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1/83億の影響力  作者: 三井
2章【それぞれの日常】

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02

 「繰り返す。行方不明になっているのは株式会社白亜の社長、三木坂麗雅(みきざか りあな)、三十五歳。昨日、出張先から戻る予定であったが会社に出勤せず、本人との連絡も一切途絶えている。一週間前に向かったとされる出張先に確認をとるも、現地には訪れておらず、先方も連絡が取れずに困惑しているとのことで――」


 警察無線から聞こえる富津頭一課長の声は、相変わらず冷静沈着そのものだった。しかし、その内容を手帳にメモする大和の手には、自ずと力が籠もっていた。


 法定速度を厳守し、極めて慎重にハンドルを握っている陽菜の手元も、心なしか強張っているように見える。


「大和さん、一週間前ってことは……」

「ああ。村井の家にあの『両手』が届いた時期と、社長が行方不明になった時期が完全に一致する。それに、鑑識が見つけたあのナンチャラっていう高級美容成分。白亜の女社長なら、日常的に使っていても何らおかしくねえ」

「じゃあ、あの両手は――」

「白亜の三木坂麗雅のもんだろうな……」


 これまでの捜査内容と完全に辻褄は合っている。だが、鑑識からDNAや指紋が一致したという正式な報告がない以上、まだ断定はできない。それでも、長年死線をくぐり抜けてきた大和の直感は、あれは三木坂の手だと告げていた。行方不明者情報を無線で繰り返し流している富津頭も、きっと同じ結論に至っているはずだ。


「白亜の社長といえば、自らハンドモデルを務めるほど手が綺麗なことで有名ですもんね……」

「それに、あれだけの大企業ともなれば、裏での恨みや妬みの種は尽きねえからな」


 美容に極めて疎い大和ですら耳にしたことがあるくらい、株式会社白亜は国内トップクラスの美容・衛生企業だった。なかでも、自らCMに出演してハンドクリームを宣伝する三木坂麗雅は、SNSでも絶大な人気を誇る美女社長として知られている。


「……でも、村井さんがそんな有名人と知り合いだなんて話、一度も聞いたことがありません。二人は一体、どんな関係だったんでしょうか?」

「さあな。村井の口から三木坂の名前は一度も出てこなかったから、今の段階じゃ分からねえ。だが、何らかの濃い『接点』があるのは間違いねえだろ」

「接点……。絶対に見つけ出しましょう!」

「当たり前だ。ああ、でもまた先走って空回りすんなよ? 子守はごめんだからな、陽菜っ子」

「分かってます!」


 それから数十分後。いくつかの交差点を曲がった二人の視界に、巨大な高層ビルが立ち並ぶ整然としたオフィス街が飛び込んできた。


 行き交うビジネスパーソンたちを横目にしばらく車を走らせ、やがて目的の場所に到着する。周囲を威圧するように堂々とそびえ立つ高層ビル――そこが、株式会社白亜の本社だった。


「でっけえビルだなあ」

「はい……すごいです」


 これぞ大企業と言わんばかりの威容に圧倒されながら、二人は重厚なガラス扉をくぐった。


 本部の捜査会議室がいくつも収まりそうなほど広大な受付ロビーには、警察署のパイプ椅子とは段違いに座り心地の良さそうな高級ソファが並んでいる。すれ違う社員たちの身なりも一様に上品で、大和が着ている三十年以上前の着古したスーツや、陽菜が着ている上下セットの安物セールスーツを着ている人間など、天地がひっくり返っても見当たらない気がした。


