第2話 祖母の書簡
門前の雪が、朝の光で、わずかに沈んでいる。
その御方は、私の顔を、真っ直ぐに御覧になっていた。
奇異な目ではない。憐れむ目でもない。
何か、もっと別のもの。長いあいだ探していた本を、ようやく棚の奥に見つけた――そういう目に、よく似ておりました。
「薄月、仁様」
呼んでみて、自分の声の細さに、思わず喉を抑える。
「失礼ながら、お名前に、覚えがございませず」
「存じております」
あっさりと、仰った。
「十年前のお話でございますれば、覚えておられぬのが筋でございます。私の方が、勝手に覚えているだけの話で」
御方は肩から葉のような布包みを下ろし、両手で小さな文箱をお出しになった。
「本来であれば、きちんと使者を立て、日を改めて、お渡しすべき品でございます」
「……」
「ですが、藤原殿のお家に何かあった折には、真っ先にお届けするようにと、祖父に申し付けられておりました。ご無礼は重々承知の上で」
仁様は、文箱を玄関先の框にお置きになった。
「これは、あなた様の祖母上――琴世様が、私の祖母宛てにお書きになったものの、写しでございます。中には、琴世様ご自身から、あなた様へのお手紙も一通」
肩の白狐が、そこで小さく、くん、と鼻を鳴らした。
「本日はこれにて失礼いたします」
「……お茶の一つもお出しせず」
「どうぞ、お気になさらず」
仁様は、深々と頭をお下げになった。
「改めて、日を頂戴できれば。それまでお読みいただければ、話が早うございます」
雪を踏んでお帰りになる背中は、細くはないが、大きくもない。
ただ、真っ直ぐでございました。
後には、文箱と、白狐の去り際の尾の残像だけが残っておりました。
◇
朝餉は、粥と、梅と、味噌。それだけでございました。
「琴音」
父上は、箸を止めずに仰った。
「昨日は、長持の話を、し損じた」
「長持、でございますか」
「……祖母の」
箸の手が、止まりました。
祖母様がお亡くなりになったのは、私が嫁ぐ前の秋のことでございました。葬儀の後、祖母様の持ち物のいくつかを橘家に持参することを、志乃様は良しとなさらなかった。「古い家のものは、新しい家には入れぬもの」。そう言われて、藤原家に預けたまま。
「婚家では、見せられなんだ」
父上はお顔を上げられた。
「お前が、戻ってきた今なら」
昼前。
使用人代わりの蛍――今はまだ、雇うてもおらぬ――の代わりに、父上ご自身が、庭を横切って離れまで長持を運んでくださった。お体に障るから、と私が止めても、「これは、わしの仕事だ」と。
埃を被った木箱。ほんのり黴の匂い。蓋に、祖母様のお好きだった椿の蒔絵。
一つ、息を整えて、蓋をお開けいたしました。
◇
――手が、震えました。
中には、文箱がいくつか。使い込まれた硯。祖母様が好んでお召しになった薄鼠の帯揚げ。
そして。
一番上に、一通の巻物。
「琴音様へ」
祖母様の筆。お変わりのない、細いのに芯のある、墨の跡。
巻紙を、ゆっくりと開きました。
『琴音様へ。
私がこの世を離れる頃、あなたは十六。橘家へのお輿入れが、すでに定まっておりましょう。
この手紙をお読みになる日が、もしも訪れたならば、それは私の目論見が、ひとつ崩れたということでございます。』
目が、文字の上で止まりました。
『橘のお家は、良きお家柄ではございます。されど、あの家の屋敷神殿は、私が若い頃より、すでに弱っておいでであった。お代替わりの度に、家人の愛情が痩せていく家でございました。
それを承知で、あなたをあの家に送ったのは、私の誤りでございます。
先様のお家柄と、お父上の懇願に、私は押し負けた。
申し訳のないことでございました。』
文字の粒が、滲みました。
自分の涙のせいだ、と気づくのに、しばしかかりました。
『あなたには、見鬼の血が流れております。見える者は、家の気に敏い。気の痩せた家に長くいれば、必ず心を傷めます。
もしもあなたが、あの家で心を痛め、戻ってくる日が来たならば――その日のために、私は、薄月家と、ひとつ話をつけておきました。』
薄月家と。
話を。
『薄月家の先代ご夫人、百合様は、私の幼なじみでございました。百合様のお孫に、仁殿という、聡い御方がおられます。歳は、あなたのふたつ年上。
あなたが十六で嫁ぐと決まった年、私は百合様と、ひとつの約束を交わしました。
――もしも琴音に、万が一のことあれば、仁殿との縁を、用意しておこうと。』
巻紙の上で、墨が踊ってございました。
私の指が震えているからでございます。
『仁殿はお前を覚えているはずです。
七つの頃、神社の縁側で、一度だけ、お会いしていることがございますゆえ。』
七歳。
そんなに、昔の、こと。
覚えが、ない。
巻紙を、そっと膝に降ろしました。
◇
縁側に出ると、雪がうっすらと残る庭に、白い影が一つ。
「白蔵主様」
呼びかけると、老爺はお振り向きになった。
「祖母様は」
「はい」
「橘家の、あの家の気が、痩せていることを、ご存知だったのですか」
「……存じておられました」
白蔵主様の眉が、わずかにお下がりになる。
「お嬢様を橘家にお出しになったのは、先代の、誤算にございました。百合様と琴世様が若き頃に誓われた友誼と、先代が持っておられた神道学のお力を以てしても――間に合わぬ縁談は、ございます」
「間に合わぬ」
「はい」
「ならば、祖母様は」
「先代がお亡くなりになる最期の夜、こうお申しになりました。『白蔵主。もしこの家に琴音が戻る日があれば、お前、あの娘の名を、呼んで差し上げておくれ。私の代わりに』――と」
雪の上に、また一粒、涙が落ちました。
ただし今度は、白蔵主様の涙ではございません。私の涙でございました。
「十年」
呟くと、白蔵主様はお頷きになった。
「お嬢様。先代のお言葉は、きちんと果たしましてございます」
風が、松の枝を一度、揺らしました。
◇
夕刻。
仁様がお置きになった文箱を、私はもう一度、開きました。
一番上の手紙。
祖母様の筆跡。
書き出しの一行は、先刻お読みしたばかりのお言葉の、続きでございました。
『仁殿は、お前を覚えているはずです。
――この手紙を、もしあの方があなたにお渡しくださったのなら。
琴音。それはきっと、遅くはないということでございます。』
文字の上に、私の指を、静かに置きました。
ひやりと冷たい紙の下から、祖母様の手の温もりが、十年越しに、伝わってくる気がいたしました。
外では、また、雪が舞いはじめておりました。




