第1話 十年ぶりの帰郷
和風の異世界恋愛になってます!
いつもと違う雰囲気になってますので、味変にお楽しみいただけたら嬉しいです!!
「――子の生せぬ妻はいらぬ」
夫にそう言われたのは、私が二十六の冬のことでございました。
床の間の掛け軸は、秋に替えたまま。葉を散らした枝と、何も詠わぬ一行。
「琴音」
宗一郎様は、最後のお呼びかけをなさいました。
「お前のせいで、家が寂れていくようだ。子のない妻は家の気を吸うという。すまぬが、実家へお戻り願いたい」
――すまぬ、と。
十年連れ添うた妻に、別離の口上は、それきりでございました。
私は畳に両手をついて、深く頭を下げました。
「長らくお世話になりました」
顔を上げたとき、襖の向こうから、姑君――志乃様のお声が、淡々と告げてこられました。
「十年、ご苦労様でした」
お部屋にお入りになる。白髪に交じる黒髪が、一筋、薄日の中で光っている。
「あなたの荷物は、すでに馬車に積んでございます。十年分の化粧道具と」
「……はい」
「――使わなかった産着も、入れておきましたから」
ああ。
そう、ですか。
「ありがたく」
もう一度、頭を下げました。
畳の目に、視線が落ちる。目に涙はございません。
ただ、耳の奥で、誰かの笑い声が響いた気がいたしました。
誰の声か、分からぬまま。
◇
馬車の窓から、雪が見えました。
この冬一番の、粉のような雪でございます。舞うのではなく、ただ落ちてくる。落ちて、馬の背に積もり、車輪の音に紛れて消えていく。
十年。
婚礼の日も、こんな雪でございました。紅の打掛を着せられた私を、宗一郎様は一度も御覧にはならなかった。「藤原の娘は、神が視えるそうだな」と一度だけ仰り、もう一度「神が視える」と口の中で繰り返された。まるで、お気の毒に、と仰るように。
視えるのは、血のせいでございます。藤原の家には、代々そういう娘が生まれる。視えるだけで、何かができるわけではないのに。
膝の上には、風呂敷に包まれた小さな包み。
志乃様が最後に持たせてくださった、使われぬまま十年を過ごした産着。触れぬまま、指だけを置いておく。触れたら、何か、取り返しのつかないものが零れる気がいたしました。
雪は、降り続けておりました。
◇
――荒れておりました。
車寄せの石畳は苔に覆われ、門の格子には蔦が絡んでいる。屋根瓦は半分ほど色が抜けて、庭の桃の枝が雪を吸って重たげに垂れていた。
私がこの家を出たのは、十六の春。
あれから、たった十年。
たった、と。
馬車を降りました。
雪の積もる門前に、人影がございました。
真っ白な装束の、老いた御方。
雪の上に正座しておられる。白い髷、白い眉、白い衣。その周りだけ、雪が一切解けぬまま積もっている。
――この方のお姿は、他の者には、視えぬ。
「白蔵主様」
私は、呼びかけました。
老爺が顔をお上げになった瞬間、皺の奥から、涙が一粒。
雪に落ちる。落ちた場所の雪が、ふ、と、解けた。
「お嬢様」
白蔵主様は、額を雪にお擦り付けになった。
「……ようやくお戻りで」
ようやく。
その、お一言で。
「白蔵主様は、十年、お一人でいらしたのですか」
「いいえ、お嬢様」
「いいえ?」
「この家の座敷にて、毎晩お呼びしておりました。どなたもおられぬ座敷にて――琴音様、琴音様、と」
耳の奥の笑い声が、ふいに、消えておりました。
代わりに、誰もいない座敷で私の名を呼び続けた声が、静かに、静かに、こだまいたします。
橘のお家では、誰も私の名を呼ばなかった。奥方様、橘夫人、あの方。名で呼ばれた覚えがないと気づいたのは、たった今。
私は、雪を踏みしめて、白蔵主様のそばに膝を折りました。
「長らく、お守りくださり」
声が、震えそうになる。
「ありがとうございました」
老爺は、頭をお下げになったまま、小さく、小さく、うなずかれた。
◇
屋敷の中は、冷えておりました。
火の気が少ない。蝋燭も乏しい。
奥の座敷で、父上が一人、茶を立てておられました。私が十六の春に辞した時のままの、細い背中。ただ、ひとまわり、細くなられた。
「琴音」
と、父上が仰った。
「よう、帰った」
頭を下げようとして、できませんでした。
「父上」
「……すまぬ」
父上は茶筅を置かれて、それから、畳に両手を突かれた。
「守ってやれなんだ。橘家が、お前に何をしておるか、薄々は、聞いておった。抗議の書状も、したためた。――したためて、引き出しに、仕舞うたきりだ」
引き出しに。
仕舞うたきり。
父上の肩が、震えておりました。
その震えを見た瞬間。
私の中で、何かが、切れました。
「ちち、うえ」
声が、初めて、崩れました。
「どうか、一度、私の名を、お呼びくださいませ」
「……琴音」
「はい」
「琴音」
「はい、父上」
「……琴音」
「は、い」
茶釜の湯が、くつ、と鳴った。
膝の上の、産着の布に、涙が落ちました。
止まらなくなりました。
十年、流さずに済んでおったものでございます。
◇
その夜は、十年ぶりに、自分の名を呼ばれて眠りました。
白蔵主様が、枕元で、時折、琴音様、とお呼びになる。
夢の中か、本当に聞こえているのか、定かではございません。
ただ、温こうございました。
◇
翌朝。
障子が、白い光で明るんでおりました。雪は止んでおります。
ごん、ごん、ごん。
門が、叩かれる音。
使用人も、まだ雇えぬ家でございます。私が出るしかない。
寝衣に上着を羽織り、足袋のまま、玄関へ。
戸を引きました。
門の外に立っていたのは、見知らぬ若き御方。
その肩の上に――白い狐が一匹、賢そうな目で私を見ている。
ふさり、と尾を一振り。
「朝早くに恐れ入ります」
御方は、深く頭を下げられた。
「藤原琴音殿で、お間違いないでしょうか」
「……はい」
「私、薄月仁と申します」
お名前には、覚えがございませんでした。
けれど。
私の背後で、白蔵主様が――ほう、と、息をおつきになる音が、確かに、聞こえた気がいたしました。




