第10話 お帰りなさい、と言ってくれた人たち
桜が、庭先に、ひととき、留まっておりました。
散るには、まだ、少し早うございます。満ちるには、ほんのわずか、足りのうございます。
そういう、中途の、朝でございました。
朝の光が、障子越しに、白く、部屋を満たしておりました。
蛍が、私の肩越しに、髪の根元を、そっと、撫でてくれておりました。
「琴音様」
「はい」
「ご結髪の後ろ、このまま、よろしゅうございますか」
「――おまかせいたします」
「櫛、少し、きつうございましたら、仰せくださいませ」
「はい」
蛍の指先は、小刻みに、震えておりました。
昨夜、お稽古なさっておいでだったのに、それでも、本番というものは、違うものでございます。私は、鏡の中の蛍に、小さく、笑ってみせました。
鏡の中の私は、随分と、見知らぬ顔をしておりました。
――いえ、本当は。
こちらの顔こそが、素の顔で、あちらの顔こそが、十年、借りておった顔で、あったかもしれませぬ。
そのことを、私は、今朝、初めて、思いました。
◇
桜の庭には、父上が、しばし、お一人で、お立ちになっておりました。
朝からずっと、所在なげに、庭石の位置を、少し直したり、また戻したりなさっておいででございました。蛍が、庭を通るたびに、「父上様、よろしゅうございますよ」と声をおかけするので、そのたびに、父上は、慌てて、袖を整えておいででした。
門の方で、ひとしきり、賑やかな声が、いたしました。
麓宮の弓削殿が、祝詞用の新しい榊を、両手に、お抱えになって、参道からお越しくださいました。その後ろから、薄月家のご親族、ご使用人。
仁様は、濃藍のお召し物。
今日の髪は、いつもより、きっちりと結い上げておられました。硬質なお顔立ちが、さらに、硬質に見えて、私は、思わず、袂で口を隠しとう、なりました。
肩の葉月殿は、お尻尾に、小さなお花の飾りをつけておいででございました。誰がなさったのか、仁様ご自身のご様子では、ございませんでしたゆえ、おそらくは、薄月家のどなたかの、悪戯でございましょう。葉月殿は、尾の花飾りのせいで、時折、気にして、尾を振っておられる。しかしながら、よくよく拝見いたしますに、満更でも、なさそうでございました。
庭の中央、石敷きの上に。
白蔵主様が、お立ちになっておりました。
もはや、半ば透けたお姿では、ございませぬ。白い衣は、日の光を、きちんと、遮っておいでで、庭の土に、影を、短く落としておりました。
その足元には、葉月殿とは違う、別の白い狐が、ひとつ。さらに、もうひとつ。――十年、お姿を消しておられた、藤原の同胞の狐殿たちでございました。
皆々、静かに、庭の隅に、控えて、お待ちでございました。
◇
三三九度の盃を、仁様と、交わしました。
一度目。
二度目。
三度目。
静かに、静かに、盃を重ねるごとに、庭の桜の花弁が、ひと色、濃くなっていくようで、ございました。
三度目の盃を置いた時、仁様が、小さく、何かを、お言いになりかけ、一度、ぐっと、飲み込まれました。
「仁様」
「はい」
「私、この朝を、心の内で、何度も、練習いたしました」
「さようでございますか」
「はい」
「ご披露、いただけますか」
仁様の口元が、ほんの少しだけ、緩まれた。
私は、ひとつ息を、整えて、申し上げました。
「十年ぶりに、"お帰りなさい"と、申していただける家に、戻ってまいりました」
仁様は、しばし、盃の底を、御覧になっておいででした。
それから。
盃を畳に戻され、ご自分の膝に、軽く、手をお揃えになった。
「琴音殿」
「はい」
「これからは、毎朝」
「はい」
「"お帰りなさい"ではなく、"おはようございます、琴音殿"と、申し上げます」
「……おはようございます、で」
「はい」
「毎朝、でございますか」
「はい。毎朝」
仁様は、そこで、初めて、今朝はっきりと、お笑いになりました。
「ときに、"おはよう"、の一言だけになるやも、しれませぬ」
「まあ」
「善処いたします」
「……また、善処でございますか」
「はい。――善処を、いたします」
畳の縁に、桜の花弁が、ひとひら、風で、舞い込んでまいりました。
◇
盃を置いてから、庭の方で、静かな風が、起こりました。
父上が、最初に、お気づきになりました。
「……琴音」
