02
「本日はご来場くださり、誠にありがとうございました!」
巨大なサーカステントの舞台中央。
眩いスポットライトを全身に浴び、万雷の拍手と歓声を一身に受ける一人の男が、満面の笑みで大きく両手を振り返していた。
「ありがとうございました!」
「またね~!」
周囲の団員たちも同じように深くお辞儀を交わし、にこやかな笑顔で客席へと手を振っている。
――僕だって……いつか絶対に、あの舞台へ!!
薄暗い舞台裏の隙間から、仲間たちが観客から大絶賛される姿を熱い目で見つめていた団長の息子――神楽星那は、小さな拳をギュッと強く握りしめた。
星那は、訪れた人々を一瞬で笑顔にできるこのサーカスの世界が、心の底から大好きだった。特に、どんなに難易度の高い危険な演目であっても格好良く完璧に披露し、観た者すべてを幸せな気持ちにさせる『神楽サーカス団』の団長であり、自らの父親であるあの人が、何よりも誇らしかった。
だからこそ、いつの日か憧れの父親に一人前の男として認められ、みんなの仲間として天幕の真ん中に立ち、たくさんの人々を笑顔にする日々を夢見続けていたのだ。
「お父さん、小道具の片付けは僕が運ぶから任せて!」
「おいおい、中には刃物とか危ない道具もあるからな。気をつけて運べよ?」
「はーい!」
まだ幼く、本格的な演目の練習への参加は「危ないから」と大人たちに止められていた星那だったが、終演後の後片付けにだけは、誰に言われるでもなく率先して参加していた。客席の明かりが消えた誰もいないテントの隅で、ただ一人ぼんやりと皆の姿を見ているのは、まるで自分だけが仲間外れにされているようで、たまらなく嫌だったからだ。
「星那。そういや、明日からまた新しい小学校への登校だったな。……どうだ、少しは緊張してるか?」
頭上から極太のロープを器用に手繰り下ろしながら、父親がニヤニヤとした表情で問いかけてきた。その目は、どこまでも我が子を子供扱いして楽しんでいる風だった。
「し、してないよ! 転校なんてもう、とっくに慣れっこだもん!」
彼ら『神楽サーカス団』は、「日本中の隅々まで笑顔と幸せを届ける」を大方針に掲げ、数ヶ月単位で日本全国を移動しながら公演を続ける、移動型のサーカス団だった。
ゆえに星那は、小学校一年生の春から、数え切れないほどの転校と別れを繰り返して生きてきたのだ。
「それにさ、そのうちは僕だって、お父さんみたいに大勢の観客の前で凄い技を披露するんだからね!」
自分だって日々成長しているのだと証明したくて、星那は足元に転がっていた小さなカラーボールを拾い上げると、父親の目の前で拙いジャグリングを披露してみせた。
「おっ、うまい、うまい!」と、父親は声を上げて優しく褒めてくれたが、二つのボールをどうにか落とさずに操れる程度の技術では、本番の出演権など天地がひっくり返っても勝ち取れないことくらい、星那自身も重々自覚していた。
「ま、まだジャグリングの腕前はお父さんには敵わないけれど、ニャトラとのコンビネーションなら絶対に負けないもん!ほら、ニャトラ、取ってこい!」
星那が勢いよくボールを遠くへと投げつけると、傍らに寝そべっていた一匹のスマートな猫が、弾かれたようにそれを追いかけて猛ダッシュした。
しかし、コントロールを誤ったボールは、別の場所で重い機材の片付けをしていた若い団員の足元へと無情に転がっていってしまい、猫の『ニャトラ』は、綺麗に彼らの作業の邪魔をする形になってしまった。
「わあ――っ!!ごめんなさい!ニャトラ、待って、そこは危ないから早く戻ってきて――っ!」
