03
「みんな、ただいま」
セピア調の喫茶店から帰ってきた星那は、薄暗い拠点の奥で自分の帰りを健気に待っていてくれた、大切な『家族』たちへと優しく声を掛けた。
暗闇の中から、めいめいが懐かしい思い思いの鳴き声を返してくれる。しかし、かつて天幕の真ん中で響かせていたあの張りのある声と比べれば、どれも明らかに元気がなく、細く掠れてしまっていた。
「……ごめんね。お腹が空いたよね。今、すぐに用意をするから――」
愛用の防水エプロンを引っ掴み、食糧庫へと向かおうとしたその瞬間、ポケットの中で自身のスマホが激しく震えていることに気がついた。
液晶画面に表示された、とある公的な施設の名を目にした瞬間、星那は弾かれたように姿勢を正し、すぐさま通話ボタンをスライドさせた。
「お世話になっております。神楽でございます」
『ああ、✕✕動物園の伊豆です。神楽君、今ちょっと大丈夫かな?例の、動物たちの引き取りの件なんだけどさ』
「はい、大丈夫です!それで……一体、どうなりましたでしょうか?」
『園の幹部連中とも何度も話し合ってね。君のところの大切な子たちを、ぜひうちの家族として迎え入れよう、と正式に決まったよ。だから、これからは私たちに任せてくれるかい?』
「――っ!もちろんです!本当に、本当にありがとうございます!!」
誰も見ていない部屋のなかで、星那はスマホを握り締めたまま、腰を直角に曲げて深く深く頭を下げた。今回もまた、民間の格落ちしたサーカスの遺留動物だからと門前払いを食らうのではないかと絶望していただけに、安堵のあまり一瞬で視界が涙で歪んでいく。
『それでね、こちらから輸送用の大型トラックを出せるのが、明後日の昼頃になりそうなんだ。そちらの手続きや段取りは、いろいろと大丈夫そうかな?』
「はい、何の問題もありません。移動時の激しい揺れによるストレスや嘔吐を考慮し、当日の朝食はあらかじめ抜いておきます。その代わり、到着後の夕食の分から、そちらの園の方で調達していただくことは可能でしょうか?」
『ああ、うん、もちろん大丈夫だよ。ちゃんと飼育担当のスタッフに伝えておくね。その他、細かい当日のタイムラインは……後ほど担当からメールを送らせるから、確認しておいてくれるかな?そろそろ、こっちのふれあい広場の開園時間だから切るね』
「承知いたしました。お忙しい時間帯に、わざわざ直々のご連絡をくださり、本当にありがとうございました」
『気にしないで。君のお父さんには、昔、うちの園も随分とお世話になったからね。それじゃあ、また明後日に』
「はい。失礼いたします」
相手が完全に電話を切った微かな電子音を待ってから、星那もゆっくりとスマホを下ろした。
その瞬間、緊張の糸が切れたように足元からすべての力が抜け、星那はその冷たい床の上へと、がっくりと膝を突き、跪いた。
――よかった……。これで本当に、みんなの未来は……。
パフォーマーとしての僅かな収入では食い繋ぐことすら不甲斐ない自分の元を離れ、設備も資金も十分にあるプロたちの元へ行けば、これからは毎日、お腹いっぱい大好きなご飯を食べさせてもらえる。そうすれば、剥げかかった毛並みにもかつての艶が戻り、弱々しくなった吠え声も、昔のような太くて力強い響きを取り戻すはずだ。もう二度と、大切な家族にこんな不憫で惨めな思いをさせることはない。
「ねえ、みんな?やっと……やっとね、みんなの新しい引っ越し先が決まったよ」
もう、これからは飢えを心配することなんて何もないんだよ、と暗闇の家族に呼びかける。しかし、檻の中から自分を見つめてくる彼らの瞳は、どこまでも深く、暗く沈んだままだった。
「どうし……あぁ、ごめんね。まだ夕飯が、まだだったね。今すぐ準備してくるから、待ってて」
よろよろと頼りない足取りで立ち上がり、星那は拠点の最奥にある、肉の食糧庫へと向かった。
歩きながらグリーンの防水エプロンを首にかけ、いつも解体に使っている、研ぎ澄まされた片刃の包丁を手に取る。ガチリと重い金属製の防音ドアを開け放った。
そこは、ひんやりとした冷気が漂う小さな食糧庫だった。
まだ両親が生きて、サーカス団が健在だった昔は、棚いっぱいに新鮮な果物や色鮮やかな野菜が山のように保管されていた場所。しかし現在の室内には、冷機を放つ無機質な業務用の大型冷蔵庫が、ぽつんと一つだけ置かれているに過ぎなかった。
冷蔵庫の扉を開け、中身を確認した星那の手が、ぴたりと止まる。
「……一食分、足りない」
ステンレスの棚に厳重に保管されている、様々な種類の肉の塊。
その残量はあまりに僅かで、どう計算を弾いても、明日の朝食を配り終えた時点で完全に底を突いてしまう。
猛獣にとって、たった一食くらい肉を抜いたところで、すぐに餓死するわけではない。しかし、明後日は動物園への引っ越しだ。移動のストレスを避けるために朝食は抜きとなるため、今ここで一食が足りなければ、彼らは計二食分の時間を、完全な空腹状態で過ごさなければならなくなる。
ただでさえ、慣れない狭い輸送トラックでの長時間の移動は、繊細な彼らにとって凄まじいストレスになるのだ。そんな過酷な環境変化に極限の空腹状態が重なれば、最悪の場合、移動中にそのまま衰弱して命を落としてしまう可能性が極めて高かった。
「一食、一食、あと一食……。――コアさんだ」
