↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/83億の影響力  作者: 三井
4章【壊された心】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/24

06

「おはようございます。失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」

「おはようございます。神楽星那と申します」

「神楽様ですね……。申し訳ございませんが、本日はどのようなお約束をされておりますでしょうか?」

「約束は、していません。でも、どうしても三木坂社長とお話しさせていただきたいんです!どうか、手短で構いませんので取り次いでいただけないでしょうか。お願いします!」


 深々と頭を下げる星那に対し、フロントの受付嬢は、マニュアル通りのにこやかな笑顔のまま冷淡に応じた。


「申し訳ございません。当行では、事前のご約束がないお客様を上階へお通しすることはできかねます。恐れ入りますが、担当の者と改めてアポイントメントをお取りになってから、出直していただきますようお願いいたします」


 顔色ひとつ変えることなく、一言一句狂わずにテンプレート通りの回答をくり返す女性。こうしたアポなしの面倒な突撃来客の対応など、彼女らにとっては日常茶飯事の、慣れきった業務に過ぎないのだろう。

 だが、星那もこれまでに数え切れないほどの窓口や電話口で拒絶され、突っぱねられ続けてきたのだ。今さらこの程度の冷たいあしらいで、心が折れる段階はとうに過ぎていた。

 それに何より、自分にはもう、他に選べる選択肢など残されていないのだ。どれほど煙たがられようと、不審者としてブラックリストに載せられようと……。ここで引くわけには、絶対にいかなかった。


「……それでは、あちらのロビーで待たせていただきます」

「事前のご約束がないお客様を、上階へお通しすることはできかねます。どうぞ、アポイントメントをお取りになってからお越しください」


 受付の女性に慇懃に一礼し、星那は踵を返すと――大企業『株式会社白亜』の、広大なロビーの片隅のソファーへと移動した。


 ――ここ『株式会社白亜』は、かつて神楽サーカス団の最大の大口スポンサーだった。星那の父親が不審な交通事故で急逝し、劇団が長い休業に追い込まれる、あの悪夢の日までは。

 白亜が自分たちの強力なパトロンであった事実を星那が知ったのは、両親を亡くした彼が、若くして仮団長としてサーカスの再開を必死に模索し始めた時のことだ。


 これまでの貯金や物販の売上だけで劇団を経営していくことは、素人目にも不可能なのは明白だった。だからこそ、星那はすぐに過去の繋がりのあった白亜へ連絡を入れたのだ。しかし、当時懇意にしてくれていた先代の社長はすでに一線を退いており、新しく就任した現社長にはまともに相手にすらされず、「陰ながら応援しております」という冷たい社交辞令のメールを一通宛てがわれただけだった。

 その後も幾度となくコンタクトを試みたが、秘書や受付の段階で完全にシャットアウトされ、社長に取り次いでもらえることすらなく、関係の修復は絶望的となっていた。


――これが、みんなを救える最後のチャンスなんだ……。


 ロビーの最果てから、最新鋭の入館口を星那は何時間もじっと監視し続ける。そっと重いため息を吐き出し、膝の上のビジネスバッグを掴む両手に、じわりと烈しい力を籠めて。


 現社長である三木坂は、明日から数週間におよぶ海外リサーチを予定していると、自身の公式SNSに優雅な写真とともに投稿していた。ゆえに、直接対面できるのはこの水曜日の夜――今日が完全なタイムリミットだった。彼女が一度国を離れてしまえば、すべてが手遅れになる。

 連日のように「一度話をさせてくれ」と執拗に電話を入れ、アポもなしに本社まで押しかける行為が、どれほど非常識で異常なストーカー紛いの暴挙であるかなど、星那自身も百も承知だった。それでも、強行するしかなかった。


 白亜の内部で最近業績に焦りが生じており、イメージ刷新のために新たな外部パフォーマーとのコラボや新規契約のパイプを模索しているという極秘の裏情報を、――あの、お弁当を分け合ってくれた心優しい女性銀行員から、"偶然の独り言"として手に入れていたのだから。


 やがて、窓の外の日が完全に暮れ、激しい雨が降り出し、定時を迎えた受付の女性たちが交代で姿を消していったとしても、星那にはただ、ここでじっと待ち続けることしかできなかった。