焦って自分を捕まえようと必死に追いかけてくる星那の動きをからかうかのように、ニャトラはしなやかな跳躍で優雅にその手をかわしていく。
気まぐれな相棒に完全に翻弄されている少年の無様な姿に、父親や周囲の団員たちは、腹を抱えて温かい笑い声を響かせていた。
この『神楽サーカス団』は、代々神楽一家が団長と副団長を務める血縁主体の家族経営だったが、集まった団員たちもその家族も、誰もが「みんなが一つの家族」として暮らす、この上なくアットホームな共同体だった。そこには不条理な命令も格好をつけた格差も、何一つとして存在しない。
だからこそ、かつて転校を繰り返すたびに「せっかくできた友達と別れたくない」と枕を濡らして泣いていた星那のことを、団の大人たちは毎回、我が子を労わるように親身になって励ましてくれたものだった。
『移動を繰り返して、日本中のたくさんの人たちに出会えるのは、本当に素敵な経験なんだぞ』
最初の頃は、それも単なる気休めの綺麗事にすぎないと感じていた。しかし、いくら転校先で「ずっと大親友だ」と熱く指切りげんまんを交わしたところで、次の街へと移動してしまえば、その手紙や連絡はいずれ必ず途絶えてしまう――。その寂しい現実を幼心に深く学んだ今の星那は、もう新しい学校への転校を前にしても、無駄に目を潤ませることもなく、前向きに物事を捉えられるようになっていた。
それに、何より星那には、そんな口約束など交わさなくとも、いつでも自分のすぐ隣にいてくれる絶対の"親友"たちが、最初から揃っていたからだ。
「ちょっと、ワワン!ニャトラを無駄に刺激しないでってば!ああっ、もう、ウキキもそんな高いところに登らないでよ!あーもう、みんな僕の言うことを少しは聞いてよ!」
高所の梯子の上でのんびりと尻尾を振っているニャトラに向かって、首を傾げながら激しく吠え立てている一匹の賢い犬――『ワワン』。
そのワワンの背中を器用に踏み台にして、近くに積まれた大きな荷台へと軽やかに飛び移っていった一匹の身軽な猿――『ウキキ』。
彼ら気ままな動物たちに振り回され、星那はテントの中を行ったり来たりと右往左往していたが、その顔には自然と満面の笑みが浮かんでいた。彼らはみんな、星那にとってかけがえのない大切な親友だった。
もちろん、寝食を共にする人間の仲間たちも、ここにいる他の動物たちも、星那にとっては人生の偉大な先輩であり、同時に――世界で一番守るべき、最愛の「家族」そのものだった。
「みんな、危ないことしたら駄目だよ。それに、お父さんたちの片付けの邪魔をしちゃだーめ!分かった?」
どうにか三匹を両腕に捕まえた星那は、テントの端の安全な場所へと移動し、腰に手を当てて小さく注意した。
しかし、床から自分を健気に見上げてくるその小さな瞳からは、反省の色などこれっぽっちも感じられない。むしろ、早くまた次のゲームを始めようよと誘っているかのようだった。
「まったく……。新しい学校にも、みんなと一緒に行けたらいいのになあ」
星那は冷たい地面に直接腰を下ろすと、愛おしい三匹の身体を優しくまとめて抱きしめた。
いくら転校の回数を重ねて慣れっこになっているとは言っても、やはり初登校の直前というものは、言葉にできない不安で胸が押しつぶされそうになる。
だからこそ毎回、学校での弱音は彼らだけにそっと聞いてもらうことにしていた。こんな未熟な不安を、明日の練習や本番のことで頭がいっぱいの父親や他の団員たちにはとても話せないし、変に心配をかけたくもなかったからだ。
たとえ人間の言葉で何かを返してくれるわけではなくても、自分の胸元にそっと寄り添ってくれる小さな肉体は驚くほど温かく、それだけで明日の勇気が心の奥から湧き上がってくる。