 場違いな気恥ずかしさを覚えつつも受付カウンターへ進むと、対面した女性は、マニュアル通りのにこやかな笑顔のまま問いかけてきた。


「おはようございます。本日はどのようなご用件でしょうか?」

「どうも。――俺たちはこういう者なんですがね。こちらの『訪問者リスト』、ありますよね?確認させてください」

「お願いします」


 二人が差し出した警察手帳を目にした瞬間、受付の女性の顔から、すっと美しい笑顔が消え失せた。


「あ、ええと、はい……。か、確認いたしますので、少々お待ちください」


 明らかに動揺を孕んだ震える声でそう言うと、彼女は慌てた様子で内線電話を取り、どこかへ掛け始めた。

 受話器を耳に当てながら、時折チラチラとこちらを盗み見てくる彼女の瞳には、突然の警察への不信感というよりも、もっと生々しい『恐怖感』が強く表れていた。


――社長が行方不明だという不穏な噂は、もうすでに、この社内に広まっているのかもしれない。


「お待たせいたしました。担当の者が参りますので、奥の応接室へとご案内させていただきます。なお、こちらがお二人の入館証になります」


 ぎこちない笑顔を浮かべた受付の女性が差し出してきたのは、二枚のプラスチックカードだった。クレジットカードほどのサイズで、表面には『入館許可証』の文字と、管理ナンバー、そしてバーコードが印字されている。

 どうやら入館口に設置された最新鋭のセキュリティゲートを通過するには、このカードの認証が必要な構造のようだ。


「ご丁寧にどうも」

「ありがとうございます」

「では、ご案内いたします」


 女性は『しばらくお待ちください』と書かれた卓上札を受付カウンターに置くと、くるりと背を向けて入館口へと歩き出した。

 陽菜は大和の後に続き、カードをかざしてセキュリティゲートを通過する。長いエレベーターホールを抜け、幾重もの自動扉をくぐっていく。


「こちらでお待ちください」


 二人が案内されたのは、重厚なローテーブルを囲むように、ふかふかの一人掛けソファが四つ配置された高級感漂う応接室だった。

 受付ロビーやセキュリティゲート、廊下にはこれでもかと監視カメラが設置されていたが、さすがにこの部屋の内部には、それらしきレンズは見当たらない。


「まあ、所構わず設置してるわけねえか」


 黒革のソファに深く身体を沈め、大和はおもむろに警察手帳一体型のメモ帳を開いた。

 頬杖をつきながら、この一週間で徹底的に調べ上げた村井琴の周辺関係者の名前を見返し、彼らのこれまでの言動を一つずつ振り返っていく。これから提示される白亜本社の訪問者リストの中に、怪しい名前が紛れ込んでいないかを見極めるためだ。


 ――エリート行員、長須賀博(ながすか ひろし)、四十二歳、男。村井が勤めている銀行の、現・支店長。


 大和の意識は、アポなしでその銀行へと突撃した、数日前の聴取の記憶へと引き戻されていく。


 品のあるネイビーの三つ揃えスーツを着こなし、顔に張り付けたような隙のない営業スマイルを浮かべている男の前に、大和はぬっと立ちはだかった。


『お忙しいところすんませんねえ。長須賀博さん、っすよね?ちょっと、お耳を拝借したいんですが』

『いらっしゃいませ。長須賀は私でございますが……本日はどのようなご用件でしょうか?』

『お宅の銀行で、村井琴って女性職員が働いていますよね。彼女に関して、いくつか伺いたいことがありましてねえ』


 大和が懐の警察手帳が見えるように、わざとらしくジャケットの内側を覗かせると、長須賀の視線がそっと微動した。手帳の金バッジを捉えた直後、何事もなかったかのように再び大和へと視線を戻す。


『分かりました。では、奥の応接室へとご案内させていただきます』


 長須賀は近くの女性行員に目配せで何かを伝えると、大和と陽菜を促して奥の静かな部屋へと案内した。


『改めまして。当支店で支店長を務めております、長須賀博です』


 部屋に入るや否や、洗練された動作で名刺を差し出してきた長須賀に対し、大和と陽菜もそれぞれの警察名刺を差し出した。


『どうも。志賀大和です』

『頂戴いたします。生活安全課の倉本陽菜です』

『頂戴いたします。……なるほど、捜査一課の志賀刑事と、生活安全課の倉本刑事、ですか。どうぞ、お掛けください』


 ビジネスシーンにおける極めてありふれた名刺交換の光景。しかし、大和の鋭い眼光はその違和感を見逃さなかった。長須賀の視線は、陽菜の「生活安全課」の名刺よりも、凶悪犯罪を専門に扱う自分の「捜査一課」の文字に対して、あきらかに長く、そして深く注がれていたのだ。