「……十分だけです。それ以上は、絶対に認められません」

「はい、ありがとうございます……!本当に、ありがとうございます!」


 時計の針が夜の二十時を大きく回った頃。残務処理を終えて帰路につこうとしていた、見るからに迷惑そうな顔をした一人の女性社員が、ついに根負けしたように一枚のプラスチック製の入館証を手渡してくれた。


「社長室は最上階の、さらに奥です。そこの四番エレベーターから上がって、廊下を左に進めばすぐにたどり着けますから」

「分かりました。四番エレベーターで最上階へ上がり、廊下を左、ですね」

「そうです。あ、絶対にほかの部屋には入らないでくださいね。会議室のエリアはもう消灯して誰もいませんし、あなたが盗み出せるような機密資料も転がっていませんから。――それでは、失礼します」

「あ、はい。……本当に、ありがとうございました」


 てっきり社長室の前まで案内してくれるのだと思い込んでいたが、彼女は自分の鞄のストラップを肩に掛け直すと、ひどく疲弊した表情のまま、一瞥もくれずに出口の方へと去っていった。

 お世辞にも好意的な対応とは言えなかったが、終業時間をとうに過ぎたオフィスビルに何時間も居座り続けた、自分が厄介な不審者なのだから自業自得だ。……それは分かっている。分かってはいるのだが、これから向かう最上階で、自分を冷酷に切り捨てたあの三木坂を前に、どのような高圧的な言葉を浴びせられるかと思うと、星那の胃は、雑巾を絞られるようにキリキリと烈しく痛み出した。


――みんな……待っててね。


 エレベーターのなかでそっと両目を閉じ、深く、深く呼吸を繰り返す。脳裏に蘇らせるのは、あの幸せだった神楽サーカスの最終公演の記憶だ。


 眩いばかりに煌びやかな空間。耳を打つ、溢れんばかりの観客の喝采とたくさんの温かい笑顔。

 観た者すべての心が浮き立ち、純粋な幸福感で満たされる夢見心地なひと時を、僕はもう一度、この手で提供したい。

 新団長としての誇りと想いを、今からこの書類に載せて、一つ残らず彼女に伝えるんだ。


 そうして融資を勝ち取りさえすれば――みんなに、もう一度お腹いっぱい、食べさせてあげることができる。毛並みも艶も、全部元通りにして元気にしてあげられる。何よりも大切な僕の『家族』を、この手で完全に守り抜くことができる。

 テントで留守番をしている家族に、今夜こそ最高の報告を持ち帰るんだ。星那は胸の内でそう強く気合を入れ直すと、重い足取りのまま、最上階の奥に佇む社長室へと向かった。


 教えられた通りにフロアの廊下を進むと、静寂のなかにリズミカルな音楽の旋律が微かに聞こえてきた。ここ数日の間、三木坂と話を合わせるために必死に世間の流行を情報収集してきた星那には、それが今まさに巷の若い世代で人気急上昇中であるグループの新曲であることくらい、すぐに理解できた。

 迷うことなく音の漏れ出る重厚な木目のドアの前へとたどり着く。大きく深呼吸をしてから、星那は三回、静かにノックを刻んだ。


「……どうぞ~。鍵は開いているわよ~」

「失礼いたします」


 予想外に響いた、鈴を転がすような明るい声音に入室の許可を得て、星那はゆっくりと重い扉を押し開いた。

 広大な社長室の内部には、ロングヘアーに全身を白一色の洗練されたコーディネートで包んだ美しい女性が一人、書類棚の前でファイルを開いたまま優雅に佇んでいた。株式会社白亜の現社長――三木坂麗雅だ。


「あら。確か……神楽さん、よね?急にごめんなさいね。私、外のあの陰鬱な雨音って大嫌いなのよ。ほら、なんて言うのかしら……シンプルを通り越して、酷く地味でしょう?」


 星那が室内に足を踏み入れると、三木坂は手元のリモコンでBGMのボリュームを少しだけ小さくし、中央に据えられた応接用の高級ソファーに座るよう顎で促してきた。


「あ、ありがとうございます。失礼……いたします」


 これまでの数週間、商談の約束はおろか電話口でさえ門前払いを喰らい続けてきた相手だ。てっきり秘書室あたりで適当に追い返されるものと覚悟していたが、どうやら最低限、対面して話を聞く時間だけは割いてくれるらしい。