お声が、少し、震えておいででした。
「お前、あれを」
縁側から、庭を、御覧いたしました。
石敷きの周り、生垣の際、笠松の根方、桃の枝の下。
そこかしこから、白い毛並みが、ひとつ、またひとつ、ゆっくりと、身を現しつつございました。
小さな仔狐も、おられました。老いた白狐も、おられました。耳の先が、黒く染まった、変わり柄の狐殿も、おられました。
庭の砂利に、影が、増えていきます。
無理に、姿をお見せになっているのでは、ございませぬ。
――戻ってきた、のでございました。
ご自分たちが、かつてお住まいであった場所に、そっと、尾を伸ばし、鼻先を、お差し入れになるように。
白蔵主様が、庭の中央で、両手を広げるように、袖を、ゆっくりと、お揚げになった。
お袖の先に、日の光が、金色に、流れました。
白蔵主様のお姿が、一瞬、はっきりと、神姿そのものに、整われた気が、いたしました。
狐たちは、誰にも、お言葉はかけませぬ。
ただ、庭の砂利を、軽やかに踏み、ひと回り、ふた回り、舞うようにお歩きになり、それぞれの、かつてお気に入りであったらしい場所に、お腰を落ち着けられました。
祝いの宴に、加わっておいでなのでございました。
◇
橘家の、ひらきの悪い襖の向こうで、俺は、ひとり、座っていた。
庭の梅は、とうに、散っている。庭木の、桜と呼べるほどの木は、もともと、この家には、ない。
茶釜に、火は入っていない。
人の気配は、遠くで、たったひとつ。下働きの老婆が、遠くの台所で、何かを動かす音。それきり。
「琴音」
口に出してみた。
応えは、ない。
「……琴音」
もう一度。
やはり、ない。
母上の、最期のお言葉が、耳の奥で、繰り返されていた。
――「支えていたのは、己でなかった、と知るときが、人には、ある」
俺は、膝の上に、両手を、置き直した。
置き直したあとで、何を、どうすればよいかを、しばし、考えていた。
答えは、まだ、出なかった。
◇
夕刻。
客人が、ひと組、ふた組と、お帰りになっていきました。
弓削殿が、帰り際に、私の手を、お取りになり、「琴世殿、さぞ、お喜びでいらっしゃろう」と、一度だけ、仰った。父上が、その横で、しきりに、鼻をおすすりになっておりました。
日が、西の瓦の向こうに、傾きます。
縁側に、私と、仁様と、葉月殿が、並んで、座りました。
庭の石の上には、白蔵主様。
今日の白蔵主様は、お姿を、仕舞われる気配が、ございません。
「琴音殿」
仁様が、静かに、仰いました。
「お疲れで、ございましょう」
「いえ」
「疲れた、とだけ、仰せでも」
「疲れました」
「――はい」
「幸せすぎて、疲れました」
仁様は、しばし、息を、お止めになったようでございました。
葉月殿が、仁様の膝と、私の膝のあいだに、ちょこんと、体を横たえました。尾の花飾りは、もう、外れておりました。ご自分でお取りになったのか、どこかに、お落としになったのか、定かではございませぬ。
庭の桜が、ひとひら、縁側の板の上に、舞い落ちました。
私は、板の上の花弁を、指先で、そっと、お摘み上げいたしました。摘み上げて、しばらく、見つめました。
――十年、重うございました、この花弁のような日々も、ございました。
「白蔵主様」
声を、庭のほうへ、かけました。
「はい、お嬢様」
「私、愛されておりました」
「はい」
「気づかなかった、だけでございました」
「――はい」
白蔵主様の、お返事の「はい」は、十年分、長うございました。
私は、仁様の方を、ゆっくりと、お向きました。
仁様の目が、私の目を、逃げずに、受けてくださいました。
「ただいま、帰りました」
言葉は、そこで、止まりかけましたが、
もう一度、息を、吸って。
「本当に、帰って、参りました」
仁様の目の縁が、ほのかに、湿っておられました。
お答えは、ございませんでした。
お答えのかわりに、仁様は、ご自分の手のひらを、そっと、私の手のひらの横に、置いてくださいました。
指は、重ねられておりませぬ。
ただ、並んで、おりました。
それで、十分でございました。
夕日の最後のひとさしが、縁側の板を、赤く染めて、やがて、ゆっくりと、庭の向こうへ、沈んでまいりました。
庭の白狐たちは、誰も、帰りませんでした。
ここは、皆のお家でございました。
これからも、そうでございます。




