いつも頑張りすぎてしまう君へ《ヴィードリッヒ視点》
「侍医を!! 早く!!」
穏やかな昼下がりにフィアトラール公爵の怒声が響き渡り、屋敷の中が突如戦場のような騒然と化してからしばらく経った今。
ベッドで眠るベルアンナを取り囲むようにして公爵夫妻と医者が真剣な顔つきで話しているのを、僕は後ろから眺めていた。
「重篤な病の兆しは見られません。おそらく一時的に気を失われているだけかと」
「本当か? 直前まで元気に話してたんだぞ。それなのに、あんな、急に──」
「落ち着いて、エリオット。そう詰め寄っては先生も言いたいことを言えなくなるわ」
三者三様に揉めている大人たちを素通りして、眠っているベルの枕元付近にある椅子にゆっくりと腰を下ろす。呼吸は穏やかだが、誰が見ても分かるほど血の気が引いたような青白い顔色だ。
(……無理やりにでも、言っておけば良かった)
そんな後悔が渦巻いてる中、ようやく僕の存在に気づいた公爵が「殿下、本日は申し訳ありませんがお引き取りを──」と言いかけたところで、薄っすらとベルの目が開かれる。
「ベル…! ああ、良かった。気分はどうかしら、痛いところはない?」
「ベル、もしまだ気分が悪ければ遠慮なく言うんだよ」
寝起きで急に両親の顔が迫ってきたからか、ベルは状況をまだ把握できずに目を白黒とさせている。けれどもそんな時間は一瞬で、彼女はすぐに「もう大丈夫ですよ」と微笑んでみせた。
──そうやってすぐに笑顔を作ってしまう君を、僕はいったい何度目にしたことだろう。
「公爵、公爵夫人。少しだけベルと二人で話をさせてもらえませんか。そうしたらすぐにこの場を去りますので」
普段と違う話し方をした僕に何かを悟ったのか、彼らは少し迷いながらも、何かあればすぐに呼ぶという条件のもとで部屋から退出していく。
「──何が悪かったのか、君が一番理解してるよね」
二人だけの空間で、静かに尋ねたその問いに彼女は気まずそうに視線をそらした。
「…………体調管理を怠ったのは悪かったと思ってるわ。子供の体力ってすぐ尽きるのね」
「そうじゃないでしょ──“絶食”なんて、大人でも倒れるに決まってるんだから」
直接聞かれなければ、一生言うつもりはなかっただろうその答えにベルが大きく目を見開く。そうして一瞬だけ間を空けた彼女は「……食べてるわよ。あなたも見てたでしょ」と視線をさまよわせた。
「じゃあ、君の右手。今僕に見せられる?」
その言葉がとどめとなったのか、彼女は右手の甲を隠すようにぎゅっと握りしめ顔を俯かせる。
先ほど眠っている時に見たベルの手の甲には関節部分に赤いあざが──食べたものを自ら吐き出させる時に出来る特有の傷があったのだ。
──前世でも同じような理由で彼女が倒れかけたことがある。
パーティなどの特別式典の前、必ず彼女が絶食を行っていたというのを知ったのはかなり後のことであった。
茶会などの軽めの催しなら三、四日ほど、催しの格が上がれば一週間以上も食を絶つと聞き、あまりのことに絶句したものだ。
だから今回こそはそれを事前に防ごうと、あらかじめ動いていたのに。
普段通り一緒に食事をとってくれていたから油断してしまった。まさか食べたフリをしていたなんて。
「体形を綺麗に保つことがそんなに大事? 自分が倒れてまでやるほどの価値があることなの?」
「……男性のあなたにはきっと分からないわ。私だけじゃなくて皆やってることよ」
「だとしても! 度を越してるって、何で分かって──…っ」
声を荒げそうになるも、ベルが体を縮こませるように毛布の端を握った姿を見て、寸前で自制して大きく息を吐く。……ダメだ、これでは前と何も変わらない。
心を落ち着けるように少しだけ目を伏せ、「……隣に座ってもいいかな」と尋ねると彼女は静かに頷いた。
揺らさないように注意しながらベッドの縁に腰をかけて、ベルの右手をそっと握る。
「──……ねえ、ベル。今から僕がするのは真面目な話だよ。ベルは将来、子供を持ちたいでしょう?」