 開いていたファイルを棚へと滑らかに戻した三木坂は、星那の真向かいのソファーへとドサリと腰掛け、慇懃に細い脚を組み替えた。


「――それで、わざわざこの時間まで居座って、私に一体どのようなご用件かしら?」

「はい。改めまして、神楽サーカス団長を務めております、神楽星那と申します。本日はお忙しい時間帯に――」

「あえ、そういう形式的なおべっかは結構よ。時間も時間だし、私も明日のフライトに向けて出張の準備で忙しいの。さっさと本題に入ってくれる?」

「失礼いたしました。……まずはこちらの資料をご確認ください」


 星那は懐の緊張に震える手をすかさず動かし、ビジネスバッグの中から、これまでに幾度となく突き返されてきた渾身の事業計画書をテーブルの上へと差し出した。

 三木坂の美しい指先が書類を受け取り、パラパラと無造作にページをめくっていく。星那はその冷徹な顔色を、生きた心地もしないままそっと窺い続けた。

 やがて、彼女の指先が最後のページをめくり終えた瞬間、星那は乾いた喉から必死に声を絞り出した。


「単刀直入にお伝えさせていただきます。どうか、僕たちの神楽サーカスに……もう一度だけ、御社からのご支援を再開していただけないでしょうか。なにとぞ……何卒、よろしくお願いいたします!」


 ガラステーブルの天板に頭がぶつからんばかりの勢いで、星那は深く深く頭を下げた。見つめる絨毯の先、情けないことに、自らの両目からはすでに涙がじわりと滲み出していた。


――お願いします。どうか、どうかみんなを助けてください……っ。


 ビジネスの商談において、あえて弱みを見せて情に訴えかけることも交渉技術の一つなのだと、ネットの解説記事で必死に勉強はしてきた。しかし、この三木坂麗雅という若き美女社長が、そんな安っぽい涙に流されるような甘い性格ではないことくらい、一目見ればすぐに分かった。本来であれば、こちらの提示できるメリットとデメリットを、論理的な数字のデータだけで淡々と説明するのが最善の策であるはずだった。


 だが――目の前にある『最後の蜘蛛の糸』を前にして、星那を突き動かしたのは、冷徹な理性などでは到底なかった。腹の底でドクドクと脈打つ、ただ一つの剥き出しの感情。


 最愛の家族を、何が何でも守りたい。


 その強すぎる飢餓の重圧を、今の星那の精神力では、どうしても押し殺して制御することはできなかったのだ。


「どうぞ、頭を上げてください。ご用件は大枠理解いたしましたわ。――ですが、我が社があなた方と再びスポンサー契約を交わすことは、『あり得ません』。結論は以上です。どうぞ、すぐにお引き取りを」


 提出された資料をテーブルの上へと無造作に放り戻し、三木坂はソファーの背もたれに傲慢に寄りかかりながら、冷酷に退出を促してきた。


「え……。そ、そんな……。お、お願いです、説明を!中身を詳しく説明させてください!この企画が成立すれば、イメージ刷新を狙う御社にとっても、必ずそれ相応のメリットが――」

「はあ……。勘違いしないでくださる?私がわざわざこんな不審者紛いの時間に来客を認めたのは、退任した前社長から『一度だけでいいから、神楽サーカスの話を聞いてやってくれ』ときつく頼まれたから、ただその義理を果たしただけに過ぎないのよ。――さあ、用は済んだわ。どうぞお帰りになって」


 三木坂はそれきり興味を失ったようにソファーから立ち上がると、先ほどまで立っていた奥の書類棚の方へとスタスタと歩き出してしまった。

 咄嗟にその後ろ姿を引き留めようと、星那は何度も乾いた口を開きかけた。しかし、相手の目のなかに自分が『まともな交渉相手』として一ミリすらカウントされていない現実を完全に理解してしまった瞬間、喉が固く強張って、もう何の言葉も外へは出てこなかった。


 だから……。


――小さなメリットじゃ、話にならないんだ。


 考える。どうすればこの冷徹な女の視線を、こちらへ向かせることができるのか。星那は泥沼のなかでもがくように思考を激しく巡らせた。


 出資を勝ち取るためには、白亜の側にとってこれ以上ないほどに美味しい、圧倒的な商業的メリットが不可欠だ。だからこそ、知名度のさらなる向上や潜在的な顧客層の新規拡大など、素人頭で思いつく限りのプラス要素はすべて企画書に記載してきた。