――これは、ひよっこには荷が重すぎるかもな。


 おそらく長須賀は、一課が担当するような凶悪事件の捜査手法に関して、それなりの知識と防衛策を持っている。ゆえに、警察側が何気ない質問を投げかけているつもりでも、その奥に隠された『本当に聞き出したい意図』を瞬時に察知する可能性が極めて高い。

 後ろめたいことが何もない人間なら素直に答えてくれるだろうが、この世に秘密のない人間など存在しない。ましてや、もし彼が犯人、あるいは何らかの共犯者であった場合、生半可なアプローチでは絶対に真実を顔を出さないだろう。


「それで……当行の職員である、村井に関することでしたね。何かトラブルでもあったのでしょうか?」

「申し訳ございません。捜査の詳細に関することはお伝えできない決まりですので、私、倉本からいくつかご質問させていただきます。個人的な感覚で構いませんので、村井琴さんの普段の印象や勤務態度について教えていただけますか?」

「村井さんの印象、ですか。勤務態度に関していえば、非常に真面目な職員ですよ。無断欠勤や遅刻は一度もありませんし、仕事も丁寧で正確、かつ素早い。上司としては本当に助かっています」

「ああ……そう、ですか。で、では次に、他の行員の方たちとの――」

「ちょーっとすんません!こいつ、大物の支店長さんを前にして緊張しちまってるみたいなんで、ここからは俺が代わりにいいっすか?その方が早く終わりますんでねえ」


 大和は「すんません、すんません」と胡散臭くペコペコ頭を下げながら、陽菜から強引に主導権を奪い取った。

 事前に二人が決めていた作戦では、陽菜が事務的に話を振り、その受け答えをする長須賀の微細な表情の変化を大和が横から観察して違和感をあぶり出す――という手筈だった。しかし、長須賀のあの鉄壁のガードを前にしては、そんなマニュアル通りの聴取など何の意味もなさず、ただ煙に巻かれて終わるだけだと直感したからだ。


「構いませんよ。私もこの後、大切なお客様とのお約束がございますので」

「おっ、話が早くて助かります。長須賀さん、確かご自慢の奥様は、ご自身より一回り以上も若い方でしたよね?やっぱり男ってのは、いくつになっても『若い女性』を見ると、無条件で守ってあげたい、助けてやりたいって思ったりするもんですかねえ?」


 大和の下俗な質問が鼓膜を叩いた瞬間、長須賀の頬の筋肉が、一瞬だけピクリと不自然に強張った。


 だが、それもほんのコンマ数秒の出来事だ。すぐさま彼の口元は、完璧に計算し尽くされたビジネス用の三日月形へと戻る。


「そうですね。ですが私は年齢や性別に関わらず、困っている方がいればどなたにでも等しく手を差し伸べたいと考えております。それは刑事さんも、同じではありませんか?」

「まあ、国民の命を守るのが警察官の仕事ですからねえ。でも、普通の会社だと、上司が若い部下に手を差し伸べすぎると、セクハラだのパワハラだの……最悪は不倫だのって、面白おかしく噂されちゃいますからね。いやあ、お互い生きづらい世の中っすよねえ」

「ご心配には及びません。当行では外部相談室の開設や定期的なハラスメント研修を行い、徹底したコンプライアンス対策を講じております。幸い、我が支店も風通しの良い環境であると自負しておりますので」

「さすが大手銀行様だ。それなら社内の格差に対する恨みや妬みなんて、これっぽっちも存在しないんでしょうね。――あ、でも、単にドロドロした現実が、支店長様の高いお耳にまで届いてないだけ、だったりしますかね?」

「……申し訳ございませんが、そろそろ大切なお客様とのお約束の時間ですので。本日はこれでお引き取りください」


 長須賀は静かに応接室のドアを開け放ち、慇懃無礼に退出を促した。その顔は、口角だけが機械的に吊り上がっており、目は一切笑っていなかった。


 ――その後、銀行の他の行員たちにも順次話を聞いて回った。


 だが、村井琴に関しては、突然の休職に対する純粋な心配や戸惑いの声ばかりで、怪しい交際関係や黒い噂は一つも出てこなかった。


 一方の長須賀については、数ヶ月前に別の主要支店からこの店舗へ異動してきたばかりだという。本人は大和に対して「ただの上の決定です」と理由を濁していたが、周囲の行員たちの間では、とある『超大企業との大型再契約』を確実に成立させるために、エースとして送り込まれたのだと噂されていた。


