↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/8

3.推しの足跡

 その歌を聞いたのは、仕事帰りだった。


 いつもの店だった。


 職場から歩いて十分くらい。


 安い。


 量が多い。


 味は普通。


 だからよく行く。


「いつもの?」


「お願いします」


 店の女主人に言って、空いている席に座った。


 肉と豆を煮たもの。


 硬いパン。


 薄い酒。


 この世界に来て八ヶ月。


 食べ物にも慣れた。


 最初は香辛料の匂いが気になったが、今は何も思わない。


 パンをちぎる。


 煮込みにつける。


 口に入れる。


 向こうの席で、子供が歌っていた。


 女の子だった。


 七歳か八歳くらい。


 母親らしい女性と二人で食事をしている。


 椅子に座った足をぶらぶらさせながら、鼻歌を歌っていた。


 聞いたことのない歌詞だった。


 鳥がどうとか。


 風がどうとか。


 たぶん、子供の歌だった。


 俺はパンをちぎった。


 女の子が続きを歌う。


 手が止まった。


 顔を上げた。


 女の子はまだ歌っていた。


 母親に何か言われて、一度笑った。


 それからまた歌う。


 俺は聞いた。


 最後まで。


「……なんで」


 声が出た。


 女の子がこっちを見た。


 目が合った。


 慌ててパンを口に入れた。


 違う。


 似ているだけだ。


 歌なんて、似ることはある。


 音の並びなんて限られている。


 たまたま。


 そう思った。


 女の子がもう一度、最初から歌い始めた。


 違わなかった。


     *


 その曲は、ヒカリたちの五枚目のシングルに入っていた。


 表題曲ではない。


 三曲目。


 ライブでも、それほど歌われなかった。


 俺は好きだった。


 ヒカリが初めて、まとまった長さのパートをもらった曲だったからだ。


 ほんの四小節。


 それまで一人で歌うところなんて、ほとんどなかった。


 発売された日の夜。


 イヤホンで聴いていて、その声が聞こえた瞬間に巻き戻した。


 もう一度聴いた。


 ヒカリだった。


 少し硬い声。


 音を外さないことに必死で、余裕なんてない。


 それでも一人で歌っていた。


 次のライブでその曲をやったとき、ヒカリは自分のパートに入る少し前から緊張した顔をしていた。


 歌い終わると、一瞬だけ安心した顔をした。


 俺はよく覚えていた。


 だから、間違えるはずがなかった。


 目の前の女の子が歌っているのは、その曲だった。


 歌詞は違う。


 テンポも少し遅い。


 最後の音も違っていた。


 でも、その四小節があった。


     *


「ごめん」


 食事を終えようとしていた親子に声をかけた。


 母親が少し警戒した顔をした。


 当然だと思う。


「その歌、どこで覚えたの?」


 女の子は母親を見た。


 それから俺を見る。


「おばあちゃん」


「おばあちゃん?」


「うん」


「よく歌ってくれるの?」


「うん。寝るときとか」


 母親が少し笑った。


「母が昔から歌ってるんです。この子が気に入って、覚えちゃって」


「お母さんも知ってるんですか」


「私は歌えません」


「そうですか」


「母の歌、変なんですよ。歌詞もそのときで違うし」


「歌詞が?」


「忘れてるんじゃないですかね」


 母親は笑った。


「昔、誰かに教えてもらったって言ってましたけど」


「誰に?」


「そこまでは」


 女の子が口を挟んだ。


「おばあちゃんのお友達」


 母親が首を傾げた。


「そうだっけ?」


「言ってた」


「へえ」


「あの」


 少し声が早くなった。


「おばあさんに会うことってできますか」


 母親が黙った。


 さすがにまずかったと思った。


「すみません。変な意味じゃなくて」


「いや、それは分かりますけど」


「俺も、その歌を知ってるんです」


「え?」


「俺のいたところの歌なんです」


 母親はしばらく俺を見ていた。


「どこの人なんですか?」


「かなり遠くです」


「この辺じゃない?」


「たぶん、想像してるよりずっと遠いです」


 うまく説明できなかった。


 母親はまだ少し不思議そうだった。


