1.色彩のある世界から色が消えた日
ヒカリは、歌が上手くなかった。
少なくとも、俺が初めて彼女を見たころは。
高い音になると少し苦しそうで、踊りながら歌えば息が切れる。ダンスだって、よく見ると隣のメンバーより半拍遅れていた。
今日もそうだった。
ステージの端から中央へ走り込んでくるところで、わずかに遅れた。
たぶん、ほとんどの人は気づいていない。
俺は気づいた。
何百回と見てきたから。
ヒカリ自身も気づいていた。
一瞬だけ眉間に皺が寄った。
それから何事もなかったように笑って、次の振りに入った。
青、赤、黄色。
客席を埋め尽くしたペンライトの光が、音楽に合わせて揺れている。
俺の手にも一本あった。
ヒカリの色だ。
曲が終わる。
歓声が上がる。
ヒカリは肩で息をしながら、それでも笑っていた。
最後に一度だけ、ぎゅっと唇を結ぶ。
それから、照れたように笑う。
昔から変わらない癖だった。
俺はあの顔が好きだった。
*
「今日はありがとうございましたー!」
最後の挨拶が終わり、メンバーがステージから消えていく。
照明がついた。
さっきまであれほど綺麗だった客席が、急に体育館みたいに見える。
俺はスマートフォンを取り出した。
通知が大量に来ていた。
『今日のヒカリめっちゃ良かった』
『二番のソロ、上手くなってない?』
『最後泣いてた?』
ファンが好き勝手なことを書いている。
俺も二番のソロは良かったと思う。
昔なら、あの音は出なかった。
それを本人に伝えようとは思わなかった。
握手会に行ったことがないわけじゃない。
でも、ヒカリに自分を覚えてほしいと思ったことはなかった。
俺が何という名前で、どんな仕事をしていて、どこからライブに来ているのか。
そんなことをヒカリが知らなくても、別に困らない。
俺が彼女を知っていれば、それでよかった。
会場を出る。
夜風が、汗をかいた首筋に気持ちよかった。
駅までの道には同じライブ帰りの人が溢れている。
俺はその中を一人で歩いた。
次のライブは来月だ。
その前に新曲が出る。
夏にはツアーもあるらしい。
地方公演に一つくらい行ってもいい。
有給、残ってたかな。
そんなことを考えながらコンビニに寄って、ビールとおにぎりを買った。
別に、大した人生ではない。
三十歳が近づいていた。
仕事は普通。
給料も普通。
会社では、それなりにやっていると思う。
ものすごく評価されることもなければ、怒られることもない。
学生時代の友達とは、たまに連絡を取る。
結婚したやつもいる。
子供ができたやつもいる。
俺には彼女はいなかった。
欲しくないわけではない。
ただ、誰かと付き合って、結婚して、家庭を作る自分を想像しても、いまいち実感が湧かなかった。
昔は俺も、何者かになれると思っていた気がする。
何になりたかったのかは、もう覚えていない。
人並みに勉強して。
人並みに就職して。
人並みに働いて。
その先に何があるのかは、よく分からなかった。
頑張れと言われれば頑張れる。
ただ、何のために頑張るのかと聞かれると困る。
そんな俺がヒカリを知ったのは、五年前だった。
たまたま見た深夜の音楽番組だった。
そのころのヒカリは、本当に下手だった。
後列の端。
笑顔もぎこちない。
ダンスは明らかに周りより遅れている。
なんでこの子、アイドルになったんだろう。
最初はそう思った。
それなのに、次に見たとき、少しだけ上手くなっていた。
また次に見たときには、前に間違えていた振りをちゃんと踊っていた。
半年後。
ライブ映像で、ヒカリは初めて短いソロパートを任されていた。
声が震えていた。
上手くもなかった。
それでも最後まで歌った。
歌い終わった瞬間、ぎゅっと唇を結んだ。
そして笑った。
そのときからだったと思う。
俺がヒカリを追いかけるようになったのは。
才能がある人なら、世の中にいくらでもいる。
努力して成功した人の話だって、いくらでもある。
ヒカリは、そのどちらでもなかった。
少なくとも俺には、そう見えた。
できない。
悔しい。
向いていないのかもしれない。
たぶん本人が一番分かっていた。
それでも、次に見たときにはまたやっていた。
卑屈にならない。
才能がないから仕方ない、と笑わない。
自分より上手いメンバーの隣で、同じ衣装を着て、同じステージに立つ。
その姿を見ると、俺ももう一日くらいやってみようと思えた。
人生を救われた、なんて大げさなことは言えない。
会社を辞めて夢を追いかけたわけでもない。
俺は相変わらず普通の会社員だった。
でも、月曜日が嫌でも、金曜日にはヒカリのラジオがあった。
仕事が面倒でも、来月にはライブがあった。
三ヶ月先に楽しみがあれば、三ヶ月先まで予定ができた。
それくらいでよかった。
*
ヒカリがいなくなったのは、そのライブから十九日後だった。
最初に気づいたのはファンだったと思う。
毎週出演していたラジオを、体調不良で休んだ。
翌日のイベントにも出なかった。
公式から短い告知が出た。
『体調不良のため、出演を見合わせます』
よくある文章だった。
だから、そのときは誰も大して気にしていなかった。
三日後。
告知の文章が変わった。
『現在、本人との連絡が取れない状況が続いております』
意味が分からなかった。
俺は何度も読み返した。
SNSでは憶測が飛び交った。
事件。
事故。
逃亡。
スキャンダル。
家族とも連絡が取れていないらしい、という話まで出た。
事務所は警察に相談していると発表した。
一週間。
一ヶ月。
三ヶ月。
ヒカリは戻ってこなかった。
最初のころは毎日検索した。
朝起きて名前を検索する。
昼休みに検索する。
帰宅して検索する。
知らないアカウントの「見かけた」という投稿を開く。
根拠のない動画を見る。
何度も騙された。
半年くらい経ったころには、一日に一度になった。
そのうち、一週間に一度になった。
そしてある日。
寝る前に布団の中でスマートフォンを触っていて、ふと気づいた。
今日、ヒカリの名前を一度も検索していない。
罪悪感はなかった。
悲しくもなかった。
ただ、
ああ。
と思った。
それからも仕事には行った。
飯を食った。
テレビを見た。
笑うこともあった。
生活は、驚くほど何も変わらなかった。
次のライブだけが、なくなった。