 それ以外、長須賀に関する評価は「部下思いの良い上司」「優秀」「堅物」といった模範的なものばかりで、目ぼしい経歴の汚点や特殊な交友関係は一切なく、有益な情報は完全に途絶えていたのだが……。


「……担当の方、遅いですね」


 過去の記憶から、冷ややかな現在の空気へと意識が引き戻される。


 声のした方へと視線を送ると、白亜本社の応接室のドアの前を、手持ち無沙汰そうに行ったり来たりしている陽菜の姿がそこにあった。


「うろちょろしてねえで、陽菜っこも座れよ。先に着いてた奴らを優先して、俺たち警察を後回しにするなんて、今に始まったことじゃねえだろ」


 いつものことだと吐き捨て、大和は再び手帳へと視線を落とした。

 いくつかページをめくり、捜査会議で『第一容疑者候補』として挙がった、ある人物の名前が記載されたページで指を止める。


――”何もない女”、佐藤彩美(さとう あやみ)、二十三歳、女性。村井琴の交際相手の、元恋人。


 彼女は現在、とある大手企業のコールセンターでオペレーターとして勤務している。大和の意識は、その職場へと直接乗り込んだ数日前の記憶へとスライドしていった。


『お忙しいところすんません。……佐藤彩美さん、ですよね?』

『そうですが……あの、どちら様ですか?』

『俺たちはこういう者でしてね。少しばかり、お話を伺わせてください』


 大和と陽菜が同時に警察手帳を提示すると、佐藤は分かりやすく息を呑んだ。

 やましいことがあろうとなかろうと、自分の職場に突然警察がやってきて「話を聞きたい」と告げられれば、誰だって動揺を隠せないものだ。


『わ、わたし!?何も悪いことなんてしてないけど……っ』

『ええ、それをハッキリ証明するためにも、少しいいっすかね?』

『……分かりました。で、でもあっちで!奥の休憩室でいいですか!?』


 困惑と焦燥の入り混じった表情で、佐藤は廊下の先を指差した。

 彼女の背後に広がるオペレーション室は全面ガラス張りだ。他の社員たちに警察沙汰の現場を見られるのが、たまらなく嫌なのだろう。


『話が聞ければどこでも構いませんよ。案内、お願いできます?』

『はい。……でも、上司に一言伝えてから行くので、先に行っててください。ここを真っ直ぐ行った突き当たりにある部屋ですから』

『わっかりました。――けどすんませんね、俺たちはここで待たせてもらいます。佐藤さんが逃げ出すなんてこれっぽっちも思っちゃいないっすけど、これも一応、警察の決まりなもんでねえ』

『なっ!わたしは逃げたりなんか絶対にしません!すぐ戻ってきますから、そこで待っててください!』


 佐藤は鋭く言い放つと、足早にオペレーション室へと入っていき、数分もしないうちに尖った足音を立てて戻ってきた。


『……こっちです』


 こちらを激しく睨みつけ、苛立ちを隠さずに廊下を進む佐藤の背中。彼女は明らかに不機嫌で、その態度は反抗的かつふてぶてしい。


 だが、大和はその「感情の揺らぎ」を見て取り、隣を歩く陽菜にだけ聞こえるような小声でそっと囁いた。


『おい、やり方は分かってるよな?ここは、お前に任せたぞ』

『――はい。頑張ります』


 力強く頷いた陽菜の肩を、大和はポン、と優しく叩いた。相手が感情的になっている今この瞬間なら、刑事としての経験が浅い陽菜であっても、上手く本音を突いて情報を引き出せるはずだ――そんな大和なりの無言の激励が、その掌から伝わってくるようだった。


『それで、警察がわたしに一体なんの用なわけ?』


 休憩室に入るや否や、佐藤は手前のパイプ椅子を引きずって乱暴に腰掛け、こちらを激しく睨みつけてきた。


 事前調査通りの、かなり気の強い女性だ。しかし、生活安全課の人間として、日頃から歓楽街で反抗的な少年少女を嫌というほど相手にしてきた陽菜にとっては、下手に鉄面皮を崩さないエリートよりも、こうして感情を剥き出しにしてくるタイプの方が、むしろ扱い慣れた領域であった。