「……いつもありがとうね。僕、明日から新しい学校で頑張るから、みんな応援してて」
「ニャー」
「ワン!」
「キキッ!」
「っ……!うん、さすがは僕の自慢の相棒たちだ」
嬉しそうに微笑みを浮かべた星那の瞳は、どんな夜空の星よりも眩しく輝いていた。
――そして迎えた、登校初日。休み時間。
「なあなあ!サーカスって、やっぱり本物の動物がたくさんいるんだろ?ライオンとかゾウとかもいるの?」
「かわいいお馬さんとか、白いウサギさんとかは?」
「ねえねえ、空中ブランコって、あんな高いところから飛んで怖くないの?」
旅先からやってきた珍しい転校生をひと目見ようと、星那の机の周りは一瞬にしてクラスメイトたちの人だかりができ、激しい質問攻めにあっていた。
「ええと……それはね?」
「「「それは?」」」
興味津々で自分を見つめてくる子供たちの顔をゆっくりと見回し、サーカスの演出さながらに、たっぷりと言葉の間を開ける。
「もー、早く言えよ!」
「じらさないで教えてよ!」
逸る気持ちを抑えきれなくなった周囲から催促の声が響いたその瞬間、星那は胸を張って自信たっぷりに答えた。
「――僕たちのサーカスに、直接観に来れば一発で分かるよ!」
「なんだよそれ、ケチ!ちゃんと今答えろよ」
「そうだよ、ウサギさんはいるの、いないの?」
非難の声を浴びせられても、星那の顔から自慢げな笑顔が崩れることはなかった。
なぜなら――。
「――サーカスの本当の楽しさはね、薄っぺらな言葉なんかじゃ絶対に伝わらないんだ。自分の目で直接観て、あのドキドキする雰囲気を感じてほしい。すっごく……すっごく楽しいから!!」
笑顔でそう伝えることこそが、最も子供たちの純粋な好奇心を激しく刺激するのだと、これまでの転校経験から深く学んでいたからだ。
「お父さんやお母さんにお願いして、連れてきてもらってよ!絶対に後悔させないから!あ、開演の時間と場所は、このポスターに全部書いてあるからね」
鞄の中からこっそり持参していた色鮮やかなチラシを机の下から取り出し、そっと見せる。案の定、クラスメイトたちはさらにその目を爛々と輝かせた。
――あぁ……やっぱり、楽しいな!
まだ本番の演目にはプロとして参加させてもらえなくても、大好きなサーカスの話題で、こうして自分の力で誰かを笑顔にできたとき。自分も立派な神楽サーカスの一員なのだと、家族を支えている大切な一人になれているのだと深く実感できるこの瞬間が、星那はたまらなく好きだった。
しかし、まだ世間の本当の『穢れ』を知らない純粋無垢な星那は、この時、全く気がついていなかった。
人だかりのすぐ後ろから、自分に向けて冷酷で鋭い、歪んだ蔑みの視線を投げつけているクラスメイトが交じっていることに――。
放課後。
「なあ!これから校庭でみんなでサッカーやるんだけど、お前も一緒に混ざろうぜ!」
星那にそう声をかけてきたのは、クラスの中心人物であり、圧倒的な人気を誇る少年――入川だった。
「えっ……うん!僕もやりたい!」
星那は満面の笑みを浮かべて、弾ねるように即答した。
本当は、今頃テントで居残りの自主練習を始めているはずの大人たちの姿を見学しに行きたかったし、自分自身サッカーは決して得意な方ではなかった。けれど、新しい学校のリーダー格から優しく誘ってもらえたことがただ純粋に嬉しくて、反射的に首を縦に振ってしまったのだ。
「よし!それじゃあ、決まりな――」
「でもさあ、サーカスの転校生って、足でボールを蹴るより、大きな玉の上に乗っかって転がす方が得意なんじゃないの?」
