第3話 十年遅れの縁談
三日目の朝。
雪の名残が縁側の隅に少しだけ残っている。父上が炭を継ぎ足しておられる。白い湯気が、湯呑みの縁で揺れておりました。
「琴音、昨日はよく眠れたか」
「はい、父上。十年分」
「……それは、良かった」
父上は、火鉢の炭の位置をもう一度直された。やや不器用な手つきでございました。
そのとき、庭の方で、かさり、と物音がいたしました。
まず見えたのは、白い毛。
次に、胸元の柔らかそうな辺り。
それから、黒く濡れたような目。
縁側の沓脱石に、白い狐が一匹、ちょこなんと座っておりました。口に、結び文を咥えております。
「これは――」
父上が身を乗り出す。
「薄月殿のお使いでいらっしゃるか」
白狐――葉月殿は、私の顔をゆっくりご覧になってから、そっと文を前足の脇にお置きになった。そしてもう一度、尾をふさり、と振って、藪椿の陰へお戻りになった。
文を拾い上げました。
薄鼠の紙に、硬質な墨の跡。
『本日、陽の傾き始めるころ、改めて伺いたく存じます。ご多用のおりは、使いの者にてお断りくださいませ。 薄月仁』
お断りくださいませ、と。
そんなものを書いてよこす方が、おられましょうか。
……お受けする、と。
紙片の裏に、短く書き付けました。
筆が、少しだけ、震えました。
◇
陽が西に傾き始めるころ、門が叩かれました。
今度は、三度ではなく、二度。
先日よりも、控えめなお叩きようでございました。
仁様は、濃藍の衣の上に、さらに一枚、羽織ってお越しでございました。指の関節が、赤い。
「お寒かったでしょう」
「歩き心地のよい日和でございました」
どちらともつかぬお返事でございました。
座敷にお通しすると、仁様は畳に指をお揃えになり、深く深くお辞儀をされました。肩の葉月殿が、一緒にお頭をお下げになる。あれは、主人の仕草を真似ておられるのでございましょうか。それとも、ご自身の礼儀でございましょうか。
「改めまして」
仁様は、袱紗に包まれた文箱を、両手で私の前にお置きになった。
「藤原琴世様から薄月百合宛に交わされた、縁組の覚書。その正本でございます。先日お渡しした写しとは、封印の朱が異なります」
袱紗を解く、指。
爪の形が、整っておいででございました。
そんなところを、私はなぜ、見ているのか。
袱紗の下から現れた桐の文箱には、藤原家と薄月家の家紋が、寄り添うようにして描かれておりました。蓋を開けると、濃い朱の封が、まだ、はっきりと赤い。
「ずっと、薄月家の蔵に」
「はい。祖父の遺品の中に。先月、ようやく」
「先月」
思わず、繰り返しました。
「薄月様が、お探しでいらしたのですか」
「……はい」
短い間がございました。
「十年、探しておりました」
炭が、ぱち、と鳴りました。
◇
覚書には、祖母様の筆と、薄月百合様の筆が、並んでございました。
互いの孫の名と、歳の差、そして短い誓い。
「万事に至らぬこと候わば、両家にて寄り添わんことを」
寄り添わん、と。
随分と、ゆったりした言葉を、祖母様はお選びになったものでございました。
「仁様」
私は顔を上げぬまま、お尋ねいたしました。
「離縁を受けた身が、このお話をお受けする資格が、ございましょうか」
「琴世様は」
仁様は静かに仰った。
「こうも書き置いておられたそうです。『一度心を傷めた後に戻ってまいる孫娘を、どうか値踏みせぬ人のもとへ』。祖母は、このお言葉を生涯覚えておりました」
墨の跡がじんわりと、滲んで見えました。
今度は、私の涙のせいではない。炭の熱で、湯気が漂っていたからでございました。――そう、思うことにいたしました。
「もう一つ、ご無礼を申し上げてもよろしゅうございますか」
仁様は、わずかにお顔を傾けられた。
「お差し支えなくば」
「……琴音様を、お見かけしたことが、ございます」
「どこかで、でございますか」
「神無月の初め、麓宮の縁側で。私が七つの年でございました」
七つ。
仁様は、私のふたつ年上でいらっしゃる。
ならば、私は、五つ。
記憶を、さらってみました。あの頃の麓宮。祖母様に手を引かれて、月に一度お参りに上がっておりました。縁側で、知らぬ子に会ったことは、あったかもしれません。顔は、浮かびませぬ。
「覚えが、ございませぬ」
素直に申し上げました。
仁様は、わずかにお笑いになった。口の端を、ほんの少しだけ。
「それが筋でございます。覚えておるのは、私ばかりでよろしゅうございます」
「何を、申し上げたのでございましょう、私」
「私の肩を、お指しになりまして」
仁様の肩の葉月殿が、こちらを向いた。
「――この狐さん、お腹すいてるみたい、と」
畳の目が、ふっと、ぼやけました。
「……なんと、失礼な」
「いいえ」
仁様は首を振られた。
「その日、葉月はまことに空腹でございました。祖母がその後、葉月に油揚げを一枚くださった。祖父が、腹を抱えて笑いました。――以来、我が家では、空腹の葉月を『琴音殿に見られぬように』が、家訓でございます」
家訓、という一語が、妙にぽつんと畳に落ちたように思えました。
私は。
思わず、袂で口元を、お隠しいたしました。笑ってしまったのでございます。ここ十年、ほぼ笑うということの作法を忘れかけておりましたのに。
葉月殿が、するりと仁様の肩を滑り下りて。
私の膝に、ひょいと、お乗りになりました。
「葉月」
仁様が小さく呼ばれた。
葉月殿は、ふさり、と尾で私の膝を一叩きなさって、また、そこに丸くおなりになった。何の遠慮もなしに。
仁様の、耳の辺りが。
炭の照り返しのせいか、少しだけ。
――赤い、ような。
気のせいでございましょう。
「……失礼をいたしました」
仁様は、葉月殿を抱え上げようとなさった。
「よろしいのでございます」
私は、自分の声が、少し、上ずっていることに気づきました。
「おあたたかくて、手が、助かります」
葉月殿が、ほう、と尾を振りました。
◇
辞去際の仁様は、やはり、深くお辞儀をお返しになった。
「縁組の儀につきましては、お気持ちの定まられるのをお待ちいたします。何年でも」
「……何年、でございますか」
「はい。急かしに参ったわけではございません」
もう一度、お辞儀。
「ただ――どうか、覚えておいていただけますれば」
「はい」
「何かご困難がございましたら、薄月家を。私を、お使いいただきたく」
門の敷石に、西日が長く伸びておりました。
仁様のお背中が、門の向こうへ、少しずつ、小さく。
葉月殿が、最後に一度だけ、こちらを振り向いて、お帰りになった。
「――お嬢様」
傍らで、白蔵主様のお声がいたしました。
「良き、お方でございます」
「……そうでございましょうか」
「あの狐殿は、嘘のつけぬ気をお持ちでございますれば」
気づけば、私の手は、胸のあたりを、そっと押さえておりました。
心の臓が、思いのほか、急いでおります。
雪はすっかり止んで、庭の先の空に、茜色が一筋、流れておりました。