『お時間をいただきありがとうございます、佐藤彩美さん。改めまして、今回の事件の件でお話を伺いに参りました、倉本陽菜といいます』

『あんたが誰かなんてどうでもいいから。さっさと用件を言ってよ』

『はい。では単刀直入にお聞きします。あなたの元交際相手である、飯坂俊治(いいさか しゅんじ)さんの現在の恋人について、何かご存じですか?』

『……知らない』


 真っ直ぐに佐藤の瞳を見つめる陽菜に対し、佐藤はあからさまに視線を斜め下へと逸らした。


『そうですか。では、村井琴さんという女性なのですが……こちらの顔写真、見覚えはありませんか?』


 陽菜は内ポケットから、あらかじめ用意していた村井と飯坂が仲睦まじく写っている写真を取り出し、テーブルの上へ提示した。

 佐藤の瞳が一瞬だけ激しく見開かれる。しかし、彼女はすぐにまた、忌々しげに視線を跳ね除けた。


『っ……知らないわよ、そんな女!』

『ですが、飯坂さんのSNSには彼女との写真が何枚も投稿されています。佐藤さんは今でも飯坂さんのアカウントを熱心にフォローされていますよね。本当に、一度も見かけたことはありませんか?』

『くどい!知らないって言ってるでしょ!』


 声を荒らげ、思い切り机を叩く佐藤の視線は鋭く、剥き出しの攻撃性に満ちていた。


『分かりました。では質問を変えます。彼女――村井琴さんとは、一体どのような女性だと思いますか?』

『は?どんなって……普通の女でしょ。会ったこともないから知らないけど』

『普通、とは……もう少し具体的に教えていただけますか?』

『だから!ちゃんとした学歴があって、誰もが知ってるような大手銀行に勤めてる、あくせく働かなくても生きていける普通の女だよ!……資格も何も持っていない、わたしなんかとは大違いのね!』


 吐き捨てるようにそう言い放ち、膝の上で拳を硬く握りしめる佐藤の瞳からは、どろりとした猛烈な悔しさが滲み出ていた。

 彼女は、大学を卒業してエリート行員として働く村井とは違い、高校を卒業してからいくつかのアルバイトを転々として生計を立ててきた。二十歳で一度キャバクラ嬢に転職したが、飯坂との交際を機に、現在のコールセンターの契約社員へと再転職している。


 事前に飯坂の友人から得ていた情報では、彼女が夜の街を辞めたのは飯坂と結婚するためだったらしい。しかし、二人の関係は結ばれることなく破局を迎えた。その後もずっと復縁を強く望み続けている佐藤を置き去りにして、飯坂は村井と出会い、現在は結婚を前提とした真剣交際へと舵を切っていた。


『では、元恋人の飯坂俊治さん自身については、現在どう思われていますか?』

『……あんな男、もう、なんとも思ってないよ。世の中にはもっといい男なんて星の数ほどいるんだから』

『星の数ほど、ですか。……では最後に一つだけ。もし、飯坂さんと村井さんがこのまま正式に結婚されるとなった場合、お二人のことを祝福できますか?』

『ええ、もちろん。二人で手を引き合って――そのまま地獄に堕ちればいいわ』


 顔に歪な微笑を浮かべた佐藤の目の奥から、一瞬だけ鎌首をもたげたドス黒い憎悪の感情。それは、大和がこれまで幾度となく本物の殺人犯たちから見てきたものと、全く同じ色をしていた。


 その後の同僚や友人への地道な聞き込みからも、彼女が村井に対して抱いている怨恨の深さは色濃く裏付けられていった。


 しかし――彼女の身辺をどれほど精緻に調べ上げても、人体を正確に損壊できるような特殊な経歴や、液体窒素を調達できるような怪しい交友関係は、何一つとして見つからなかった。殺意の熱量だけは一級品であっても、犯行を実行できるだけの『技術』が彼女には決定的に欠落していたのだ。


 そうして彼女は、警察が作成した容疑者リストの最上位(第一容疑者)から、静かに名前を外されることとなった……。


――クソが、どっちだ!?