また突飛なことを言い出したとでも思ったのか、彼女は訝しげにしながらもおずおずと頷く。
「出産って命がけなんだ。今から10年後だってそれは変わらない。健康な体を持った女性でさえ亡くなることが多いんだから」
「……そんなのは私の方が知ってるわ」
表情を曇らせたままの彼女の手を少しだけ強く握りしめる。──本当にこの話をしても良いのか、自分の中の迷いはまだ消えない。それでも僕の口は「じゃあ、今から仮定の話をするよ」と勝手に言葉を紡ぎだした。
「もしも将来、君が僕との子供を望んでくれたとして。いざその時が来たら、僕は迷いなく母体の──君の命を選択する。体が弱い女性はそのまま子を生めなくなる可能性が高くても、僕は君さえいればいいから。……でも君は、君の子供と二度と会えないことに耐えられる?」
──遠い遠い記憶の果てで。
目の前の彼女が知らない“ベルアンナ”を僕は知っている。
月明かりに照らされた部屋の中、誰もいない空っぽのゆりかごを押して、手縫いの産着を抱きながら、ずっと謝り続けていた彼女のことを。声をかけても『大丈夫よ』とただ静かに笑うばかりの彼女のことを──。
「私、は────…あれ、なんで、涙が」
ぽたぽたと流れ落ちる雫がシーツに染みを作っていく。そんなベルをゆっくり引き寄せれば、彼女は僕の肩口に頭をそっと寄せた。
「脅してごめんね。でも、君には後悔してほしくないから。今無理をして体をボロボロにしてほしくない」
ベルの手がぐっと僕の服を強く握る。そのまま「分かってるわよ、そんなこと…っ!」と、食いしばるように声を絞りだしながら言葉をこぼした。
「自分の体に良くないなんて当たり前に理解してるわ。でも、じゃあどうすれば良かったのよ。お母様の理想になれなかったら、がっかりされたら、誰が責任とってくれるのよ!!」
ドン、と胸を叩かれ突き飛ばされそうになったが、彼女から手を離さずにそのまま抱きしめ続ければ、徐々に彼女の叩く力が弱まっていった。
「………ごめんなさい、ただの八つ当たりだわ。分かってるのよ、ちゃんと。今のお母様はきっとそんなこと思ったりしないって。でもね、体が受けつけないの。吐きたくないのに、吐かないと怖くなるの──昔のお母様の顔を思い出すの」
吐露された言葉の一つ一つに相づちを打ちながら、彼女の背中をトン、トン、とゆっくりたたく。
──泣きたい時にずっと笑ってきた昔のベルアンナを、嫌というほどよく知っている。
でも、知っているだけで結局僕は何もできなかったのだ。
彼女が張った心の線引きを──これ以上踏み込むなと分かりやすく示された線を越える勇気なんて何一つ持ち合わせていなかったから。
そうして何もしないまま、気づけば彼女を失ってしまった。
「……僕はきっと、君の苦しみの全部を分かってはあげられない。でもね、理解しようと努力して、一緒に考えることはできる。だから──」
赤くなった目元からはらはらと落ち続ける涙をそっと拭えば、これ以上泣くまいとしてる彼女の口がぎゅっと引き結ばれる。
「一人で苦しまないで、ベル。八つ当たりでも何でもいいから僕に教えて。君が嫌なことも怖いことも、どんな些細なことでもいいから、ね?」
しゃくりあげるように泣いている彼女から言葉は何も返ってこないけれど、ゆっくりと何度も頷いてくれただけで僕には十分だった。
(もっと早くに気づいてあげられたら良かった)
踏み込んで拒絶されるのは今でも怖い。でも結局、彼女を失うことに比べれば、それ以上に怖いものなんて何一つないのだ──と。
◆
溢れ続けていた彼女の涙が緩やかに止まり、濡れタオルで目元を冷やし始めたタイミングで、メイドを呼び入れた。
「ベルの部屋の机の上にあるトレーを持ってきてほしいんだ」
その頼み事を引き受けたメイドが部屋を出たところで、おずおずとベルが目元のタオルをずらしてちらりとこちらの様子を伺ってくる。
「……私の部屋にトレーなんてあった?」
「それは届くまでのお楽しみ」