 しかし三木坂は、その資料をパラパラと冷やかし半分にめくっただけで、具体的な投資対効果の数字などは何一つ把握していない。ただ、単純に気に入らなかったのだ。

 なんせ、現在の『株式会社白亜』は誰もが知る国内トップクラスの超有名企業。わざわざ時代遅れの小さな地方サーカス団のパトロンになどならずとも、ブランドの知名度も確固たる顧客層もすでに盤石に確保している。白亜にとって、そんな微々たるリターンのために巨額のスポンサー費用を投じるくらいなら、もっと別の、確実に利益の出る大きなプロジェクトに資金を回した方がマシだと判断されるのは当然だった。


 だからこそ、他では絶対に代えの利かない、この神楽サーカス団のスポンサーに就くことだけでしか得られない『絶対の利点』をこの場で提示し、彼女の強欲な興味を引くしかなかった。


「……何度も申し訳ございませんが、いい加減にお引き取りいただけます?私も、明日のフライトに向けて色々と多忙を極めておりますので」


 ハッと顔を上げ、星那は三木坂の方を見た。しかし、彼女は奥の書類棚の前に立ったまま、手元の重要書類らしきファイルから視線を一ミリも外そうとはしなかった。


「すみません。でも、どうしてもこれだけは――」

「はあ……。――だーかーらー!時代遅れの古臭いサーカス団なんか、私にはこれっぽっちも興味がないのよッ!!」


 大企業の洗練された社長としての仮面をとうに投げ捨てたのか、資料を乱暴に棚へと戻した三木坂は、射殺さんばかりの鋭い眼光でこちらへとにじり寄ってきた。


「超人技?肉体の限界?確かに凄いとは思うけれど、それが今のビジネスに一体なんの価値を生むのよ。今はAIやホログラムを使えば、パソコンの画面のなかで幾らでも簡単に最高に美しい動画が作れる時代。人間の肉体には絶対に不可能な神業だって一瞬よ。それにあなたのところ、未だに野生の動物たちに不条理な芸をやらせてるみたいじゃない。それ自体がどれほど致命的な『時代錯誤』か、その三流の頭じゃ理解できないわけ?」

「……ご指摘の通りかもしれません。しかし、僕たちのサーカスは――」

「あー、違う違う。別に私はね、サーカスという文化そのものが全面的に駄目だって言ってるわけじゃないのよ。――"あなたの"、その価値のないサーカス団が、ビジネスとして決定的に駄目だって切り捨てているの」


 三木坂は星那の真向かいに傲慢に立ち塞がると、ローテーブルの上に置かれていた資料を親指と人差し指でつまみ上げ、再びペラペラと中身を冷酷に眺め回した。


「世界三大サーカスや、それなりの歴史とネームバリューがある有名どころ相手なら、こちらも投資を検討したわよ。でもね、あなたのサーカス団には、未来の希望が何一つ見えないの。――老いてボロボロになっていくと分かっていながら、何の手入れも施そうとしない。たとえ醜く衰えても、ありのままの私を無条件で愛して応援してちょうだいなんて……あなた、一体何様のつもりなのかしら?」


 あまりの痛烈な言葉の暴力に、思わず深くうつ向いてしまった星那の頭上から、パラパラと真っ白な紙の束が虚しく降ってきた。彼女が放り投げた、星那のこれまでの努力の結晶だった。


「意識の低い奴にも、価値のない三流にも、私は一分一秒だって興味はないの。だから、さっさと私の視界から消えて頂戴」

「っ……!お願いします、どうか……どうかお願いします……ッ!」


 星那は椅子を滑り落ち、冷たい床の上へと崩れるように正座した。そのまま両手を突き、額を、絨毯へと力任せに擦りつける。


「どうか、どうか……もう、御社だけが最後の頼みの綱なんです。情けないことに、団員たちへの給料の支払いも何ヶ月も完全に未払いのままで、みんなをバラバラにしてしまいました。このままでは、来週には残された家族の食料すら完全に底を突いてしまうんです!」

「……ふん、今さらそんな哀れな土下座をされたところで、時間の無駄よ。先代の古い人間ならそんな安っぽい涙で丸め込めたかもしれないけれど、私には一切無意味。ビジネスの現場に余計な情はいらないの。今この世界を生き残るために必要なのは、たった一つ。――『生き残るためなら、どんなことだってやってやる』っていう、絶対的な"覚悟"だけよ」

