04
意気消沈。
駐車しているコインパーキングへととぼとぼと戻る陽菜は、体全体でその言葉を体現していた。
「……はあ」
五回目のため息をついた頃、昼時の賑わいを見せる商店街へとたどり着いた。
いつもなら腹の虫を刺激するはずの、パンの焼き上がる香ばしい匂いや揚げ物の匂いも、今の陽菜には全く届かない。ただただ『役に立てない』『無能』という自虐的な思考だけが、頭のなかをぐるぐると虚しく回っていた。
――必死に、やってきたつもりだったんだけどな。
陽菜は生活安全課に配属されてから、大人ぶろうとする子供たちが何気ない毎日を当たり前に送れるように奔走してきた。事件を起こさせないように、あるいは巻き込まれないように、欲望と嘘が渦巻く歓楽街を幾度となく走り回ってきたのだ。
だからこそ、通行人が普通に行き交い、店員と客が穏やかに談笑している温かい雰囲気のこの商店街は、本来なら心が最も落ち着く大好きな場所だった。
けれど、純粋な悪意に満ちた、あのドス黒い一課の世界を目の当たりにした今。のどかな日常に安堵してしまう自分は、ただぬるま湯に浸かっているだけではないかと心苦しくなる。自分がこれまで培ってきた『共感力』や『寄り添うアプローチ』が一切通用せず、足手まといにしかならないあの世界からは、さっさと身を引くべきではないか――そんな弱気が、次々と鎌首をもたげた。
「相談、なんて……できるわけないよね」
一応大和は陽菜の指導係という立場だが、数時間前に『手取り足取り教えねえし、励ましもしない』と言い渡されたばかりだ。仮にすがるような態度で相談したところで、『自分の進退くらい自分で決めろ』と冷たく突き放されるのがオチだろう。
それでも、僅かな期待を捨てきれずに陽菜はスマホを取り出し、画面に表示された大和の連絡先をぼんやりと見つめた。
その、次の瞬間だった。
「――っ!な、何!?」
不意に耳を突いたけたたましい拍手と大歓声に、陽菜はびくりと肩を震わせた。
強制的に現実へと引き戻された視線の先、商店街の広場らしき開けたスペースに、何やら幾重もの人だかりができているのが見えた。
――あれは……喧嘩!?
思考よりも先に、陽菜の身体は走り出していた。
いつもは二人一組で見回るが、今は自分一人しかいない。相手が大柄な男だった場合、単身での鎮圧には骨が折れるだろう。それに、この地域は自分の担当管轄外だ。余計なお節介を焼けば、後から駆けつけた現地の担当警察官に何を言われるか分かったものではない。
だが、それでも陽菜の足は止まらなかった。
完全に抑え込めなくても、せめて致命傷になる前に割って入ればいい。
後でどれだけ嫌味を言われても、その矛先が自分に向くだけならどうということはない。
いがみ合う彼らが、もう一度前を向いて歩める可能性さえ残せれば、それで十分だから――。
しかし、必死に人だかりの最後尾へとたどり着いた瞬間、陽菜は呆然と立ち尽くすことになった。
「温かい拍手をありがとうございます!さあ、次はこのコインにご注目ください」
人々が熱い視線を注いでいたのは、一人のスーツ姿の男だった。男はニコニコと人懐っこい笑みを浮かべ、周囲に「普通のコインですよ」と証明するように、指先の一枚を掲げて見せている。
端から端まで観客に見せ終わると、指の隙間で器用にクルクルとコインを転がし――親指で鮮やかに宙へと弾いた。
「ハッ!」
落ちてきたコインを手の甲で見事にキャッチし、覆っていたもう片方の手をそっと持ち上げる。するとそこにあったはずのコインは消え失せ、代わりに二つの小さなサイコロが転がった。
「「おお――っ!」」
観客たちから一斉に沸き起こる歓声と拍手を浴び、男は満足そうに深く一礼している。
――なんだ……路上パフォーマンスか。
事態を把握して冷静になった陽菜は、人だかりの最後列で荒い呼吸を整えつつ、マジシャンらしきその男の周囲へ、無意識に視線を巡らせた。
