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1/83億の影響力  作者: 三井
4章【壊された心】

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04

「――これからは、僕がこの神楽サーカスを、みんなの日常を守ります」


 巨大なサーカステントの舞台中央。簡易的な朝礼台の上に立ち、神楽星那は亡き父親の跡を継いで新団長に就任すること、そして、今後の並々ならぬ決意を団員たちの前で表明した。


――頑張るよ。……お父さん、お母さん。


 今、この天幕のなかに両親の姿はない。けれど、もし生きてここにいてくれたなら、間違いなく「頑張れ、星那!」と力強く自分の背中を押してくれたはずだった。あの凄惨な交通事故から何年が経過しようとも、星那の心の真ん中から、大好きな両親の面影が消え去ることは決してない。


「……でも、星那君――じゃなくて、団長。その……本当に、大丈夫ですか?」


 新団長を歓迎するために鳴り響いていた団員たちのまばらな拍手が止むと、一人のベテラン団員から、深い不安の入り混じった視線が向けられた。

 若き新団長を気遣って核心を濁した発言ではあったが、彼らが何を危惧しているのかは痛いほどよく分かった。だからこそ星那は、努めて頼もしい微笑みを浮かべ、堂々と答えてみせた。


「心配をかけてしまって、本当にすみません。でも、資金の件は僕が必ず、どうにかしてみせます!だから……もう少しだけ僕を信じて、神楽サーカスを支えてください。お願いします」


 星那は舞台の上で、深々と直角に頭を下げた。しかし、見上げる団員たちの反応は、お世辞にも芳しいものとは言えなかった。

 それも当然だ。彼が二十代前半の若さで団長の座に就けたのは、パフォーマーとしての実力や経営の才能が認められたからではない。単に、前団長の息子という血縁があったからに過ぎないのだ。そんな実績も経営経験も一切ない若造の「どうにかします」という根拠のない言葉など、簡単に信用できるはずがなかった。――これまで何度も頭を下げ、融資の継続をお願いしに回った、あの冷淡な銀行員たちと同じように。


「……あまり、無理だけはしないでね」

「はい。ありがとうございます。それでは本日も、各自よろしくお願いいたします!」


 簡単な就任式を兼ねたミーティングが終了すると、団員たちはそれぞれ、重苦しい足取りのまま自身の持ち場へと戻っていった。いつも通り、夜の公演へ向けて機材のチェックや清掃を始めるために。

 本来であれば、新団長である星那もそこに加わって汗を流すべきだった。しかし、今日はこれから組織の存続を賭けた最重要の予定が入っているため、彼は一人、着慣れないリクルートスーツに身を包んでテントを後にした。


――今回こそ……今回こそ、絶対に!!


 駅の洗面所の鏡の前でネクタイの結び目を固く締め直し、分厚い資料の詰まったビジネスバッグを握る手に力を込めて、約束の場所へと向かう。

 身体のラインに合っていない安物のビジネススーツは、想像以上に動きづらく息が詰まった。都心の巨大なターミナル駅の中を右往左往しながら、どうにか目的の路線のホームへとたどり着く。乗り継ぎのたびに、何度もスマホの乗り換え案内アプリを確認し、行き先が間違っていないかを神経質に確かめた。


 そうして目的地のオフィス街に近づくに連れて、星那の息はあからさまに上がり、胸の鼓動も警鐘のように速まっていく。


――落ち着け。大丈夫だ、平常心を持て。


 どうにか破裂しそうな心を落ち着かせるために、浅い深呼吸を何度も繰り返し、バッグの中の書類を脳裏で思い返した。


 今後の公演計画書は、団員たちの平均年齢や移動距離、各地の公演場所の制約も徹底的に考慮し、極めて現実的なガントチャートに仕上げた。

 収支のシミュレーションに関しても、過去数年間の神楽サーカスの実績データを基礎として算出しつつ、娯楽が多様化した現代のシビアな時代感を客観的に反映させている。

 その他、自らの演目の練習時間をすべて犠牲にして、寝る間も惜しんで作成した、渾身のプロモーション書類の数々。


 これまでに他の金融機関から指摘された問題点は、すべて可能な限り改善し、前回よりも遥かにクオリティは高くなっている。だから今回は――今回こそ、あの冷酷な大人たちも、首を縦に振って融資を認めてくれるはずだ。


「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか?」

「こんにちは。本日、融資のご相談で予約をさせていただいております、神楽星那と申します」

「神楽様ですね。ただいま担当の者が確認いたしますので、そちらのソファーにお掛けになって少々お待ちください」

「よろしくお願いいたします」


 これまで訪れてきた数多の銀行と、全く同じ事務的な受付の手順を踏み、星那はロビーの片隅の席でじっと息を潜めた。


――大丈夫だ。やれることは、全てやった。


 しかし、ここが、神楽サーカスを救うための『最後の銀行』だった。


 もしも今日の面談で融資を完全に断られてしまえば、大好きなサーカスの継続は、その瞬間に絶望的となる――という冷酷な現実が、星那の喉を固く強張らせ、その呼吸を限界まで浅くしていった。