「……」


 星那は床に頭を伏せたまま、それきり、何も言葉を発しなかった。

 なんせ――その『覚悟』であるならば、今の自分には、もうとっくの昔に骨の髄まで出来上がっているのだから。

 白亜の極秘の社内情報と一緒に教えてもらった、極度の人手不足に喘ぐあの薄暗い食肉処理場の冷凍庫のなかで、昼夜を忘れて泥臭く働かせてもらうようになった数日後。――あの、ブラックスーツの男に、会ったあの日から。


 だから、今の神楽星那という人間は、大切な家族を守るためであるならば、何だって喜んでやってのける。たとえそれが、普通のぬるま湯に浸かった一般の人間には、理解されないような、『狂気の領域』であったとしても――。


「……お願いします」

「いい加減にしなさい、さっさと帰りなさい。あなたがそこに居座っていると、私の明日の出張の準備が捗らないのよ」

「……それでは、あちらの廊下で待たせていただきます」


 床に散らばった無残な書類には目もくれず、星那はビジネスバッグだけを硬く握り締め、静かに社長室のドアを開けて外へと退出した。


――メリット。メリット、メリット……。


 カチリとドアが閉まり、再び室内からあの人気急上昇中のリズミカルなBGMが微かに漏れ出し始めた社長室のドアを、星那は暗闇のなかでじっと凝視しながら、なおも思考を諦めずに考え続けた。

 部屋を出るその最後の瞬間まで、三木坂はこちらに見向きもしなかった。だが、そんなことは今の星那にとってはもはやどうでもいいことだった。

 彼女が出張の準備を終え、このドアが再び開いたその一瞬。そこが、自分の人生における、正真正銘の『ラストチャンス』だ。

 その瞬間に、彼女の冷酷な心を根底から動かすほどの、極上の『魅力的な内容』を突きつけることができなければ――自分にも、そして大切な家族たちにも、もう二度と、明日という未来は訪れないのだから。


 薄暗い廊下で待ち続けること、およそ一時間。室内から微かに漏れ聞こえていたあのリズミカルな音楽が、唐突に止まった。

 水を打ったように静まり返るフロア。星那の心臓が、予感にギュッと冷たく縮こまる。


 ――その直後だった。


 天井の蛍光灯が一斉に消灯し、オフィス全体の光が完全に失われた。それとほぼ同時に、鼓膜を破らんばかりの凄まじい大爆音が周囲に鳴り響いた。


――っ!?い、今の音って……落雷?


 突然の全館停電と、ビルを震わせるほどの激しい雷鳴。

 不意の爆音に思わずビクリと肩を震わせたが、星那の心拍数が尋常ではない速さで上昇し続けているのは、天災への恐怖からではなかった。たった今轟いた雷鳴の凄まじい落差に紛れて、社長室の奥から「ドゴッ」という、明らかに不自然な重い鈍音が鼓膜に届いたからだ。


 星那は息を潜めて辺りを見回したが、すでに終業時間を大幅に過ぎているオフィスだ。非常灯の微かな緑の光に照らされた長い廊下には、人っ子一人転がってはいない。

 今までそれほど気にも留めていなかった、ガラス窓を激しく打ち付ける叩きつけの雨音さえも、やけに大きく耳障りに聞こえ始めて、胸のざわつきが止まらなくなる。


――ね、念のため……確認しておかないと。


 なぜだか本能が「今すぐあの部屋の中を確かめろ」と激しく急かしてくるのを感じ、星那は吸い寄せられるように社長室のドアの前へと戻った。遠慮がちにノックを刻み、声をかける。


「三木坂社長。大丈夫ですか?……社長?失礼、いたします」


 中からの返答は、やはり何も返ってこない。星那は意を決してそっと重いドアを引き、真っ暗な室内へと足を踏み入れた。


――暗すぎて、よく見えないな……。


 目を凝らすと、奥の役員デスクの傍らには、彼女が明日の出張に備えて用意していたブランド物の大型スーツケースがぽつんと置かれている。中央の応接用ガラス机の周りの床には、先ほど彼女が撒き散らした、星那の渾身の事業計画書がそのまま散乱していた。

 一見すると先ほどと変わらぬ静寂の室内に、星那は小さく安堵の息を吐き出しかけた。――しかし、その直後、決定的な違和感が牙を剥く。


 外の稲光がパッと激しくまたたき、巨大なガラス窓を通じて室内を真っ白に照らし出したその一瞬。星那の網膜に、デスクと応接ソファーの間の死角に転がっている、得体の知れない『何か』の輪郭が強烈に焼き付けられた。