彼と観客を隔てる境界線には、パカリと口を開けたトランクが一つ。中にはいくつかの硬貨が入っている。投げ銭箱だろう。
その隣には、組み立て式の卓上譜面台。中央にはラミネートされたクリアファイルが置かれ、それを風で飛ばないよう押さえるように、サルとネコの小さなぬいぐるみが両端にちょこんと添えられている。
書かれている文字までは距離があって読めないが、そのフォーマットは、陽菜がこれまでに何度も確認してきた『道路使用許可書』のものに酷似していた。
「よし、無許可の路上営業じゃ……って、私、今は一課の人間だった」
人混み、喧嘩、仲裁、と脊髄反射的に動いてしまっただけでなく、ゲリラパフォーマンスの許可取り確認まで無意識のうちに行っていた。自分がどれほど生活安全課としての日常を骨の髄まで染み込ませているか、陽菜は嫌というほど痛感させられた。
と同時に、なぜだかこの賑やかな場から足を遠ざけることが難しくなり……陽菜はほんの少しだけ、その不思議なマジックを観覧していくことにした。
「今度はこのリングを使いたいと思います。よろしければ手拍子をいただけますでしょうか?」
男は二つの金属製のリングを両腕にかけ、リズミカルに手を叩きだした。観客たちも彼のテンポに合わせて手拍子を始める。もちろん、陽菜もその一人だった。
そうして「次で終わりにしよう」「これが終わったら立ち去ろう」と自分に言い聞かせること、数回。
「最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!」
男のパフォーマンスは、盛大な拍手の中で終わりを迎えた。
観客たちは、深々と頭を下げる男に惜しみない喝采を送り、思い思いの投げ銭をトランクに入れていく。最後までがっつり観覧してしまった自分に少し焦りつつも、陽菜は財布を片手に投げ銭の列の最後尾へと並んだ。
「ありがとうございます」
「楽しかったよ」
「ありがとうございます」
「頑張ってね」
「ありがとうございます」
チップと声援を受け取るたびに、男は丁寧に頭を下げた。それを繰り返すうちに彼の瞳はほんのりと潤みだし、感謝を伝える声が小さく震え始める。
――すごいな……。
目の前で熱心に頭を下げ続ける男は、おそらく陽菜と同じ二十代後半だろう。しかし、体のラインは陽菜よりもずっと細く、どこか弱々しい印象を受ける。
投げ銭箱がわりに置かれたトランクも、アンティーク風というには少々厳しく、あちこちの革が剥がれて傷だらけだった。お世辞にも、生活に余裕があるようには見えない。
だからこそ、自分の番が回ってきたとき、陽菜は用意していた硬貨ではなく、そっと千円札をトランクへと滑り込ませた。
「素敵なマジックをありがとうございました」
「ありがとうございます!そう言っていただけて、本当に嬉しいです」
「これからも応援しています。あ、そうだ……よかったらこれもどうぞ」
陽菜はふと、先ほど柚木から貰った焼き菓子がポケットに入っていたことを思い出し、そっと取り出して差し出した。
「え、いいんですか?」
「はい。さっき知り合いにいただいたお菓子で――って、ごめんなさい!見ず知らずの人間から食べ物なんて、かえってご迷惑ですよね」
「そんなことありませんよ。あ、でも……そのお菓子は、お客さんが自分で食べてあげてください。じゃないと、それをお客さんにあげた人の想いがかわいそうですから」
「想い、ですか?」
「ええ、想いです。このお菓子には『お客さんに喜んでほしい』『元気になってほしい』。そんなあたたかい想いが込められている気がするんです」
一見すると耳障りの良い綺麗な言葉だ。けれど冷静に考えれば、「出所の分からない見知らぬ他人からの食品を断るための、角の立たない口実」でしかないのだろう。
それは頭では分かっていた。だが、陽菜は自分の手のひらにある小さな菓子から、どうしても目を離せなかった。