 この一週間におよぶ聞き込みのやり取りを脳裏で思い返し、怪しい人物を二人にまで絞り込んだ大和は、どちらをより疑うべきか、改めて思考を整理した。


 銀行員である長須賀。彼と大手企業の女社長である三木坂の関わりといえば、真っ先に金融関連のパイプが思い浮かぶ。現に行員たちも、長須賀は『超大企業との大型再契約』のためにこの支店へ異動してきたのだと噂していた。もし、その大企業というのが今いる『白亜』だったとしたら――いや。間違いねえ。あいつの狙いは、この会社だ。


 大和自身には縁のない話だったためうろ覚えではあったが、確か白亜は数年前、三木坂が若くして社長に就任したタイミングで、長年取引のあったメガバンクを別の銀行へと切り替えたはずだ。大口顧客の引き留めも再契約もできなかった前支店長が更迭され、その穴埋めとしてエースである長須賀が送り込まれた――そう考えれば、すべての辻褄が綺麗に合う……。


 一方、コールセンターの佐藤。彼女と三木坂に一見すると直接の関わりはなさそうに思えるが、佐藤がかつて籍を置いていたキャバクラは、都内でも名が通った高級店だった。多種多様な企業の幹部連中が、夜な夜な接待で使っているような店だ。白亜の人間が出入りしていたという確実な証拠はまだないが、その夜の街を媒介にして、白亜の関係者と何らかの濃い接点が生まれた可能性は十分に考えられる。それに何より、佐藤が日常的に愛用していたあのハンドクリームは、白亜の主力製品だった……。


――ああ、もう……ヤメだ、ヤメッ!


 一通り頭を働かせた大和は、パチンと乱暴に手帳を閉じると、天井に向けて両腕をぐっと伸ばして熟考を放棄した。いくらここで頭をこねくり回したところで、これから開くリストにそいつらの名前が記載されていなければ何の意味もない。


 それに大和は、自分という人間をよく理解していた。どれほどそれらしく論理を組み立ててみたところで、結局のところ自分は理論派の刑事などではなく、最後に頼るのは、現場で磨いてきた自分の『勘』なのだ。


「失礼いたします……。訪問者リストをご所望の刑事様は、こちらの部屋でしょうか?」


 慎重なノックの音に続いてドア越しに聞こえてきた声は、ひどく控えめで、どこか聞き取りづらいほどに怯えていた。


「そうです!担当の方ですね、どうぞお入りください!」


 隣で瞬時に反応した陽菜が、待ち兼ねたように応接室のドアを勢いよく開け放つ。そこには、一人の若い男性社員がポツンと立っていた。


「っ!し、失礼いたします……!」


 男は気圧されたように目を泳がせながら入室してくると、ビクビクと肩を震わせながら、大和の座るソファの元へと小走りで駆け寄ってきた。


「お待たせしてしまい、大変申し訳ありません。現在、担当部長が別の緊急対応に追われておりますので、代わりに私がお持ちいたしました。こちらが、ご指定期間の訪問者リストになります」


 ローテーブルの上に、ドサリといくつかの分厚いファイルが並べられた。表紙にはそれぞれ年月日が記載されており、一日ごとに細かく分類されているようだ。


 陽菜と若い社員が「申し訳ありません」「いえ、こちらこそ」とペコペコ頭を下げ合っているのを完全に無視して、大和は三木坂麗雅が出張に向かい、そのまま消息を絶つ前日の日付が貼られたファイルをひったくるように手に取った。そのまま、凄まじい勢いでページをめくり、中身を走査していく。


「清掃業者、総務課。営業、営業課。取引先、宣伝広報課……」


 一人また一人、訪問者の要件と受付の時間を指先で追いながら、これまでの捜査線上で見たことのある見覚えのある名前を貪るように探していく。


 そして、ある1ページに刻まれた文字列に視線が止まった瞬間――大和の口元が、獰猛に釣り上がった。


「いたぞ……っ! やっぱり、お前か!」


 そこには、大和の『直感』が導き出した通りの、あの人物の名前が冷酷に印字されていた。

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