 鼓動が狂ったように跳ね上がっていくのを感じながら、星那は恐る恐るその影へと近づき、スマートフォンのライトでその正体を照らし出した。


「――っ!?」


 光の先に映し出されたのは、床に無残に横たわる、全身を白一色で包んだ『肉の塊』だった。

 星那はガタガタと震える右手を、横たわる”それ”の口元へと恐る恐る近づけた。しかし、指先に触れる風はひどく弱々しく、今にも完全に停止してしまいそうだった。


「きゅ、救急車……!早く、呼ばないと……っ!」


 焦燥感のままに緊急通報の画面を開こうとした、その瞬間。

 バックライトに浮かび上がった、大好きな神楽サーカスの動物たちの写真。檻の中で飢え、痩せ細っていく最愛の家族の姿が網膜に飛び込んできた途端――星那の指先は、冷酷に停止した。


『今の世界を生き残るために必要なのは、たった一つ。生き残るためなら、どんなことだってやってやるっていう、絶対的な"覚悟"だけよ』


 脳裏に、ついさっき彼女自身が自分に向けて冷酷に言い放った、あの言葉が呪いのようにリフレインする。


「……覚悟。生き残るために、必要なのは……『覚悟』。そうですよね、三木坂社長」


 スマホを握る星那の手は激しく震え、呼吸は獣のように荒くなっていた。彼は自分自身のなかに燻る人間としての最後の理性を完全に圧し潰すように、何度も、何度も呪文のようにその言葉を唱え続けた。


「守る。守る守る守る守る守る守る守る……!僕が、僕の手で、みんなを守るんだ」


 胸の奥に残っていた僅かな『光』を完全に消し去るために、深呼吸を何度も繰り返す。完全に冷徹な落ち着きを取り戻した星那は、迷いなく電話を掛けた。


「夜分遅くにお疲れ様です。急な話で悪いんですが……これから、あの『処理部屋』を貸していただけないでしょうか」

『おや、ルーツさん。処理部屋ですか?今晩はショーが開演しておりませんので、使用に関しては何の問題もございませんが……。一応、急な申請の理由を伺っても?』

「……『食料』が手に入ったんです」

『ああ、なるほど。それは実に幸運なことですね。でしたら今回は、あなたの完全な"持ち込み案件"として特別に対応させていただきます。――五分後にはこちらから回収の手配を動かせますが、集荷の場所はどちらに向かわせればよろしいですか?』

「株式会社白亜の本社ビルにお願いします」

『承知いたしました。株式会社白亜の地下駐車場にて、担当者がお迎えいたします。なお、梱包および運搬の方法に指定はございませんが、こちらが引き取るまでの道中はすべて自己責任となりますので、くれぐれもご注意くださいね』

「……はい、わかりました」

『では、ご武運を』


 通話を切った星那は、そっと静かに立ち上がると、デスクの傍らに残された彼女の高級ブランド物のトランクへと手を伸ばした。

 ロックを解除して中身を確認すると、数枚の白い衣服が丁寧に収納されているだけだった。


――この容量のトランクなら……問題なく、収まるか。


 中に入っていた衣類をすべて引っ張り出し、空になったトランクの容積と、足元に転がる肉体を見比べる。

 問題なく収納できることを緻密に計算し終えると、星那はそれの端から特徴的な白い高級靴を取り外し、その四肢を滑らかに折りたたんで、トランクの中へと躊躇なく格納した。パチンと、強固なラッチが閉まる音が響く。


「あとは……」


 室内に自分の遺留品がないかを隅々まで目視で確認しながら、床に散らばっていた計画書を一枚ずつ丁寧に拾い集めていく。すると、その中に、ヒールで踏まれたような、泥汚れのついたページが落ちていた。


「……他人の大切な思いを雑に扱うから、こんな最悪な罰が当たったのかもしれませんね」


 トランクを見下しながら、星那はどこまでも穏やかな声音でそっと呟いた。


――そろそろ、時間だ……。


 トランクから取り出しておいた彼女の白い洋服に着替え、すべての身支度を終えた星那は、大型のトランクを片手に堂々と社長室のドアを開けて外へと出た。仕上げに、大きなつばのついた白い帽子を目深に被って。