「神楽様。大変お待たせいたしました。担当の者がお待ちですので、こちらへどうぞ」

「……はい」


 胸の中に一縷の希望と、底なしの絶望を同時に抱き締めながら、星那は案内されるがまま、重厚な木目のドアの向こう――静かな応接室へと、一歩を踏み出した。


「初めまして。当行の融資担当をしております、根山(ねざん)と申します」


 案内された手狭な応接室の奥で、一人の男が事務的な笑みを浮かべて待っていた。


「初めまして。神楽サーカス団長の、神楽星那です。この度はお忙しいなか、僕のために貴重なお時間を作っていただき、本当にありがとうございます。何卒、よろしくお願いいたします」


 事前にネットの解説記事で必死に勉強したマニュアル通りに、どうにか名刺交換を済ませる。根山に促されてから、星那は黒いソファの端へと浅く腰掛けた。


「本日は事業融資に関するご相談ですね。ネットからの事前予約、ありがとうございました。その際、相談内容の要旨も簡単に入力していただきましたので、当方でも大枠は把握しているつもりです。……それで、事前にご連絡させていただいておりました必要書類ですが、本日はお持ちいただけましたでしょうか?」

「はい、すべて作成して持参いたしました。……お確かめのほど、よろしくお願いいたします」


 星那はビジネスバッグから、丁寧にクリップで留められた分厚い書類の束を取り出し、微かに震える両手で丁重に手渡した。


「拝見させていただきますね」

「よろしく、お願いします」


 カサリと音を立てて書類に目を通し始める根山。彼は時折、顔を上げて星那にいくつかの細かい確認項目を質問しながら、手元のタブレットに何かを淡々と書き足していく。

 だが、その表情には完璧な営業用のスマイルが張り付いたままで、彼が今、星那の書類をどう評価し、どう判断しているのか、内面が全く読み取れなかった。


 過度の緊張から生じる烈しい胃の痛みに、必死に耐え続けること、およそ十分。


「――ありがとうございました。提出いただいた書類は、すべて細部まで拝見いたしました。それでは、さっそく結論から申し上げさせていただきます」

「は、はい。お、お願いします」


 星那は思わず背筋をピンと正し、大きく息を呑んだ。

 自分の運命が決定されるこの残酷な瞬間は、何度経験しても、目に見えない巨大な手に心臓を力任せに握りしめられているような感覚に陥り、ひどく嫌悪感を覚える。


「大変恐縮ではございますが……当行での今回のご融資は、できかねます」

「……っ。え? ……ど、どうしてですか!?何か書類の記述に、不備があったのでしょうか。もしご不明な点や数字の根拠が足りない部分がありましたら、今すぐ仰ってください!どんな質問にもお答えしますし、す、すぐにでもすべて作り直して持ってきますから!」


 何度も何度も破れるほど確認したはずの書類だ。しかし、連日ほとんど徹夜のトランス状態で作成したため、どこかに致命的な計算ミスがあったのだろうか。それとも、必要不可欠な添付書類が足りなかったのだろうか。


 いったい、自分たちの何が……不服だというのだろう。


「神楽様、どうか落ち着いてください。書類の体裁や計算に、形式的な問題は一切ございませんよ」

「だったら、どうしてダメなんですか!?この銀行が、僕たちにとって本当に最後の望みなんです……!ここを断られたら、もう団を維持していけない。そしたら、みんなバラバラになって、二度と一緒にいられなくなるんです!僕は、またあの暗闇の中で独りぼっちになってしまう……。もう、もうこれ以上、大切なものを失いたくないんです!!」


 悲痛な叫びを上げ、半ばパニックになりかける星那。根山はそんな彼を冷ややかな目で見つめ、事務的に言葉を繋いだ。


「落ち着いてください。……あの、失礼ですが、差し支えありませんでしたら、これまでに他の金融機関様から融資を断られた際の『具体的な理由』をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「え?あ、あええと……」


 思考も感情もどろどろに書き乱されていたが、星那は縋るような思いで、これまでに他の窓口で浴びせられてきた拒絶の言葉を一つずつ口にした。


「団員の平均年齢に対してこの夜公演のスケジュールは体力的に不可能だから、安定した収益が見込めない、とか。現代において大衆が娯楽に掛けられる費用は昔と今とでは決定的に違うから、この収支計算結果には信憑性がない、とか。あとは、その――」


 公演会場の確保に要する前払金、全国を移動するための莫大な輸送費、地方での宣伝広告費、そして最終的な利益率。これまでに様々な不備を指摘されてきた。

 どの内容も、星那なりに時代の流行を考えて必死に計算し、弾き出した現実的な数字だった。だが、百戦錬磨の金融のプロから見れば、あまりに甘すぎる、子供の域を出ないものだったのだろう。

 だからこそ自分は、大好きな舞台に出演することすら完全に諦めた。団員たちがテントで汗を流して練習している間も、束の間の休憩を取っている間も、自分は薄暗い事務室に一人籠もり、文字通り死に物狂いで書類の修正を繰り返してきたのだ。それなのに。


