2.色のない異世界
ヒカリがいなくなって、三年が経った。
その間に、会社の後輩が二人増えた。
一人は結婚した。
同期が一人辞めた。
俺は一度、部署を異動した。
給料も少し上がった。
スマートフォンも買い替えた。
それくらいだった。
*
「相沢さん、昼どうします?」
「行く」
「下の定食でいいですか」
「いいよ」
後輩と会社を出た。
十二時を少し過ぎていた。
店は混んでいて、五分ほど待った。
日替わり定食を頼んだ。
何を食べたのかは、もう覚えていない。
「来月、休み取っていいですか?」
向かいに座った後輩が言った。
「俺に聞かなくても大丈夫だろ」
「一応。相沢さん、そのへん忙しいかなと思って」
「たぶん大丈夫」
「旅行行くんですよ」
「いいな」
「沖縄です」
「いいな」
「相沢さんは最近どっか行きました?」
少し考えた。
「いや」
「旅行とかしないんですか?」
「昔はしてたよ」
「へえ。どこ行ってたんです?」
「いろいろ」
大阪。
名古屋。
福岡。
仙台。
札幌。
旅行というより、ライブがあったから行っていただけだった。
せっかく来たからと名物を食べた。
時間が余れば観光もした。
だから、行ったことのある街は意外と多い。
「また行けばいいじゃないですか」
「そうだな」
そう答えた。
行こうと思えば行けた。
金がないわけではない。
有給も余っている。
土日に新幹線に乗って、どこかへ行けばいい。
ただ、行きたい場所がなかった。
会社に戻った。
午後の仕事をした。
残業は一時間だけだった。
コンビニで弁当を買って帰った。
風呂に入った。
動画を見た。
眠くなったので寝た。
別に困らなかった。
困らないことが、少し困った。
*
異世界に来たのは、それから二ヶ月後だった。
金曜日だった。
仕事を終えて、駅から家まで歩いていた。
雨が降りそうだったので、少し早足だった。
途中に小さな公園がある。
いつもそこを横切る。
その日も横切った。
それだけだった。
公園を抜けると、知らない道に出た。
最初は道を間違えたと思った。
振り返った。
公園はなかった。
代わりに森があった。
「……は?」
たぶん、それが最初に言った言葉だった。
スマートフォンを取り出した。
圏外。
地図も使えない。
もう一度振り返った。
やっぱり森だった。
しばらく歩いた。
舗装された道はなかった。
電柱もなかった。
車も走っていなかった。
代わりに、馬に似た動物が荷車を引いていた。
角が三本あった。
御者に道を聞こうとした。
言葉は通じた。
どうして通じるのかは分からなかった。
向こうも、俺の格好を見て不思議そうな顔をしていた。
その日の夕方には、近くの町に着いた。
石でできた壁に囲まれていた。
入口には槍を持った男が立っていた。
中に入ると、知らない形の建物が並んでいた。
電線はない。
信号もない。
当然、コンビニもない。
空を大きな鳥が飛んでいた。
鳥だと思ったが、翼が四枚あった。
少し見上げた。
すごいな。
と思った。
それだけだった。
*
魔法を初めて見たのは三日目だった。
宿の主人が、指先に火をつけた。
その火で竈に火を入れた。
「……それ、どうやったんですか」
「何が?」
「今の」
「火?」
「はい」
主人はもう一度やってくれた。
何も持っていない指先に火が灯った。
「やってみるか?」
言われたのでやってみた。
できなかった。
主人は笑った。
俺も笑った。
その日の夕飯は豆の煮込みだった。
味は薄かった。
*
半年が経った。
元の世界へ戻る方法は分からなかった。
最初の一ヶ月くらいは調べた。
似たような人間がいないか。
突然人が現れたという話がないか。
遠くの国なら何か知っている人がいるんじゃないか。
何人かに聞いた。
図書館のような場所にも行った。
分からなかった。
そのうち、金がなくなった。
金がなくなると、戻る方法より今日の飯の方が重要になった。
町の商店で荷物を運ぶ仕事を始めた。
朝、倉庫へ行く。
荷車から荷物を下ろす。
店へ運ぶ。
昼になるとパンとスープが出る。
午後も働く。
夕方に金をもらう。
帰る。
最初に泊まった宿は高かったので、今は小さな部屋を借りている。
ベッド。
机。
椅子。
それだけあれば十分だった。
この世界には魔法があった。
魔物もいた。
少し遠くへ行けば、巨大な獣がいるらしい。
剣を腰に下げて歩いている人も珍しくない。
夜になると、街灯の代わりに魔法で作った光が灯った。
最初のころはいちいち見ていた。
今は見ない。
仕事にも慣れた。
「ナオト、そっち三つ頼む」
「分かった」
「終わったら昼な」
「はい」
荷物を担ぐ。
運ぶ。
置く。
昼飯を食べる。
午後も同じことをする。
たまに同僚と酒を飲む。
笑うこともある。
休日には洗濯をする。
必要なものを買う。
時間が余れば寝る。
日本にいたころと、やっていることはそれほど変わらなかった。
仕事がデスクワークから荷運びになったくらいだ。
スマートフォンは、もう使っていない。
充電が切れてから、机の引き出しに入れたままだった。
一度だけ取り出したことがある。
黒い画面に、自分の顔が映った。
電源ボタンを押した。
当然、何も起きなかった。
また引き出しに戻した。
次の日も仕事だった。
*
世界が変わったところで、俺まで変わるわけではなかった。
朝起きる。
働く。
飯を食う。
寝る。
明日もたぶん同じだった。
それで困ることはなかった。