大手メーカーのロゴが入った、どこにでも売っている有名な市販の菓子。スーパーやコンビニで手軽に買えるもので、柚木が陽菜のためにわざわざ調達したものではない。むしろ「余り物だから」と、ぶっきらぼうに手渡されたはずだ。第一、あの淡々と冷徹に解剖データを報告していた柚木が、たかがお菓子にそんな情緒的な想いを込めるはずが――。
「そう、ですね。これは、私がちゃんと食べます」
真実は分からない。けれど、陽菜は自分の心が導き出した答えに従うことにした。
だからこそ、目の前で優しく微笑んでくれる男に、つい突拍子もない言葉を投げかけてしまった。
「……辛くは、ないんですか?」
どれだけ必死に頑張っても、なかなか報われない厳しい現実に。どうしてそんな風に、真っ直ぐ立ち向かい続けられるのかと。
「え?」
「あ!すっ、すみません!いや、その、違くて……ええと、本当にすみません!」
困惑の表情を浮かべる男を前に、陽菜は慌てて何度も頭を下げた。
謝罪したところで、初対面の相手にひどく不躾な問いかけをしてしまった事実は変わらない。けれど、今の陽菜には謝る以外、どうしていいのか分からなかった。
「いいえ。どうぞ顔を上げてください」
「で、でも……」
「でしたら、代わりに笑ってください。僕、人の笑顔を見るのが好きなんです」
恐る恐る顔を上げると、男はどこまでも温和な笑みを浮かべていた。
「……本当に、すみませんでした」
「気にしないでください」
「……強い方、なんですね」
「そんなことありませんよ。僕なんて本当にダメダメで……。大切な人たちの笑顔を守りたいのに、いつも力不足なんです」
そう言って自嘲気味に苦笑いを浮かべる男だったが、その拳はぎゅっと強く握りしめられていた。
その必死な姿が、かつての自分と痛いほどに重なる。陽菜もまた、知らず知らずのうちに自分の拳を握りしめながら、衝動のままに口を開いていた。
「でも……譲れないんですよね」
「え?」
「非力だろうと、小柄だろうと……守りたいものは、絶対に守りたいんですよね!何もできずに、ただ遠くから心配しているだけなんて、もう嫌なんです。私は……二度と後悔したくないんです!」
「???」
突然、大声を張り上げた陽菜に、男は目を丸くして完全にフリーズしてしまった。陽菜の壮絶な過去を知る由もないのだから、初対面の人間としては至極当然の反応だった。
――陽菜が高校生だった頃。
同い年の親友が、知らぬ間に闇バイトに加担し、警察に逮捕された。いわゆる『受け子』としての逮捕だったため、誰の命を奪うこともなかったが、陽菜は彼女がそこまで困窮し、追い詰められていたことに気づいてあげられなかった。誰よりも近くにいたはずなのに、何一つできなかった。勾留されたと報らされてからも、ただただ無力に心配することしかできなかった。
だから、あのとき決意したのだ。今度は自分が、誰かの力になる。大切な人を、この手で守ってみせる、と。
二度と、あんな悔しい思いはしたくない。傍観者のままでいるのは、もう御免だ。
そうして警察官になると心に決めてからは、「女だから無理だ」「小柄だから通用しない」と周囲に幾度となく鼻で笑われても、自らの信念を曲げずに貫き通してきた。
なぜなら――。
「守りたいという想いだけは、誰にも譲れないから」
己の原点を思い出した陽菜の瞳からは、先ほどまでの迷いが完全に消え失せていた。
その真っ直ぐで強い眼差しを正面から受け止めた男は、彼女の覚悟に何かを感じ取ったのか、先ほどとは違う、深い敬意を込めた笑顔を返してくれた。
「はい。絶対に譲れません。……だから、もしまたお会いできる機会がありましたら――」
「もちろんです!その時はぜぇったい、最初から最後までマジックを見させてもらいます!」
「よろしくお願いいたします。……それでは、本日は誠にありがとうございました」
深々と一礼する男に、陽菜ももう一度深く頭を下げ、その場を後にした。
しばらく歩いたところでふとスマホを取り出し、時間を確認する。すると、なんと三十分近くも道草を食っていたことに気がついた。
――やばい!急がないと!