「なるほど……よく分かりました。あの、神楽様。大変申し上げにくいのですが――それらの理由は、すべて単なる『建前』ですよ」

「た……建前?え、一体どういうことですか?」

「言葉を選ばずに、失礼を承知で申し上げますとね。……あなた方のやっているそのサーカスという事業自体が、今の世のなかにおいては、完全に『時代遅れ』なんですよ」


 その瞬間、根山の顔からそれまで張り付いていたビジネス用の営業スマイルが、粉々に剥がれ落ちた。

 眼鏡の奥から、価値のないゴミを値踏みするような、冷酷な視線が、星那へと真っ直ぐに突き刺さった。


「端的に申し上げますとね……。動物に人間の娯楽のための芸を仕込ませること、これは今の時代、見方によっては『動物虐待』と捉えられかねないのですよ」

「そ、そんな!虐待なんて絶対にあり得ません!!彼らは、彼らはみんな、僕たちにとって言葉のいらない大切な家族なんです!」


 確かに、動物たちの本当の言葉は分からない。彼らが本心では、芸を覚えたり大勢の観客の前で披露したりすることを嫌がっている可能性だって、ゼロだとは言い切れない。

 しかし、練習中に彼らが人間の意に反する行動をとったとしても、神楽サーカスの団員たちは誰一人として、絶対に彼らに暴力を振るったりはしなかった。膨大な時間をかけ、ゆっくりと歩み寄って絆を深めれば、必ずこちらの想いは通じる。それこそが、初代から代々受け継がれてきた鉄の教えだったからだ。


 だからこそ『神楽サーカス団』は、動物たちを鞭や冷酷な器具で無理やり調教するような真似は、天地がひっくり返っても行っていない。その誇りだけはあった。


「私個人にそんな釈明をされても、何の意味もありませんよ。たとえ神楽様のところがどれほどクリーンであろうとも、世間やネットに一度『悪質な見世物』という悪いイメージが定着してしまえば、それが現代における全ての真実になるんです。――それから、これだけデジタル技術が進歩している世のなかです。古臭い曲芸を観るために、わざわざ高いお金と時間を払って会場にまで足を運びたいと思う人間は、今や圧倒的な少数派ですよ。今は動画サイトを開けば、世界中のありとあらゆるスゴ技が完全無料で、いつでも気軽に観られますからね。タイパとコスパ重視なんですよ、今の人間は」

「……っ」


 星那は、何も言い返すことができなかった。自分だって、時代の移り変わりとともに人々の価値観や社会の常識が、かつてとは決定的に変わってしまっていることくらい、薄々理解していたからだ。


「加えてSNS全盛のこの時代、コンテンツは『映えてなんぼ』です。ええと……空中ブランコでしたっけ?確かに技術的には凄いですが、写真や短い動画にしても全く『映え』ませんよね。一般の人間が『真似して踊ってみた』なんて動画を投稿することもできませんし……。つまり、そういうことです。お力になれず申し訳ございません。どうぞ、お引き取りを」


 瞬時にいつもの慇懃無礼な営業スマイルの仮面をつけ直した根山は、テーブルの上の書類を無造作に押し返すと、すぐに退出を促してきた。

 必死に反論しようと、星那は何度も固く閉じた口を開きかけた。しかし、彼の喉から実際に零れ落ちた言葉は、自らの魂の意に反した、惨めな呪文だった。


「……ありがとうございました。失礼します」


 敗戦処理のように書類をビジネスバッグの中へと乱暴に押し込み、星那は逃げるように応接室を飛び出した。


「あ、ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております」


 背後からかけられた、自分に向けられたであろう受付嬢の事務的な美声に反応する心の余裕など、一ミリも残されていなかった。星那はただ機械的に自らの足を動かし、冷徹な大人のシステムから、狂ったように逃げ出した。


「……大丈夫だ。大丈夫、大丈夫……っ」


 オフィス街の片隅にあった、小さな公園へと命からがら逃げ込んだ星那は、近くのベンチにどっかりと腰掛け、胸の奥から激しく込み上げてくる醜悪な感情が外へ溢れ出してしまわないよう、必死に頭を上へと向けた。

 視界に飛び込んできた頭上の空は、深く傷ついた星那の心とはあまりに対照的に、眩しいほどに突き抜けた美しい青空で、そこには雨雲の破片一つとして見当たらなかった。


――……なんでだよ、なんでなんだよッ!!


 血が滲むほどに奥歯で唇を噛み締め、視界が涙で完全に歪んでいくのを必死に堪える。


 僕たちのサーカスは、時代遅れなんかじゃない。

 命がけの努力も、動物たちとの本物の絆も、何も観てもいないくせに、お前たちのくだらないシステムで勝手に決めつけるな――!


 そう激しく叫び出したい衝動を、星那はただ無力に、喉の奥へと押し殺して耐え続けることしかできなかった。

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