少しだけ怪訝そうにしながらもタオルを戻して大人しく横になった彼女の掛け布団を整えれば、今さら恥ずかしくなったのか僕に背を向けるように体の向きを変えだした。
「ほら、ちゃんと冷やさないと明日の誕生日会で目が腫れるよ。そっちの方が嫌でしょ?」
その言葉に多少は納得したのか、素直に元の向きに戻るベルが可愛くて。彼女の髪をそっと撫でながら小さく笑い声をこぼす。バレないようにしたつもりであったが「今笑ったでしょ」と少し拗ねたような声に、「ごめんごめん」とまた小さく笑ってしまった。
「失礼いたします。殿下、こちらでお間違いないでしょうか」
先ほど頼んだものがちょうど届き、メイドからそれを受け取って下がってもらう。
ボウル状の蓋が乗った銀のトレーをベルに差し出せば、起き上がった彼女は膝の上にそれを置いた。
「……私、食事は、まだ」
「開けるだけ開けてみて」
まだ少し迷っているような表情を見せながらも、彼女は恐々とした手つきで蓋の取っ手を掴み、そろりと開ける。そこには、お世辞にも美味しそうとは言えないほど不格好に刻まれた野菜のスープの椀が入っていた。
「……? 家の料理人が作ったものじゃないわね。見習いの人が作ったみたい」
「皇子の立場で料理する機会なんてないんだから大目に見てよ」
僕の言葉に目を大きく見開いた彼女は「あなたが作ったの!?」と、視線をスープと僕の顔に何度も往復させる。
「い、いつの間に……」
「元々今日はそれを振る舞おうと思って朝から仕込んでたんだ」
共に食事をしていた時でさえ、ベルの一度の食事量は極端に少なかった。
そんなことではいずれにしろ倒れるのではないかという危惧もあり、フィアトラール家の料理長に相談しながら自作してみたのだが……。
「……やっぱり酷い見た目だよね。ごめん、下げさせるよ」
自己満足が過ぎたなと、彼女からトレーを受け取ろうしたその瞬間──ぱくり、と。ベルが手元のスプーンで一口すくい、ためらうことなく口の中に入れた。
「ふふ、さすがに味は我が家のものね。私の好きな味付けだわ」
そう言って、少しずつスープを口に運ぶベルに「…無理してない?」と問えば「無理だったら最初から手を付けないわ」と返される。それが彼女の優しさか本心か分からず、少しだけ目を伏せて曖昧に笑うのみに留めた。
「──怪我とかはしなかった? 包丁って結構扱うの難しいでしょ。……私も昔、逃亡したての頃にお世話になった家で教えてもらったけど苦戦したもの」
ベルの言葉に思わず息をのんで顔を上げる。──初めてだ。僕が全く知らない、あの惨状直後の彼女のことを、彼女自身が話してくれたのは。
「ヴィード? 黙り込んでどうしたの」
「え? あぁ、んー……ベルのことが好きだなぁって改めて思って」
途端にジトリと訝しげな目を向けてくるベルに小さく笑い返す。
今まで意識的に避けられていたその話題を僕の前でしてくれたことがどれほど嬉しかったか、どれほど望んでいたか、きっと君は分からないだろう。
少しだけベルの心の内側に触れることを許されたようで、胸の奥がくすぐったいような、それでいて温かいものに包まれているような不思議な感覚だ。
「……ねえ、やっぱりあなた様子が変よ。まさか本当に怪我でも──」
「大丈夫、本当にしてないから。というより、料理長が目を血走らせるほど僕を見張ってて怪我をする暇もなかった…が正確かな」
「ち、血走らせ…? ……話を盛ってるでしょ。彼、この屋敷の中でも上位に入るほど快活で陽気な人柄なんだから」
呆れたようにため息をつく彼女に、“まあ君は信じられないよね”という言葉が寸前まで出かかった。
フィアトラールの家に勤める者たちの大部分は、得てしてベルアンナの前で猫をかぶることが多い。そんな使用人たちが、大事な姫様の婚約者がずっと付きまとっていた小僧になったと知って、最近ことさら僕にだけ当たりが強いのである。