「それな!あ、でも、玉に乗るより、あんな高いところから無様に落っこちる方が得意だったりして。こいつ、見た目からしていかにもトロそうだしさ」
教室の隅から、けらけらと下卑た嘲笑とともに放たれたその言葉。
とても小学生の子供が口にしているとは思えないほど、その冷え切った声音は大きく室内に響き渡り、星那の心臓へ無惨なノイズとなって突き刺さった。
そして――発言者の少年の瞳から放たれる容赦のない見下すような視線が、星那の無垢な肉体を、鋭く残酷に射抜いていた。
「……気にするなよ、あいつらの言うことなんてさ。ほら、早く校庭へ行こうぜ!」
「……うん」
入川にポンと背中を押され、星那は重い足取りで教室を出て校庭へと向かった。
だが、先ほど教室の隅から自分を嘲笑ったあの冷たい笑い声は、どれだけ耳を塞ごうとしても頭から離れることなく付きまとった。泥だらけになって必死にボールを追いかけ、一生懸命に輪に混ざろうとゲームに参加しても、胸の奥のモヤモヤは晴れない。
「はあ、はあ……ごめん、みんな。僕、今日はもう……帰るね」
登校初日という張り詰めた緊張感もあったのだろう。思った以上に体力の消耗が激しく、星那は一人、先に荷物をまとめて早退することにした。
「……え?あ、そっか。分かった、じゃあまた明日な!」
入川はそう言って片手を軽く挙げると、すぐに興味を失ったように背を向け、再びボールを追いかけて走り去っていった。
彼の背中は瞬く間に小さくなり、遠くで盛り上がっている賑やかな歓声の輪へと自然に溶け込んでいく。
広い校庭に取り残され、星那は完全に一人になった。楽しそうな笑い声がどこまでも響き渡る空間で、たった一人きりに――。
「……みんな、僕……っ」
胸元でランドセルのストラップをギュッと強く抱きしめ、星那は逃げるように走り出した。涙のせいで視界は酷く歪んでいたけれど、帰るべきサーカステントへの道筋だけは、決して見失わなかった。
――翌日、登校二日目。休み時間。
星那のデスクの周りは、驚くほど静まり返っていた。どうやらこの学校において、珍しい『サーカスの転校生ブーム』というものは、たった一日で綺麗に消費されて終わってしまったようだった。
――だ、大丈夫。いつも通りやればいいんだ。
これまでの数え切れない転校経験から、自分から勇気を出して話しかけに動かない限り、友達作りは高確率で失敗することを星那は痛いほど知っていた。
だからこそ、今朝の登校前に強く決意したのだ。まずは入川のところへ行き、昨日の放課後に途中で勝手に帰ってしまったことを素直に謝ろう。その上で、今日もサッカーに混ぜてほしいと真っ直ぐに伝えよう、と。
「なあ!転校生の家って、あの安っぽいサーカス団なんだろ?」
背後から放たれたその下品な声を耳にした瞬間、星那の心臓は冷たく萎縮した。
「そ、そうだけど……」
ゆっくりと怯えながら振り返ると、そこには新崎と出坂の二人が、意地の悪い笑みを浮かべて近づいてくるところだった。
昨日、教室の隅から自分を最も激しくあざ笑っていた張本人たちだ。星那の顔は、どうしても恐怖で強張ってしまう。
「ならさ、ここでなんか凄い技をやってみせろよ。サーカス団の子供なんだから、なんか一つくらいは芸ができんだろ?」
「クラスのみんなも見たがってるぜ?すっごく楽しいんだろ、サーカスってさあ?」
自分を完全に見下している新崎と出坂の二つの視線が、たまらなく怖かった。しかし、星那は大切な家族を貶められまいと、必死に声を絞り出す。
「……僕、ま、まだ、本番の演技はできないんだ。危ないからって、お父さんたちに止められてて……」
