いたものが混じってまいります。見鬼の目があれば、お役に立てるやもしれませぬ」


父上は、しばし粥の中を覗き込まれた。

湯気が、父上の白髪の生え際を、ぼんやりと曇らせておりました。


「藤原の娘が、働きに出るなど」

「祖母様でしたら、なんと仰いましたでしょうか」

父上の口の端が、ほんのわずか、緩まれた。

「……『今更、何を恥じることがある』と、な」

「はい」

「文を、したためる」

父上は箸を置き、腰をお上げになった。

「今度は、引き出しに仕舞うたりはせぬ」



麓宮は、藤原家から東に半里はんり


雪解けの始まりで、参道はぬかるんでおりました。下駄の歯に湿った土が絡む。鳥居の朱が、冬の光に洗われて、どこかくすんで見えました。


社務所にお通しされると、奥から小柄なお方が、ゆっくりとお出ましになった。白髪まじり、肩がひとまわり落ちた、やや猫背の御方。宮司・弓削殿でございました。


「琴世殿の、お孫御でいらっしゃるか」

「藤原琴音と申します」

「よう、お顔立ちが似ておいでで」


弓削殿は、片手でお茶を淹れられた。湯呑みを置く音が、妙に律儀でございました。


「文は拝見した」

咳払いを一つなさって。

「ご無礼を承知で申し上げる。……試させてはいただけぬかな」

「はい」

「最近入ってまいった奉納物が、幾品かございます。混じっておるものの見分けが、つきかねておる」


社務所の奥の一室に、品々が並べられておりました。


巻物が三本。

短刀が一振り。

古い鏡が一面。

小さな石仏が二つ。


私は、襟元を正し、順にお近づきいたしました。


――一本目の巻物。

紙が薄く笑っているような、緩やかな光を帯びておりました。

「これは、祝福のお写経でございましょう。古のお坊様が、晴れた朝にお書きになったもの」


――二本目。

指先が、ひやりといたしました。

「こちらは、少々。気の濁りが、奥にわだかまっております。盗まれたる品が、戻る道のなかに人を恨んだ時期があるように見受けます。祓いを一度、お願い申し上げます」


――三本目は、からりと澄んでおりました。

「問題ございません」


短刀。

――鞘に触れる前から、頬に、風のような気を感じました。

「真の神気が籠もっております。お社の内陣にお納めなさいませ」


古鏡は、半分が眠り、半分が目覚めておりました。

「お磨きの日をお間違えにならぬよう。磨いた翌朝に一礼を、忘れずに」


石仏は、二つとも、穏やかでございました。


弓削殿は、片手でお茶を口に運び、もう一方の手で、何度か、膝頭を叩いておられました。

そして、低い声で、一言。


「任せたい」


畳の目の一つ一つが、ふっと、はっきりして見えた気がいたしました。


「謝礼として、この冬は米を。のちほど、銀子ぎんすでお納めする形も考えましょう」

弓削殿は立ち上がりかけて、思いついたように付け足された。

「――琴世殿が、お喜びに、なっておられようよ」


頭を下げながら、私は、口の中で、小さく、呟きました。


(白蔵主様。お留守のお耳に、申し上げます。――私、お任せ、いただけました)


お返事は、いただけませぬ。ここは麓宮の社務所で、藤原の屋敷神様のお耳は、遠うございます。分かっておるのでございますが、それでも、どこかに、ご報告申し上げずには、おれなんだのでございました。


褒められるということに、十年、慣れておりませぬゆえ。



帰り道。


麓宮の下働きのわらしが、俵を半分ほど、藤原家まで運んでくれました。童の背の俵が、藁の匂いを立てて、雪解けの道を進みます。


下駄の歯に絡む泥が、いつの間にか、軽うございました。


(――これが、わたくしの手で、取ってきた、お米)


心の内で、そっと呟きました。

嫁いだ先で、奥方様と呼ばれておった頃には、一度として、自分の稼ぎというものを、存じませんでした。帳簿も、蔵の鍵も、志乃様のお手のうちに。私は、ただ、奥向きを整える人形のようなもの。