 それでも、翌日の昼なら家にいると教えてくれた。


     *


 次の日。


 仕事を休んだ。


 この世界に来てから初めてだった。


     *


 女の子の祖母は、六十を少し過ぎたくらいだった。


 昨日の母親も一緒にいてくれた。


「歌を聞きたいんだって?」


「はい」


「変わった人だねえ」


「よく言われます」


 別に、よくは言われなかった。


 祖母は笑った。


「どの歌?」


 俺は鼻歌で歌った。


 自分で歌うのは恥ずかしかった。


 四小節。


 祖母の顔が変わった。


「ああ」


「これです」


「知ってるよ」


「誰に教わったんですか」


 祖母はすぐに答えた。


「ヒカリ」


 心臓が一度、大きく鳴った。


 その名前を、この世界で聞いた。


「……ヒカリ?」


「うん」


「どういう人でした?」


「どうって言われてもねえ」


 祖母は困ったように笑った。


「私も子供だったから」


「何歳くらいですか」


「八つか九つかな」


「今は?」


「六十二」


 頭の中で引いた。


 五十年以上前。


 ヒカリがいなくなったのは、三年前だった。


「その人は、どこから来たんですか」


「知らない」


「この町の人じゃなかった?」


「違うよ」


「どんな人でした?」


「変な人だったね」


「変?」


「喋り方も変だったし。知らないことばっかりだったし」


 祖母は少し考える。


「でも、歌をいっぱい知ってた」


「いっぱい?」


「子供が集まると歌ってくれたよ。私、この歌が好きだったから、何度も歌ってって頼んだの」


「それで覚えた」


「そう」


 祖母が笑った。


「ヒカリは嫌そうだったけどね」


「嫌そう?」


「またこれ? って」


 思わず笑いそうになった。


 少しだけ。


「その人、どれくらいここにいたんですか」


「そんなに長くなかったと思うよ」


「その後は?」


「西へ行った」


「西?」


「うん」


「どこに?」


「さあ」


 祖母は首を振った。


「子供だったからね。そこまでは知らないよ」


「何か、町の名前とか」


「覚えてないなあ」


「そうですか」


 それ以上は分からなかった。


 名字も。


 どこから来たのかも。


 どうしてこの世界にいたのかも。


 その後どうなったのかも。


 分かったのは、


 五十年以上前。


 この町にヒカリという女がいた。


 変な喋り方をしていた。


 知らないことばかりだった。


 そして、俺の知っている歌を歌った。


 それだけだった。


「そのヒカリって人」


 帰る前に、もう一つだけ聞いた。


「どんな見た目でした?」


「見た目?」


「髪とか。顔とか」


「髪は黒かったよ」


「黒」


「珍しかったから覚えてる」


「他には?」


「うーん」


 祖母が俺の顔を見る。


「綺麗な人だったと思うよ」


 少し考えてから、


「でも、よく転んでた」


 と言った。


「転ぶ?」


「道が悪いって、いつも怒ってた」


 俺は笑った。


 今度はちゃんと笑った。


「そうですか」


     *


 その日の夕方。


 仕事場へ行った。


 休んだことを謝った。


 親方には、


「病気じゃないなら明日は来い」


 と言われた。


「はい」


 それだけだった。


 帰りに、紙を一枚買った。


 部屋に戻って、


 ヒカリ。


 五十年以上前。


 西へ。


 と書いた。


 三年前にいなくなった人間が、五十年以上前にここにいた。


 意味は分からなかった。


 この世界に来た理由すら分からない俺が、考えて分かることでもない。


 でも。


 あの歌を知っていた。


 名前も同じだった。


 黒い髪。


 変な喋り方。


 偶然だと言うには、少し多かった。


 紙を折った。


 机の上に置いた。


 西。


 どこまで行けばいいのかも分からない。


 行ったところで、何も残っていないかもしれない。


 それでも。


 もう少しだけ、知りたかった。


 窓を閉めようとして、手を止めた。


 窓辺に小さな花が咲いていた。


 いつからあったのかは知らない。


 黄色かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。