 そして約束通り、五分後。激しい雨の降りしきる地下駐車場の暗闇のなかで、星那は仕事仲間と、何事もなかったかのように合流した。


「――お前が、『ルーツ』か?」

「そうです。急な呼び出しの上、こんな奇妙な格好で申し訳ありません」


 全身を白一色のコーディネートで包み、大きなつばの白い帽子を深く被った星那の姿は、薄暗い地下駐車場のなかではどう見ても一人の細身の女性にしか見えない。コアの手配した回収担当の男が、一瞬だけあからさまに動揺したのも無理はなかった。


「目的の荷物は、すべてこのトランクの中に収まっています」

「ああ……コアさんから事前に話は聞いている。お前は後部座席へ乗れ。ただし、道中のルールは――」

「目隠しと耳栓、ですよね。もう何度も経験して慣れましたから、大丈夫です」


 星那は、男が肉の塊が入ったトランクを車の荷台へと手際よく運び込むのを見届けてから、静かに後部座席へと乗り込んだ。自ら手を伸ばし、シートに用意されていた遮光アイマスクと厚手の耳栓を隙なく装着する。


 外界の音も光も完全に遮断された静寂のなか、車の不気味な振動にただ身を委ねること、数十分――。


「お疲れ様でした。ルーツさん」


 耳栓を外した星那の鼓膜を、聞き慣れた穏やかな声音が叩いた。目を開けると、そこはいつもの、あの冷徹な地下の『処理部屋』だった。ブラックスーツの男――コアが、完璧な笑みを浮かべて自分を出迎えていた。


「お疲れ様です、コアさん。今夜は急に無理な部屋の申請をしてしまい、本当にすみませんでした」

「お気になさらずに。では移動しながらお話ししましょう。『鮮度』が下がってしまっては、商品価値も下がりますし処理作業に余計な手間がかかりますからね」

「はい。ああ……でも、その前にこの靴だけ脱がせてください。僕、何度練習しても、こういう踵の高い靴だけは苦手なんです」


 星那は、窮屈な白い靴を脱ぎ捨てると、冷たいコンクリートの床を裸足のまま、コアの後を静かについていった。


「今回は、あなた自身が素材を持ち込まれた『持ち込み案件』となりますが、契約の基本は今までと同様です。処理の報酬としてお肉はお渡ししますが、それ以外の血や骨、内臓といった部位はこちらで引き取らせていただきます」

「はい、それは重々承知しています。……ただ、もし可能でしたら今回だけ。両手は、そのままの形で僕に譲ってもらうことはできませんか?」

「……その妙な要求、理由を伺っても?」


 前を歩くコアの背中は、決してこちらを振り返りはしない。しかし、コアに安っぽい嘘やはぐらかしが一切通用しないことを、星那はこれまでの経験で嫌というほど知っていた。

 だから、星那にはもう、自分の胸の内を素直に吐露する以外の選択肢は残されていなかった。


「今日、この食料を確保できれば、数日間ですが、みんなのご飯に余裕ができるんです。そうしたら……僕、最近始めた昼間のパフォーマンス関係の仕事を、もっと増やしたいなと思っていて」

「パフォーマンス関係、ですか。……それは、あなたが以前商店街の路上で披露されていた、あの『路上マジック』のことでしょうか?」


 コアが、そっと静かに振り返った。口元にはいつも通りの穏やかな微笑が浮かんでいたが、その響きは、星那の隠れた私生活の行動がすべて組織に筒抜けであるという絶対的な事実を冷酷に意味していた。星那の背筋に、一瞬にして鋭い緊張の走る。


「――僕のステージを、観てくださっていたんですね。……全く気がつきませんでした」

「群衆に紛れて『観客』に成りすますのは、我々の得意分野ですからね。……それで?その素晴らしいお仕事と、今回の『両手』に、一体なんの関係があるのですか?」

「あの路上パフォーマンスは……形こそサーカスとは違いますけれど、僕も、大好きな両親みたいに、自分の力で『誰かを笑顔にできているんだ』って、生きてる実感を強く持てるんです。だから……そんな大切な機会を僕に与えてくれたあの優しい人に、どうしても僕なりの感謝を伝えたいんです」

「つまり……その感謝の形として、贈り物を、この両手を贈りたい、と?」

「はい。あの日、あの人は本当にキラキラした綺麗な顔で話してくれたんです。――『あの人の手は本当に綺麗で、あんな手に憧れる』って」


 星那は、本物の魔法使いではない。だから、おとぎ話のように彼女を一瞬で変身させてあげるような奇跡は起こせない。

 しかし――これから、その彼女が『憧れていた物』を、自らのこの手で解体するのだから、お世話になった大切な人への『最高の恩返し』として届けてあげることくらいは、できるだろう。