人形は、自分でお米を運びませぬ。

人形には、下駄の泥が絡みませぬ。


門前に着いたとき、足の裏が、少しだけ、疼いておりました。


庭石の陰から、白蔵主様が、すい、とお出ましになりました。

「お嬢様。お帰りなさいませ」

「白蔵主様」

私は、童にお礼を申し上げて、門の内にお戻りしてから、声を落としました。

「……実は、弓削殿より、お任せいただきました」

「存じております」

「ご存じで」

「お嬢様の、お心の内でのお呼びかけが、届きましてございます」

白蔵主様の眉が、ふ、とお上がりになった。

「お遠くからでも、屋敷神のお耳は、届く折がございます」


……聞こえておられた。


袂で口元を押さえました。耳の先が、少し、熱うございました。これは、ご報告ではなくて、独り言のつもりで、ございましたのに。



午の下がり。


裏口の木戸が、ごとり、と鳴りました。

戸を開けると、細い影が、ちょうど踵を返したばかりのところ。


「仁、様」

呼び止めますと、仁様は振り向かれて、お辞儀をされた。

肩には、葉月殿。

葉月殿の鼻先が、何やら熱心に、下の方を指しておられます。


裏口の沓脱石の上に、竹籠が一つ。

中に、艶やかな橙色の、干し柿。

薄紙で一つ一つお包みになって、その上から、また別の紙で、しっとりと全体を。


「仁様、これは」

「道すがら、美味しそうでございましたので」

「……道」

「はい」

「お茶の一杯も」

「本日は急ぎの用がございますゆえ。どうかお気になさらず」


葉月殿が、私の膝――ではなく、籠の上に一瞬、顔を近づけて、またすぐに引っ込められた。涎は、お垂らしになっておりません。さすがでございます。


「いただきます。ありがとうございます」

頭を下げますと、仁様は、わずかにお頭をお下げになり、踵を返された。


「――あの」

思わず、呼び止めてしまいました。

「お言葉が、少し、少のうございます」

「……左様でございますか」

「はい」

「善処いたします」

「善処、でございますか」

「……善処を、いたします」


踵を返される仁様の耳の先が。

茜ではなく、紅色を、しておいででございました。


葉月殿が、帰り道のどこかで、小さく、くしゅん、とくしゃみをなさった音が、ほんのりと、風に混じって聞こえた気がいたしました。


裏口に一人残って、干し柿の包みを、私はしばらく眺めておりました。

薄紙の折り目が、一つずつ、揃っておりました。揃いすぎて、誰かが、相当、丁寧に包まれたのだろうと思われました。

「道すがら」のお顔ではございません、これは。


――袂で、口元を。

袖の中で、私は、小さく、笑ってしまいました。



夕刻。


炭を足した火鉢のそばで、干し柿を一つ、父上とお分けいたしました。甘うございました。


縁側に出ると、白蔵主様が、庭石の横に立っておられた。

風は冷えておりますが、日没前のわずかな朱が、松の幹の片側だけを、温めておりました。


「お嬢様」

「はい」

「少し、よろしゅうございますか」

「何でございましょう」

「……山の神々より、風聞がございました」


白蔵主様は、普段お遣いにならぬ、やや硬いお声でございました。

私は、縁側に正座いたしました。


「橘のお家の、屋敷神殿」

「はい」

「もう、ほとんど、お姿が、ないそうでございます」


風が、庭の枯れ菊の茎を、一度だけ、折らぬ程度に揺らしました。


「……ほとんど」

「はい」

「一度も、名を」

言いかけて、私は、口を閉じました。


嫁いでから十年。

奥方様、橘夫人、あの方、ご内儀。

――琴音と、お呼びになったお方は、おられなかった。

家中の誰も、名を呼ぶことを、なさらなかった。


屋敷神は、家人の愛情で保たれる。

名を呼ぶ、その声の数で、力を、お得になる。

祖母様の書簡には、そう記されておりました。


十年。

誰の名も呼ばれず、誰の名も呼ばぬ家で、

屋敷神様は、何を、お食べになって、ご息災でいらしたでしょう。


「お嬢様」

白蔵主様が、静かに仰った。

「これは、お嬢様のお咎めでは、ございません」


私は、縁側の板目を見つめたまま、

ただ、一度、深く、頭を下げました。


庭の奥で、薄紙に包まれた干し柿の甘みが、まだ、指先に残っておりました。

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