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十年ぶりに「お帰りなさい」と言ってくれた人の話  作者: 九葉(くずは)


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第1話 十年ぶりの帰郷

和風の異世界恋愛になってます!

いつもと違う雰囲気になってますので、味変にお楽しみいただけたら嬉しいです!!

「――子の生せぬ妻はいらぬ」


夫にそう言われたのは、私が二十六の冬のことでございました。


床の間の掛け軸は、秋に替えたまま。葉を散らした枝と、何も詠わぬ一行。


「琴音」

宗一郎様は、最後のお呼びかけをなさいました。

「お前のせいで、家が寂れていくようだ。子のない妻は家の気を吸うという。すまぬが、実家へお戻り願いたい」


――すまぬ、と。

十年連れ添うた妻に、別離の口上は、それきりでございました。


私は畳に両手をついて、深く頭を下げました。

「長らくお世話になりました」


顔を上げたとき、襖の向こうから、姑君――志乃様のお声が、淡々と告げてこられました。


「十年、ご苦労様でした」

お部屋にお入りになる。白髪に交じる黒髪が、一筋、薄日の中で光っている。

「あなたの荷物は、すでに馬車に積んでございます。十年分の化粧道具と」

「……はい」

「――使わなかった産着も、入れておきましたから」


ああ。

そう、ですか。


「ありがたく」

もう一度、頭を下げました。


畳の目に、視線が落ちる。目に涙はございません。

ただ、耳の奥で、誰かの笑い声が響いた気がいたしました。

誰の声か、分からぬまま。



馬車の窓から、雪が見えました。


この冬一番の、粉のような雪でございます。舞うのではなく、ただ落ちてくる。落ちて、馬の背に積もり、車輪の音に紛れて消えていく。


十年。


婚礼の日も、こんな雪でございました。紅の打掛を着せられた私を、宗一郎様は一度も御覧にはならなかった。「藤原の娘は、神が視えるそうだな」と一度だけ仰り、もう一度「神が視える」と口の中で繰り返された。まるで、お気の毒に、と仰るように。


視えるのは、血のせいでございます。藤原の家には、代々そういう娘が生まれる。視えるだけで、何かができるわけではないのに。


膝の上には、風呂敷に包まれた小さな包み。

志乃様が最後に持たせてくださった、使われぬまま十年を過ごした産着。触れぬまま、指だけを置いておく。触れたら、何か、取り返しのつかないものが零れる気がいたしました。


雪は、降り続けておりました。



――荒れておりました。


車寄せの石畳は苔に覆われ、門の格子には蔦が絡んでいる。屋根瓦は半分ほど色が抜けて、庭の桃の枝が雪を吸って重たげに垂れていた。


私がこの家を出たのは、十六の春。

あれから、たった十年。

たった、と。


馬車を降りました。

雪の積もる門前に、人影がございました。


真っ白な装束の、老いた御方。


雪の上に正座しておられる。白い髷、白い眉、白い衣。その周りだけ、雪が一切解けぬまま積もっている。

――この方のお姿は、他の者には、視えぬ。


「白蔵主様」


私は、呼びかけました。


老爺が顔をお上げになった瞬間、皺の奥から、涙が一粒。

雪に落ちる。落ちた場所の雪が、ふ、と、解けた。


「お嬢様」

白蔵主様は、額を雪にお擦り付けになった。

「……ようやくお戻りで」


ようやく。


その、お一言で。


「白蔵主様は、十年、お一人でいらしたのですか」

「いいえ、お嬢様」

「いいえ?」

「この家の座敷にて、毎晩お呼びしておりました。どなたもおられぬ座敷にて――琴音様、琴音様、と」


耳の奥の笑い声が、ふいに、消えておりました。

代わりに、誰もいない座敷で私の名を呼び続けた声が、静かに、静かに、こだまいたします。


橘のお家では、誰も私の名を呼ばなかった。奥方様、橘夫人、あの方。名で呼ばれた覚えがないと気づいたのは、たった今。


私は、雪を踏みしめて、白蔵主様のそばに膝を折りました。


「長らく、お守りくださり」

声が、震えそうになる。

「ありがとうございました」


老爺は、頭をお下げになったまま、小さく、小さく、うなずかれた。



屋敷の中は、冷えておりました。


火の気が少ない。蝋燭も乏しい。

奥の座敷で、父上が一人、茶を立てておられました。私が十六の春に辞した時のままの、細い背中。ただ、ひとまわり、細くなられた。


「琴音」

と、父上が仰った。

「よう、帰った」


頭を下げようとして、できませんでした。


「父上」

「……すまぬ」

父上は茶筅を置かれて、それから、畳に両手を突かれた。

「守ってやれなんだ。橘家が、お前に何をしておるか、薄々は、聞いておった。抗議の書状も、したためた。――したためて、引き出しに、仕舞うたきりだ」


引き出しに。

仕舞うたきり。


父上の肩が、震えておりました。


その震えを見た瞬間。

私の中で、何かが、切れました。


「ちち、うえ」

声が、初めて、崩れました。

「どうか、一度、私の名を、お呼びくださいませ」

「……琴音」

「はい」

「琴音」

「はい、父上」

「……琴音」

「は、い」


茶釜の湯が、くつ、と鳴った。


膝の上の、産着の布に、涙が落ちました。

止まらなくなりました。

十年、流さずに済んでおったものでございます。



その夜は、十年ぶりに、自分の名を呼ばれて眠りました。

白蔵主様が、枕元で、時折、琴音様、とお呼びになる。

夢の中か、本当に聞こえているのか、定かではございません。


ただ、温こうございました。



翌朝。


障子が、白い光で明るんでおりました。雪は止んでおります。


ごん、ごん、ごん。


門が、叩かれる音。


使用人も、まだ雇えぬ家でございます。私が出るしかない。

寝衣に上着を羽織り、足袋のまま、玄関へ。


戸を引きました。


門の外に立っていたのは、見知らぬ若き御方。

その肩の上に――白い狐が一匹、賢そうな目で私を見ている。

ふさり、と尾を一振り。


「朝早くに恐れ入ります」

御方は、深く頭を下げられた。

「藤原琴音殿で、お間違いないでしょうか」

「……はい」

「私、薄月仁と申します」


お名前には、覚えがございませんでした。


けれど。


私の背後で、白蔵主様が――ほう、と、息をおつきになる音が、確かに、聞こえた気がいたしました。

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