「ふふふ、そうでしたか。それならば、その両手は喜んであなたにお譲りしましょう。私はこれからも、ルーツさんとは長く良好なビジネス関係を築いていきたいと思っておりますからね」

「本当ですか!?ありがとうございます!やっぱり、今回もコアさんを信じて頼って本当に良かったです!」

「そうおだてられても、お譲りできるのはその両手だけですよ。――ああ、それから、よろしければその『プレゼントの配送』も、すべて我々の方へ一任していただけませんか?」


 それまでの冷徹な表情から一転して、急に親切な満面の笑みを浮かべてきたコアの提案に、星那はパチクリと目を丸くした。


「え?……ああ、ありがたいですけれど。でも、僕、彼女の『村井』という名前と、勤めている銀行の場所くらいしか分からなくて。自宅の住所はこれから調べなくちゃいけないんですけれど――」

「何の問題もございません。我々のネットワークは、あなたが想像しているよりも遥かに広範囲へ展開しておりますからね。その程度の個人の特定など造作もありませんよ。……お届けは、本日中でよろしいですか?」

「あ、はい。彼女が今日の仕事を終えて、自宅に帰宅した頃の時間帯にお願いします」

「承知いたしました。我々の配送担当が、義務として丁寧かつ美しくラッピングしてパッキングし、ご指定の時刻にお届けに上がらせます。もちろん、配送が無事に完了した際にはあなたの端末へすぐにご連絡を入れますので、どうぞご安心を」


 コアはそう言ってニコニコと人懐っこい笑みを浮かべながら、懐からおもむろにスマホを取り出すと、どこかへ滑らかに内線電話を掛け始めた。

 その楽しげな姿は、まるで仲の良い友人への極上のサプライズパーティーを計画しているかのようで、傍から見れば酷く無邪気な光景だった。


「――ああ、ルーツさん。忘れるところでした。彼女の身に付けている装飾品類は、一体いかがなさいますか?あのダイヤの指輪なども、そのまま着けた状態でお贈りいたしますか?」

「あ、いえ。僕が欲しいのは、みんなに食べさせる『お肉』だけですから、それ以外の余計なブランド品や貴金属は一切いりません。……も、もし、できたらでいいんですけれど。不要な物は、元の場所へ返しに行きたいんです」

「……ふん、本当に欲のないお方ですね。せっかくの極上の戦利品なのですから、そのままいただいてしまえばいいものを」

「『自分が使った小道具や預かった衣装は、最後まで担当者が責任を持って、元の綺麗な状態に戻す』――それが、僕が幼い頃から神楽サーカスで大人たちに徹底して教わってきた、絶対のルールですから」

「……実に素晴らしいプロフェッショナルな教えですね。分かりました、では明日。彼女の愛車を自宅へ戻すついでに、その指輪も一緒に返しに行きましょう。こちらで完璧に手配しておきますので、ルーツさんはさっそく、そこの作業台でご自身の『お仕事』に取り掛かってください」


 凄惨な『処理部屋』の重い防音扉の前で、コアはまるで一流ホテルの執事のように、完璧な角度で恭しく深く頭を下げた。

 目の前でコロコロと万華鏡のように変わる彼の立ち振る舞いに少々圧倒されつつも、星那は小さく頷き、『処理部屋』へと入っていった。


 だから――星那は、知らなかった。


 バタンと背後で分厚いドアが閉まり、完全に遮断された廊下の暗闇のなかで、コアがその口元をどろりとした歪な形へ歪めながら、独り言のように静かにつぶやいたその言葉を。


「ルーツさん。これからもずっと、私を頼りにして、この手を求めてくださいね。――かつて、実の両親からゴミのように捨てられた無力な私を拾い上げ、この世界で居場所を与えてくださった『あの方』と同じように。あなたが私を必要とし、私の存在を愛してくださるというのなら……私はあなたのためなら、どんな残酷なことだって、喜んで全うしてみせますから」


 コアというこのブラックスーツの男もまた、その胸の奥に、社会の倫理をとうに踏み外した、壊れた絶対の『覚悟』を抱き締めて生きている怪物なのだということを――。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。