星那は焦燥感に駆られ、今すぐ新しい仕事を紹介してもらおうと、慌ててスマホを取り出した。
しかし――。
「……嫌だ。みんなと、離れたくなんか、ない……っ」
画面のバックライトに浮かび上がった、かつての幸せだった『神楽サーカス団』の家族写真。その待ち受け画面を目にした瞬間、星那の指先はカチリと硬直した。心ごと、一瞬で過去の光へと奪い去られる。
スマホを自らの胸元へとそっと抱きしめ、ぎゅっと両目を瞑る。すると、堪え切れなくなった大粒の涙が、星那の頬を伝ってぽろぽろと床へと溢れ出していった。
「僕、本当はみんなと一緒にいたいよ……。ずっと、ずっとずっと、一緒にいたいんだ。……もう、独りぼっちになるのは、イヤだよ……っ!」
あの理不尽な交通事故で、最愛の両親が一瞬にして亡くなったあの夕方。
星那の周りにはまだ、言葉を交わせる人間の団員たちも、固い絆で結ばれた動物の相棒たちも、たくさん残されていた。しかし、警察に真実を揉み消され、サーカス団が解散へと追い込まれていくなかで、大人の団員たちは一人、また一人と星那の元を去っていった。
それでも、ワワンやニャトラ、ウキキといった動物の相棒たちと、サーカスの家族だけは、いつだって星那のすぐ傍に寄り添い続けてくれた。
年齢を重ねるごとに、寿命を迎えたワワンたち大切な相棒は一人ずつ静かに旅立っていってしまったけれど、残されたこのサーカスの家族たちだけは、今日に至るまで、ずっと星那の孤独な心の拠り所であり続けてくれたのだ。
「僕に、もっと力があったなら。あのまま神楽サーカスを続けさせてあげられたなら……。みんなとこんな風に、離れ離れになることもなかったのかな?」
手のひらのなかの、色鮮やかで幸せそうだった家族写真にいくら問いかけてみても、暗闇の倉庫からは何の応えも返ってはこない。
ただ、自分の情けない涙声だけが、冷たいコンクリートの壁に虚しく響くだけだった。
「――いつまでも泣いてたって、仕方ないな。みんなが、僕を待ってる」
手の甲で乱暴に涙を拭い去ると、星那は大型冷蔵庫から今日の夕飯分となる獣肉の塊を取り出し、調理台の上で淡々と手際よく切り分け始めた。
それぞれの器に寸分の狂いなく盛り付けると、それらを両手に抱えて、再び薄暗い家族の元へと戻っていく。
「お待たせ。……もしも僕の涙が混じって、少ししょっぱかったらごめんね?」
頑丈な檻の奥で待っていた家族たちの瞳は、環境の変化を察知してか不安そうに微かに揺れていた。けれど、星那が檻の隙間からその身体を優しく撫でてやると、彼らは安心したように、ゆっくりと貪るように食事を開始した。
そうして全員に行き渡るよう食事を配り終えた星那は、みんなの姿が一番よく見渡せる部屋の中央の床に、ポツンと膝を抱えて座り込んだ。
「明日の、最後のご飯……本当にどうしよう」
ぼんやりと暗闇に響き渡る野性の咀嚼音を耳にしながら、足りない明日の一食分をどうやって補うべきか、それだけを考え続ける。
「コアさんに連絡して、今夜新しい仕事を回してもらうか……。でも、そうしたら、みんなと最期に一緒にいられる大切な時間が減ってしまう」
最後の夜くらい、一秒だって離れたくはない。
「離れるなんて……絶対に嫌だ。だって、みんなは僕の家族なんだから。大事な、大事な……何よりも世界で一番大事な、僕の家族。ずっと、僕と一緒にいてくれなきゃ困るんだ……っ」
四方の暗闇から途切れることなく聞こえてくる、肉をグチャグチャ、グチャグチャと咀嚼する生々しい音。鼻を衝く血の鉄臭さに混ざり合う、僅かな酸臭。
お腹を空かせた大好きな家族たちが、目の前で貪欲に肉を貪り、生きるために食べ続けている――その圧倒的な生命の光景を見つめていたその瞬間、星那の脳裏に、ある一つの完璧な妙案が電撃的に閃いた。
「――あぁ、そうか。そうすればいいんだ。なんだ、そんな簡単なことだったんじゃないか。ふふ、ふふふふ……。これでみんな、ずっとずっと一緒だね?」
星那は憑き物が落ちたような、どこまでも清々しく美しい微笑みを浮かべて檻の中を眺めた。
すると不思議なことに、朝から小さな不味いおにぎりを一つしか口にしていなかったはずの飢えた肉体に、自然と凄まじい活力が湧き上がってくるのを感じた。
「それじゃあ、さっそく最期の準備を始めようか」
星那は楽しげに鼻歌を交えながら立ち上がると、近くに置かれていた腰高の事務机を引っぱり、先ほどまで自分が座り込んでいた部屋の中央へとカチリと設置した。
その天板の上に、丸めたグリーンの防水エプロンを台代わりにして、自らのスマートフォンを固定する。カメラのレンズを自分に向け、静かに動画の撮影ボタンを押した。
赤い録画ランプが、暗闇の中で規則正しく点滅を開始する。
「……倉本陽菜さん。あなたは僕の胸の奥にある本当の話が、どうしても聞きたいと仰っていましたよね。ですから、今からすべてを、お話しします」
星那はカメラの向こうの彼女に向けて、かつて天幕の真ん中で観客に見せるはずだった、完璧に美しい角度で恭しく腰を折った。それから、どこまでも穏やかで優しい、にこやかな笑顔のまま宣言する。
「――村井琴さんに『両手』を贈り、茶谷輝愛君に『両足』をプレゼントしたのは。僕です」
神楽星那の、人生を賭けた最後のステージが、今まさに華々しく開幕した。