「はあ?なんだよ、お前。何一つ芸もできねえのかよ。つまんねー奴」
「どうせ、落ちこぼれなんだろ。ああ、でも、できないって言い訳すんのだけは一人前なんだな」
「それな!」
教室に響き渡る下品な馬鹿笑い。星那はデスクの下で、ギュッと爪が肉に食い込むほど拳を握りしめた。
「どうせ、お前んちのサーカスなんて、どこに行っても大して客も入らない三流の集まりなんだろ?」
「ぶっちゃけ、わざわざ金払って観るより、ネットの動画でも観てる方がよっぽど面白いしな――」
「そんなことないっ!!」
星那は激しい衝撃とともに勢い良く椅子を蹴って立ち上がり、二人を猛然と睨みつけた。
大人しかった転校生が突然牙を剥いたことに、新崎と出坂は一瞬だけ呆気に取られて目を丸くする。しかし、星那は頭に血が上るのを感じながら、畳みかけるように言葉をぶちまけた。
「僕たちの舞台を観てもいないくせに、勝手なこと言うな!みんな、何度も大怪我をしながら必死に練習して、練習して……!観に来てくれたお客さんに楽しんでもらおうと、命がけで頑張ってるんだ!!」
「だ、だからなんだよ!どれだけ頑張ってようが、つまんねえもんはつまんねえんだよ、バーカ!」
「――ッ!!」
次の瞬間、星那は気が付くと、怒りの衝動のままに新崎の胸ぐらを力任せに掴み上げていた。
「な、何なんだよ。離せよ、バカ!」
新崎は星那の手を必死に振り解こうと足掻いたが、突然の反撃に完全に動揺しているためか、その指先には全く力が籠もっていなかった。
「僕の家族をこれ以上バカにしたら、絶対に許さない」
「知るかよ!いいから、さっさと離せって!」
「おい、こいつマジでガチギレしてんだけど。キモすぎ」
新崎を助け出すように横から出坂が割り込み、星那の腕を掴んで力任せに引き剥がした。
「――っ!」
急激に重心を崩された星那は体勢を立て直せず、新崎の胸ぐらから手を離して後ろへとよろめいた。
「ほ、本当にあり得ない。お前、頭おかしいんじゃねえの?バーカ」
「マジでキモい。完全にイッてるわ」
なおも鋭い眼光で睨みつけ続けてくる星那に気圧されたのか、二人は吐き捨てるようにそう毒づいて足早に距離を取った。
その背中はまだ十分に好戦的だったが、星那はそれ以上二人を追いかけることはせず、深く息を吐いて自らの席へと静かに着いた。
――駄目だ、落ち着け。僕はもう、ただの子供じゃないんだ。
そっと両目を閉じ、脳裏に昇った烈しい血の熱量をゆっくりと鎮めていく。
『他人や物に対して感情のままに当たっているうちは、いつまで経ってもお子様だ。そんな奴は絶対に神楽サーカスの本物の団員にはなれないぞ』
かつて父親から厳しく言い聞かされたその教えが、胸の奥で静かにリフレインしていた。
「あいつ、マジでヤバいって。頭のネジが外れてんだよ」
「完全にイカれてたよな、あの目……」
周囲のクラスメイトたちからコソコソと容赦のない陰口が聞こえてこようとも、星那はただ、自らの心を深く落ち着かせることだけに全神経を集中させた。
放課後。
「――一体、何があったっていうの?」
星那と新崎、そして出坂の三人は、放課後の職員室へと呼び出され、担任の女性教師から休み時間の衝突について問い詰められていた。大方、騒ぎを見ていたクラスの誰かが先生に告げ口をしたのだろう。
「オレらは、なーんもしてませーん」
「そうそう。おれたち、ただ普通に話をしてただけでーす」
「……二人はそう言っているけれど、神楽君、本当なの?」
新崎たちの言葉を全面的に信じ込んでいるような担任の冷めた眼差しを受け、星那は無言のままそっと視線を斜め下へと逸らした。
