03
【✕✕大学法医学教室・灯教授室】
その重いドアの前で、陽菜は今日何度目になるか分からないため息を吐き出した。
「そんなに緊張する相手じゃねえよ。ともっさんは、気のいいおっさんだ」
大和の言う灯明人教授は、警察がいつも解剖を依頼している法医学の権威だ。深夜の呼び出しだろうが無理な前倒しだろうが、嫌な顔一つせず引き受けてくれる、優しいおっさん――それが大和の評価だった。
「はい。……お忙しいところ失礼します。灯教授はご在室でしょうか?」
陽菜は小さくノックをして声をかけたが、中からの返事はなかった。
数分ほど待ち、再度ドアに手を伸ばそうとした、その時だった。
「何か御用ですか?灯教授なら、今は本館で講義中ですが」
背後から、大量の資料を抱えた白衣姿の女性に声をかけられた。
「あ、すみません。私、捜査一課の……あ、いえ、生活安全課の倉本陽菜と申します。灯教授にお話を伺いたくて参りました」
陽菜が警察手帳を提示すると、女性は小さくため息をつき、「どうぞ」と顎でドアを指して中へ入れてくれた。
銀縁の眼鏡をかけ、長い髪を後ろで一本に結んだ彼女は、室内の明かりを点けると、二人を手前の応接スペースに座るよう促してから部屋の奥へと向かった。
「失礼……します」
大学教授の部屋というだけあって、壁一面――いや、至るところに本や論文の資料が所狭しと積み上げられていた。
部屋の主でなければどこに何があるのか把握できないほど乱雑に見える。しかし、案内された応接スペースだけは綺麗に片付けられており、テーブルの液晶モニターにも埃ひとつ被っていなかった。
「相変わらず、すげえ部屋だな。少しは片付けるよう言ったらどうだ、弟子?」
「これでも片付いている方です。あと、大和さん。ここでは柚木准教授と呼んでください」
「へいへい。失礼しました、准教授さん」
白衣の女性――柚木はこちらを見ようともせず、先程手にしていた資料を淡々と棚に収めている。だが、彼女を見る大和の目は、どこか身内に向けるような温かさを孕んでいる気がした。
「あの……志賀さん。あの方は?」
本人は大和に「准教授」と呼ばせていたが、見たところまだ三十代前半だろう。陽菜は高校卒業後にすぐ警察学校へ入ったため大学の仕組みには疎いが、准教授というポストにはそう簡単に就けないことくらいは知っていた。
「ああ、あいつはともっさんの一番弟子だ」
「准教授です!」
悪びれもせずヘラヘラと笑う大和を睨みつける彼女の瞳は鋭かったが、そこに本物の嫌悪感は含まれていない。
「まったく、変な紹介の仕方をしないでください」
「だったら自分でしろよな」
「っ!分かってます!」
ファイルを片手にこちらへ歩み寄ってくる彼女は、明らかに不機嫌そうだった。けれど陽菜の前に立つと、一度小さく咳払いをしてから、すっと名刺を差し出してきた。
「改めまして。灯教授室の准教授、柚木唯です」
「あ、生活安全課の倉本陽菜です」
「……生活、安全課?」
陽菜も慌てて名刺を差し出したが、それを受け取った唯は、名刺と陽菜の顔を交互に見比べた。それから、隣で盛大にあくびを噛み殺している大和をきつく睨んだ。
「ふぁ~あ……ん? ああ、ひよっこは今回の担当だから問題ねえ。それよりコーヒーくれ。まともに寝てねえんだよ……資料はそこに置いていけ」
「はあ、分かりました。倉本さんもブラックで大丈夫?って言っても、それしか用意がないのだけど」
「お気遣いありがとうございます。ブラックで大丈夫です!」
「よかった。ああ、でも……確かクッキーの残りが、まだあったはずだから、それも持ってくるわね」
柚木はそう言ってファイルを机に置くと、少し足早に部屋を出て行った。
陽菜は改めて席に座り直すと、隣で欠伸を噛み殺しながら手元の資料を眺めている大和の真似をして、手元のファイルを開いた。
――これって……専門用語?