大和からの着信はない。だが、すでに灯教授との面会を終えて車に戻っている可能性は極めて高い。いや、仮にまだ戻っていなかったとしても、この商店街までは来ているかも……。
――志賀さん、志賀さん……。
焦燥感に駆られ、キョロキョロと慌ただしく周囲を見回しながら、大和のあの大きな背中を探す。
すると、その瞬間――。
「そこのお姉さん!メンチカツ買っていかない?今ちょうど揚げたてだよ、美味しいよ!」
威勢の良い声とともに、お惣菜屋のおばさんとバッチリ、目が合ってしまった。
「え?……っ!!」
お惣菜屋のおばさんの視線に誘導され、彼女の手元にある銀のトレーへと視線を落とした。そこへ山盛りにされた黄金色の塊を視認した瞬間、陽菜の口内にじわりと唾液が広がった。
――お、美味しそう……。
拳サイズほどもある大ぶりのメンチカツからは、食欲をそそる湯気が立ち上っている。少し距離があるにもかかわらず、香ばしい肉の匂いが、陽菜の鼻腔とスカスカになった胃袋を猛烈に刺激した。
すると当然のように、陽菜の腹の虫が盛大に鳴り響き、自身が極限の空腹状態であることを激しく主張し始める。
「っ!あ、ええと……ひとつ、いえ、二つください!」
「ありがとね!うちのはソースをつけなくてもそのままで美味しいから、気に入ったらまた買ってね。二つ一緒の袋でいい?それとも別々にする?」
「あ、別々でお願いします」
商売上手なおばさんに代金を支払い、温かい紙袋を受け取る。陽菜はペコッと頭を下げると、これ以上の誘惑から逃れるように足早に商店街を後にした。
――これはお昼ご飯。うん、ちゃんとしたお昼ご飯だから問題ないはず。
誰も何も責めていないのに、陽菜は心の中で自分自身にそう言い訳をした。けれど、紙袋から漂ってくるたまらない匂いに、自然と頬が緩んでいくのを止められなかった。
車を止めているコインパーキングに戻ったが、大和の姿はまだなかった。周囲を見渡してみても、あの大きな背中は見当たらない。
ひとまず、上司を待たせてしまっているかもしれないという焦りから解放され、ほっと安堵の息を吐く。と同時に――。
「……本当にお腹、空いたな」
今度は素直な本音が口からこぼれ落ちた。
いっそ大和の帰りを待たずに、このままメンチカツにかぶりついてしまおうか。しかし、いくらなんでも先輩刑事を差し置いて自分だけ先に休憩に入るなんて……。でも、この匂いは反則だ!と、悶々と葛藤すること数分。
「おう、待たせたな」
不意に声をかけてきた大和は、コンビニのビニール袋を片手に提げて戻ってきた。
「お疲れ様です!何か買ってこられたんですか?」
「ああ。昼飯がまだだったからな」
「ですよね!私も、ちょうど小腹が空いたので……これ、メンチカツを買ってきたんです」
陽菜はメンチカツの魅惑的な香りで大和を巻き込もうと、まだ温もりを保っている紙袋を広げて中身を見せた。
「メンチって、お前……。ったく、だから心配いらねえって言ったんだよ」
頭をガシガシと掻く大和は、何やらぶつぶつと小声で毒づいている。しかし、今の陽菜の意識は完全にメンチカツに支配されていたため、彼が何を言っているのか正確に聞き取れなかった。
「すみません、今なんて――」
「なんでもねえよ。メンチ、ありがたく一個もらうわ。だがひよっこ、お前はその前にこっちだ」
大和は陽菜の袋からメンチカツを一つ器用につまみ上げると、代わりに自分が持っていたコンビニ袋を陽菜の胸元へと突き出してきた。
「あ、はい」
すっかりメンチカツを頬張る口になっていた陽菜だったが、反射的に袋を受け取って中身を確認した。
「……これ、わざわざ私のために買ってきてくれたんですか?」
袋のなかに入っていたのは、一本のミネラルウォーター、小ぶりの鮭おにぎり、そして滑らかなたまごプリン。どれも、ショックで胃が弱っている人間を労わるような、消化に優しいものばかりだった。
「は?んなわけねえだろ。ついでだよ、ついで」
「ついで……。じゃあ、志賀さんはご自分の分に何を買ったんですか?」
「何って……べ、別になんでもいいだろ!とっとと食って、次行くぞ!」
急に顔を真っ赤にして背を向け、助手席のドアを開けた大和の後ろ姿に向かって、陽菜は慌てて声を張り上げた。
「ありがとうございます!大切に、込められた『想い』も全部まとめていただきます!」
「うるせえ。無駄口叩いてないで、さっさと鍵を開けろ、カギ」
「はい!」
そうして陽菜は、どこか不機嫌そうな顔でメンチカツを齧る大和の隣で、ニコニコと束の間のランチタイムを堪能した。デザートには、柚木から貰ったあの焼き菓子も一つ追加して。
「ごちそうさまでした!志賀さん、この後はどう動きますか?」
「今度は……村井の周辺の人間から徹底的に話を拾う。当人以外の経歴や交友関係も、くまなく洗う必要があるからな」
「分かりました。……まずは村井さんが勤めているあの銀行へ向かえばいいですか?」
「ああ、そうだな。今日は銀行を当たって、明日からは交際相手、親族、友人、過去の同級生まで……しらみ潰しに当たっていく。地道で泥臭い捜査だ。覚悟しとけよ、ひよっこ」
「はい。もう、大丈夫です!」
心も身体も温かい栄養で満たされた陽菜は、意気揚々と車のアクセルを踏み込んだ。