しかもその当たり加減が絶妙で、不満を表せば僕の器の小ささが露呈するよう計算して動くという小賢しさの塊だ。料理長だって漏れなくその一員であり、ベルにはぜひ早々にバレてほしい面々の一人である……のだが。
「──まあ、うん、大事なお嬢様の口に入るものを嫌いな小僧が作るんだから人だって変わるさ。愛されてるねぇ、ベルアンナ」
今回は彼女の好物の作り方を教えてもらったので特別に免除しよう。と、真実とフォローを織り交ぜて話せば、「あなたも十分好かれてるわよ」とベルが呆れ交じりに笑った。
「そもそも、嫌ってたら我が家のレシピをあなたに付きっきりで教えたりしないし、道具を触らせることすらしないでしょ」
何気なく言われたその言葉に、きょとんとする。そんな僕を見て、彼女は何を思ったのか軽く微笑みながら僕の手をそっと握った。
「ねえ、ヴィード。皇子であるあなたに料理をさせるなんて、使用人にとっては本当は危険なことなの。少しのミスが彼らの命取りになるもの。──でも、それを分かったうえで面倒を見てくれたんだから、あなたを嫌ってるはずなんてないわ」
そんなはずない、僕を疎ましく思わない人なんていない。と、常に心の奥底にある黒い塊が、不思議と彼女の言葉には反発せずに静かに沈んでいった。
ベルがそう言ってくれるなら信じてみようか。なんて、単純にも程があるほど簡単に心が動く。──でも、それが僕にとっての当たり前なのだ。彼女だけが僕の全てを知っている唯一の人間で、ただ一人、僕の手を引いてくれた人なのだから。
「……少し前に皇宮に珍しい食材が届いたんだ。今度訪問する時、差し入れで持ってくるよ」
「ふふ、腕によりをかけて調理してくれそうね。今から楽しみだわ」
「うん……その時は僕も相席していい?」
おずおずと尋ねたその問いに、彼女は満面の笑みで「もちろん」と答えてくれる。
前世の最期にもう一度見たいと望んだ、僕が一番好きなベルアンナの笑顔だ。そんな明るい顔の彼女を見て自然と自分の口角も上がる。
すっかり綺麗に底が見えるまで飲んでくれたスープの椀をサイドテーブルに置き、彼女がベッドのヘッドボードに軽くもたれかかったところで、濡らしたタオルを再び彼女に渡した。
「じゃあ僕は帰るね。あとはゆっくり休んで」
「ええ、そうさせてもらうわ。………その、ねえ、ヴィード」
別れ際の挨拶でベルが何か言いづらそうに口ごもる。「どうしたの」と尋ねても、言葉を濁すばかりであったが、ようやく意を決したようにその続きを口にした。
「私だって、あなたの好きなところ、一つや二つぐらいならあるわ。だから、その……ううん、それだけ!」
最後の最後にとんでもない爆弾を落としていった彼女は、慌てて僕から顔を隠すように背を向けてしまった。
今すぐにこちらに向かせたい気持ちとそのままにしたい気持ちがせめぎ合う。
自分の耳が火傷でもしたのかというぐらい熱いのだ。そんな情けない顔を彼女に晒すわけにはいかない、という気持ちがギリギリ勝って伸ばしかけた手を引っ込めた。
もういっそ泊まって詳細に全部聞き出そうかと一瞬本気で考えるも、明日のことを考え、辛うじて踏みとどまる。
そうやって頭の中がぐちゃぐちゃになりながら、なけなしの理性で抑え込むことを数度繰り返し、静かに深呼吸をして煩悩を吐き捨てた。
これ以上この部屋にとどまれば、また良からぬことを考えてしまいそうだ。早く帰って頭を冷やさねば。
早々にそう結論づけて、ベッドに手をつき、まだ背中を向けたままの彼女の耳元に口を寄せる。
「ありがとう──僕は大好きだよ、ベルアンナ」
そのまま軽くこめかみに唇を落とせば、ビクリと震えたベルはすぐさま布団をばさりと頭の上までかぶった。
その一瞬だけ見えた彼女の耳も確かに真っ赤に染まっていて。思わず口元がだらしなく緩みそうになるのを手で押さえながら、部屋の出入り口へと足を向ける。
「おやすみ、ベル。今日はいい夢を見てね」
もちろんその言葉に返事なんてものはなかったけれど。
心の中は温かさで満たされたまま、僕はフィアトラール家を後にしたのだった。