いくつかの患部画像やグラフと共に記載されている、夥しい数の文字。日常生活ではお目にかかれない複雑な漢字や医学用語が多く、畑違いの陽菜には、正直よく理解できなかった。
「……志賀さんは、これ、分かるんですか?」
「なんとなくな……。まあ、詳しい説明は唯が戻ってきてからでいいだろ」
「……そう、ですね」
パラパラと無造作に資料をめくる大和はそれ以上何も言わなかった。陽菜もそれ以上は踏み込まず、文字の羅列を黙って見つめた。
それから数分後、お盆に三つのマグカップとお菓子を乗せた柚木が戻ってきた。
「それで、昨日の今日で何を聞きたいんですか」
「全部だ。昨日、ともっさんが話した見解を、全部俺たちにも教えてくれ」
「ぜ、全部って……。昨日、すでに一課の方で報告を受けているんじゃないんですか?」
「受けたぜ。でも、あれは本部の人間が自分たちに都合よくまとめた書類だ。俺はともっさん本人の、生の所見が知りたいんだよ」
前のめりになる大和に対し、柚木は面倒くさそうな顔でコーヒーを啜りながら、じっと陽菜の様子を窺っている。
その視線を受け、陽菜はすかさず頭を下げた。
「お願いします。私たちに教えてください!」
勢い余って机にゴツンとおでこをぶつけながらも、大和と同意見であることを必死に伝える。
陽菜は今朝、無理やり捜査会議に潜り込んで鑑識の簡易報告こそ耳にできたが、本格的な最初の捜査本部が設置されたのは昨晩のことだ。陽菜もそのとき近くにはいたものの、「管轄外の生活安全課はすっこんでろ」と無情に弾き出されていた。その後、被害者である村井の精神状態が心配で言われるがまま署を後にしたため、昨晩の詳しい報告内容は何も知らない。だからこそ、是が非でもここで情報を掴まなければならなかった。
「……分かりました。私も解剖に立ち会っていましたので、灯教授の代わりにお伝えします。ただし、本部の報告内容と大差ないからって文句は受け付けませんからね」
「はい!ありがとうございます!」
再び強打したおでこを陽菜が涙目で摩っている間に、柚木はノートパソコンを持ってきて応接スペースのモニターに接続した。
直前まで真っ青だった画面が切り替わり、そこへ一枚の画像が映し出される。――真っ白な、まるで陶器で作られたかのような、美しい『両手』の画像だった。
「まず被害者は、二十代後半から三十代前半の女性。送られてきた両手には、特徴的な手術痕や目立つ傷などが一切ないため、現時点での身元特定は非常に困難です。ただ、皮膚や爪から高級な美容成分が検出されました。日常的に美意識が高く、極めて丁寧に手入れされていた人物と考えられます。……あ、メモは取らなくても大丈夫ですよ。その資料にすべて記載してありますから」
「えっ?あ……はい。で、でも私、自分の手で書かないと頭に入らないタイプなんです。だから未だに、学生の頃にできたペンだこが治らなくて」
あはは、と陽菜は引きつった笑みを浮かべた。自分でも引くほど下手くそな誤魔化し方だったが、柚木はそれ以上追及せず、「そうですか」とファイルへ伸ばしかけた手を引っ込めてくれた。
「次に……その、切断面ですが。顕微鏡で精密に確認したところ、血液の滲み――いわゆる『生活反応』が一滴も認められませんでした。このことから犯人は、被害者を完全に死亡させた後に……両手を切断したと考えられます」
「……狂ってんな、クソが」
ぼそりと呟いた大和の一言に、陽菜の全身が硬直した。途端に昨夜、あの凄惨な『手』を目撃してしまった光景が、鮮明に蘇る。
玄関に置かれた、無機質な発泡スチロールの箱。
隙間から静かに溢れ出る、不気味な白い冷気。
蓋を開けた瞬間、瞳に飛び込んできた、艶めく純白の塊。
頭の奥で鳴り響く、本能の警告。
心臓を叩く、次第に早まっていく激しい鼓動――。
――うっ……。
込み上げてくる不快感に、思わず喉が詰まる。あの瞬間から、陽菜はまともに食事も喉を通らないままだ。今にも胃の底から苦いものがせり上がってきそうになる。
「トイレは部屋を出てすぐ右だ。……吐き気が収まるまで、廊下で待ってても構わねえぞ、ひよっこ」
「だ、大丈夫です。最後まで同席させてください。お願いします」
「……勝手にしろ。だが無理はすんなよ。あとで床の掃除をするのはごめんだからな」
大和はモニターへ顔を向けたままなので表情は窺えない。ただ、こちらを見つめる柚木の眉はハの字に下がり、心底心配そうな様子だった。
これ以上足手まといになるわけにはいかない。陽菜は口元を覆いかけていた手を強く下ろし、再びペンを握り直した。
「ご迷惑はおかけしません。柚木准教授、続けてください」