「だからさ、ただお喋りしてただけだってば。先生、もう帰っていい?」
「そうそう。おれ、今日はこれからダンスのレッスンがあるから、お先に失礼しまーす」
「えっ……、ちょっと待ちなさい!……もう、あの子たちは」
担任の制止する声など鼻で笑うように無視して、新崎と出坂の二人はさっさと職員室の扉を開けて出て行ってしまった。
「まったく……。神楽君、転校してきたばかりでまだ周囲に馴染めないのは分かるけれど、学校ではみんなと仲良くしなきゃ駄目よ。あの二人とも、ね?」
「……どうして、ですか?」
「どうしてって……」
星那のあまりに真っ直ぐな問い返しに、担任は困惑した表情を浮かべて言葉を詰まらせた。
べつに星那は、大人のことを困らせようと思って質問したわけではなかった。ただ、純粋に疑問に思ったのだ。自分の大切な家族を理不尽に侮辱し、自分のことを心底嫌悪しているような相手に対して、どうしてこちらから無理に笑顔を取り繕って『仲良く』しなければならないのか、と。
「それは……ほら、せっかく同じクラスという特別な縁で結ばれたんだから、みんなと友達になれたら素敵じゃない?」
「……」
「彼らだって、本当は神楽君と友達になりたいと思っているはずよ。だから、これからは仲良くしようね。分かった?」
「……はい。失礼します」
自分という存在よりも、この土地に根を張っているあの二人の言い分を無条件で信頼している担任に対し、これ以上何を言葉にしても無駄だと悟った星那は、感情のない生返事を残して職員室を後にした。
――もう、この学校で友達を作るのは諦めよう。
校庭の方から風に乗って聞こえてくる、賑やかで楽しげな子供たちの声を遠くに聞きながら、星那はうつむいたまま薄暗い廊下を歩いた。
――僕の、何がいけなかったんだろう……。
自分は大好きな家族を守るために、売られた喧嘩をただ買っただけだ。それに、あの二人とだって最初からいがみ合いたかったわけじゃない。友達になれるならなりたかった。ただ、決定的に相性が悪かっただけなのに。
「……はあ」
重いため息とともに、教室の引き戸を静かに開け放つ。 誰もいない放課後の教室は酷く静まり返っており、机の上にポツンと一つきり残されている自分のランドセルが、世界の終わりみたいに寂しそうに見えた。
「……みんな……っ」
口から零れ落ちた本音に突き動かされるように、星那は自然と身体を反転させて駆け出していた。 外界の楽しげな喧騒など全て聞こえないふりをして、一人きりで長い廊下を全力で走り抜ける。今すぐ、あの言葉のいらない、温かい彼らの元へ帰りたい――。
だから。
「星那!お帰り」
「――お父さん!!」
夕暮れ時の昇降口の前、自分の帰りを待ってくれていた父親の大きな姿が視界に飛び込んできた瞬間、星那はランドセルを背負ったまま、その胸へと全力で飛び込んでいった。
「おっと! 急に……どうした星那。学校で何かあったのか?」
異様な勢いで抱きついてきた我が子の様子を、心配そうに覗き込んでくる父親の大きな顔。星那は胸の動揺を必死に押し殺し、すぐにいつもの無理のない笑顔を向けた。
「……ううん、なんでもないよ!それより、どうしたの?お父さん、こんな時間に散歩なんて珍しいね」
父親の足元にいるワワンと、その肩にちょこんと乗っているウキキの姿を見て、星那はいつものように無邪気に首を傾げてみせた。
ただでさえ公演期間中の大人たちは、日々の過酷な練習と本番の準備で目が回るほど忙しいのだ。学校のいざこざごときで、大好きな父親に余計な心配や負担をかけるわけにはいかなかった。
「ああ。ワワンとウキキがさ、星那が学校から帰ってくるのが待ちきれなくて、どうしても迎えに行きたいってきかないからさ」
