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十年ぶりに「お帰りなさい」と言ってくれた人の話  作者: 九葉(くずは)


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第3話 十年遅れの縁談

三日目の朝。


雪の名残が縁側の隅に少しだけ残っている。父上が炭を継ぎ足しておられる。白い湯気が、湯呑みの縁で揺れておりました。


「琴音、昨日はよく眠れたか」

「はい、父上。十年分」

「……それは、良かった」

父上は、火鉢の炭の位置をもう一度直された。やや不器用な手つきでございました。


そのとき、庭の方で、かさり、と物音がいたしました。


まず見えたのは、白い毛。

次に、胸元の柔らかそうな辺り。

それから、黒く濡れたような目。


縁側の沓脱石に、白い狐が一匹、ちょこなんと座っておりました。口に、結び文を咥えております。


「これは――」

父上が身を乗り出す。

「薄月殿のお使いでいらっしゃるか」


白狐――葉月殿は、私の顔をゆっくりご覧になってから、そっと文を前足の脇にお置きになった。そしてもう一度、尾をふさり、と振って、藪椿の陰へお戻りになった。


文を拾い上げました。

薄鼠の紙に、硬質な墨の跡。


『本日、陽の傾き始めるころ、改めて伺いたく存じます。ご多用のおりは、使いの者にてお断りくださいませ。 薄月仁』


お断りくださいませ、と。

そんなものを書いてよこす方が、おられましょうか。


……お受けする、と。

紙片の裏に、短く書き付けました。

筆が、少しだけ、震えました。



陽が西に傾き始めるころ、門が叩かれました。


今度は、三度ではなく、二度。

先日よりも、控えめなお叩きようでございました。


仁様は、濃藍の衣の上に、さらに一枚、羽織ってお越しでございました。指の関節が、赤い。

「お寒かったでしょう」

「歩き心地のよい日和でございました」

どちらともつかぬお返事でございました。


座敷にお通しすると、仁様は畳に指をお揃えになり、深く深くお辞儀をされました。肩の葉月殿が、一緒にお頭をお下げになる。あれは、主人の仕草を真似ておられるのでございましょうか。それとも、ご自身の礼儀でございましょうか。


「改めまして」

仁様は、袱紗に包まれた文箱を、両手で私の前にお置きになった。

「藤原琴世様から薄月百合宛に交わされた、縁組の覚書。その正本でございます。先日お渡しした写しとは、封印の朱が異なります」


袱紗を解く、指。

爪の形が、整っておいででございました。

そんなところを、私はなぜ、見ているのか。


袱紗の下から現れた桐の文箱には、藤原家と薄月家の家紋が、寄り添うようにして描かれておりました。蓋を開けると、濃い朱の封が、まだ、はっきりと赤い。


「ずっと、薄月家の蔵に」

「はい。祖父の遺品の中に。先月、ようやく」

「先月」

思わず、繰り返しました。

「薄月様が、お探しでいらしたのですか」

「……はい」

短い間がございました。

「十年、探しておりました」


炭が、ぱち、と鳴りました。



覚書には、祖母様の筆と、薄月百合様の筆が、並んでございました。

互いの孫の名と、歳の差、そして短い誓い。

「万事に至らぬこと候わば、両家にて寄り添わんことを」


寄り添わん、と。

随分と、ゆったりした言葉を、祖母様はお選びになったものでございました。


「仁様」

私は顔を上げぬまま、お尋ねいたしました。

「離縁を受けた身が、このお話をお受けする資格が、ございましょうか」

「琴世様は」

仁様は静かに仰った。

「こうも書き置いておられたそうです。『一度心を傷めた後に戻ってまいる孫娘を、どうか値踏みせぬ人のもとへ』。祖母は、このお言葉を生涯覚えておりました」


墨の跡がじんわりと、滲んで見えました。

今度は、私の涙のせいではない。炭の熱で、湯気が漂っていたからでございました。――そう、思うことにいたしました。


「もう一つ、ご無礼を申し上げてもよろしゅうございますか」

仁様は、わずかにお顔を傾けられた。

「お差し支えなくば」

「……琴音様を、お見かけしたことが、ございます」

「どこかで、でございますか」

「神無月の初め、麓宮ふもとみやの縁側で。私が七つの年でございました」


七つ。

仁様は、私のふたつ年上でいらっしゃる。

ならば、私は、五つ。


記憶を、さらってみました。あの頃の麓宮。祖母様に手を引かれて、月に一度お参りに上がっておりました。縁側で、知らぬ子に会ったことは、あったかもしれません。顔は、浮かびませぬ。


「覚えが、ございませぬ」

素直に申し上げました。

仁様は、わずかにお笑いになった。口の端を、ほんの少しだけ。

「それが筋でございます。覚えておるのは、私ばかりでよろしゅうございます」

「何を、申し上げたのでございましょう、私」

「私の肩を、お指しになりまして」

仁様の肩の葉月殿が、こちらを向いた。

「――この狐さん、お腹すいてるみたい、と」


畳の目が、ふっと、ぼやけました。


「……なんと、失礼な」

「いいえ」

仁様は首を振られた。

「その日、葉月はまことに空腹でございました。祖母がその後、葉月に油揚げを一枚くださった。祖父が、腹を抱えて笑いました。――以来、我が家では、空腹の葉月を『琴音殿に見られぬように』が、家訓でございます」


家訓、という一語が、妙にぽつんと畳に落ちたように思えました。


私は。

思わず、袂で口元を、お隠しいたしました。笑ってしまったのでございます。ここ十年、ほぼ笑うということの作法を忘れかけておりましたのに。


葉月殿が、するりと仁様の肩を滑り下りて。

私の膝に、ひょいと、お乗りになりました。


「葉月」

仁様が小さく呼ばれた。

葉月殿は、ふさり、と尾で私の膝を一叩きなさって、また、そこに丸くおなりになった。何の遠慮もなしに。


仁様の、耳の辺りが。

炭の照り返しのせいか、少しだけ。

――赤い、ような。


気のせいでございましょう。


「……失礼をいたしました」

仁様は、葉月殿を抱え上げようとなさった。

「よろしいのでございます」

私は、自分の声が、少し、上ずっていることに気づきました。

「おあたたかくて、手が、助かります」


葉月殿が、ほう、と尾を振りました。



辞去際の仁様は、やはり、深くお辞儀をお返しになった。


「縁組の儀につきましては、お気持ちの定まられるのをお待ちいたします。何年でも」

「……何年、でございますか」

「はい。急かしに参ったわけではございません」

もう一度、お辞儀。

「ただ――どうか、覚えておいていただけますれば」

「はい」

「何かご困難がございましたら、薄月家を。私を、お使いいただきたく」


門の敷石に、西日が長く伸びておりました。


仁様のお背中が、門の向こうへ、少しずつ、小さく。

葉月殿が、最後に一度だけ、こちらを振り向いて、お帰りになった。


「――お嬢様」

傍らで、白蔵主様のお声がいたしました。

「良き、お方でございます」

「……そうでございましょうか」

「あの狐殿は、嘘のつけぬ気をお持ちでございますれば」


気づけば、私の手は、胸のあたりを、そっと押さえておりました。

心の臓が、思いのほか、急いでおります。


雪はすっかり止んで、庭の先の空に、茜色が一筋、流れておりました。

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