「……分かりました。では、切断面の骨ですが、驚くべきことに一切の微傷もついていませんでした。このことから犯人は、関節が噛み合っている『隙間』を正確に狙って切り落としたと考えられます。つまり、人間の深い解剖知識があるか、あるいは日常的に大型動物の肉を捌いていて、刃物の扱いが桁外れに優れている人物――その可能性が極めて高いです」
「つまり野郎は、肉屋の作業みたいに『骨スキ包丁』で関節の隙間を一撃で狙い、綺麗に離断したってことか?」
「そうです。切断に使用されたのは、市販されている厚刃の片刃包丁だと推測されます」
モニターに映し出された参考画像の刃物は、陽菜のよく知る家庭用包丁よりも刃幅が狭く、切っ先がさらに細く鋭い形状をしていた。だが、専門知識のない陽菜にとっては、ただ凶悪に尖った不気味な刃物にしか見えなかった。
「また、細胞の破壊や冷凍焼けの痕跡が見られないため、じわじわと凍らせる緩慢凍結ではなく、一瞬で凝固させる『急速凍結』。おそらく、液体窒素などが使用されたと考えられます。よって犯人は、液体窒素を扱える環境にあり、なおかつある程度の量を日常的に保持・管理できる人物に絞られます」
「あるいは、切り落とした手をわざわざ凍らせるっつー異常な手間に、進んで協力するクソ共犯者がいるってことか」
「はい。その可能性も十分ありますね」
大和は重いため息を吐き出すと、頭をガシガシと掻きむしりながら、手元の資料を乱暴にめくった。
その隣で、陽菜はただの一言も発することができなかった。
――世界が……違う。
誰かを殺害し、その身体の一部を切り離し、カチコチに冷凍して誰かへ送りつける人間がいる。
そんな狂気に満ちた猟奇的な手口を、顔色ひとつ変えずに淡々と分析し合う人間たちがいる。
……本当に、この人たちは自分と同じ人間なのだろうか。
「被害者さえ特定できれば、もう少し犯人を絞り込めるっつーのに……。なあ、ほかにともっさんは何か言ってなかったか?」
「細かい所見はすべてその資料の通りです。……ただ、事件とは直接関係ないかもしれませんが、『あの箱からも、大した情報は得られないだろうな』と、ぼそりと零していました」
「……さすが、ともっさんだな」
警察は当然、送られてきた両手だけでなく、それが入っていた発泡スチロールの箱も入念に調べていた。
だが、蓋に貼られていた送り状(伝票)は一般的なものとは異なり、届け先である村井琴の名前と住所だけがタイピングされた特殊なものだった。使用された用紙とプリンターの型番こそどうにか特定できたものの、どちらも市場に広く出回っている安価な市販品であり、購入者の特定は実質不可能。おまけに用紙からは指紋はおろか、犯人の髪の毛一本すら採取されていなかった。
「――というわけです。報告は以上です。事件の性質上、鑑定はなるべく急ぎますが、正式な書類の提出まではもう少しお時間をください。何か進展があれば、私から大和刑事のスマホへ直接ご連絡します」
「ああ、頼む。……あと、ともっさんもお前も、もう若くねえんだから、寝られるときはちゃんと寝とけよ」
「ご心配なく。私は大和刑事と違ってまだまだ若いので、夜中に呼び出しを受けて解剖に立ち会おうと、三時間睡眠でも問題ございません」
「へいへい、悪うございましたね。いつもあんがとさん、感謝してるよ」
ファイルをパタンと閉じた大和は、残りのコーヒーを飲み干すと、唯が持ってきてくれた菓子へと平然とした様子で手を伸ばした。その姿をじとっとした目で見つめながら、柚木は「だったら少しは気の利いた菓子折りの一つでも持ってきてください」と毒づく。しかし、大和には聞こえていないのか、あるいは聞こえないふりをしているのか、「ウマいウマい」と能天気に菓子を口へと運んでいた。
凄惨な事件の話を終えた直後だというのに、何事もなかったかのように軽妙な日常のやり取りへと戻っていく二人。その空気についていけず、陽菜はゆっくりと席を立ち上がった。
「すみません。ちょっと……外の空気を吸ってきます」
「わかった。俺はともっさんを待って、話してから戻る。だから車で待ってろ」
「はい。柚木准教授、お忙しい中お話しいただきありがとうございました。コーヒー、ごちそうさまでした」
「気にしないで。――あ、でも、これ一つだけでも持っていって」
柚木はそう言って、お盆の上から焼き菓子を一つ手に取り、陽菜の手のひらにそっと握らせた。
「食べられるときに、無理のない範囲で食べて。ね?」
「……ありがとうございます。いただきます」
手の中に残った小さな菓子の温もりを抱え、陽菜は静かに教授室を後にした。
ふらふらと、何も考えることができないまま、来た道を頼りに歩く。教授棟を抜け、外へと出た陽菜は、そのまま大きく天を仰いだ。
――……私には、無理、なのかな。
瞳に映るどこまでも広大な空は、深く沈み込んだ陽菜の心とはあまりに対照的に、眩しいほどに青く、澄み渡っていた。