「本当っ!?僕もすっごくみんなに会いたかったんだ!ワワンもウキキも……お父さんも、迎えに来てくれてありがとう!」
星那がしゃがみ込んで頭を撫でてやると、犬のワワンはちぎれんばかりに勢い良く尻尾を振り、猿のウキキは愛おしそうに星那の手の甲へ頬ずりを寄せた。
自分を真っ直ぐに見つめてくる彼らの瞳は、どこまでも温かい。
「……星那。学校で、もし辛いことや嫌なことがあったら、隠さずにちゃんと父さんに話せよ?何があっても、お前のことは父さんが必ず守ってやるからな」
「お父さん、ありがとう。……でもさ、物や人に当たるのは、いつまでもプロになれない『お子様』のすることなんじゃなかったの?」
「おっ、お前、父さんが前に言ったことをよく覚えていたな。――ああ、その通りだ。自分の思い通りにいかないからって、周囲の人間や物に当たったところで何の意味もない。暴力や力で無理やりねじ伏せたところで、根本的な解決には絶対にならないからな」
「うん……分かってる」
幼い頃からずっと、大人たちが血のにじむような練習を重ねている姿を見てきた星那は、そのプロとしての厳しい哲学を、幼いながらも正しく理解していた。
どれほど過酷な訓練を積んでも、本番で上手く技が決まらない日だってある。
どれほど深い愛情を持って接し熱心に教え込んでも、動物たちに人間の言葉がそのまま通じるわけではないから、時には意に反する行動をとる日だってある。
だからといって、思い通りに動かない機械や道具、言葉の通じない動物たちに対して感情のままに当たったところで、現実は何一つとして変わりはしないのだ。
「よし、いい子だ。……でもな、星那?これだけは例外だ。俺の大切な家族であるお前を、理不尽に傷つけるような奴がいるなら、俺は絶対にそいつを許さない。どんな手段を使ってでも、お前のことだけは、何があってもこの手で守り抜く」
「……どんなことをしてでも、いいの?」
星那は、父親の顔をじっと見上げた。
物心ついた頃からずっと、どんな困難な状況でも話し合いによる融和を尊重し、血生臭い争いを徹底して避けてきた神楽サーカスの団長が、今、その絶対のルールを破ると言うのだろうか。――大切な『家族』と、この自分を守るためであるならば。
「ああ、これだけは絶対に例外だ。世界で一番大切な星那を守るためなら、父さんはどんなことだってするよ」
ワシャワシャと大きな掌で髪を掻き乱してくる父親の手は、長年のナイフやロープの訓練でゴツゴツと硬く、少しだけ痛かった。
けれど、その奥にある父親の瞳はどこまでも優しく、果てしなく温かい光に満ちており、幼い星那の心臓の最も深い場所へと、消えない刻印のように強く強く刻み込まれた。
「そっかあ……。じゃあ、僕も決めた!僕もお父さんと一緒に、命がけでこの『家族』を守る!」
「おっ、本当か!?星那が一緒に守ってくれるなら、これほど心強いことはないな。安心だ」
「うん、僕に任せて!」
「なら、さっそく初仕事だ。まずはワワンとウキキの安全を守りながら、無事にこの僕たちの家まで連れて帰れるか?」
「もちろん!ほら、ワワン、ウキキ、一緒に僕たちの家へ帰ろう!」
父親からワワンの頑丈なリードを受け取り、自分の小さな肩の上にウキキを上手に乗せて、星那は先ほどまでの学校の陰鬱な記憶を完全に忘れたかのように、上機嫌で歩き出した。
「おーい!星那、父さんのこともちゃんと守ってくれよ?」
「そんなの当然だよ!僕がみんなを完璧に守ってみせる。――だって、何よりも、何よりも大事な、僕の『家族』なんだから!」




