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『突然のご連絡、誠に申し訳ございません。本日、公園でお話を伺わせていただきました警察官の倉本陽菜です。茶谷輝愛さんから連絡先を教えていただきました。どうしてももう一度お話を伺いたく、ご都合のよろしい日時を教えていただけないでしょうか』
あの広大な公園で二人の警察官に声を掛けられた、その夜。星那の元に陽菜から一本のメッセージが届いた。
大嫌いな警察組織の人間などとは一秒たりとも関わりたくなかったため、その場は慇懃無礼に丁重なお断りの連絡を入れた。しかし、陽菜は諦めることなく、それから毎晩のように熱心に連絡を寄越してきた。
そうして粘られ続けて、数日後。
ちょうど手元の仕事が一段落したこともあり、星那は「一時間だけ」という厳しい条件付きで、彼女と直接会うことに同意した。
これ以上拒み続けては、かつて『どんな人間であれ、お客様は徹底して大切にするんだぞ』と自分に言い聞かせてくれた、亡き父親の遺した言葉を完全に無視することになってしまう――胸の奥に燻るその想いだけは、どうしても裏切れなかったからだ。
待ち合わせ場所に指定されたのは、都内の路地裏にある静かな喫茶店だった。
店内に薄く流れる優雅なクラシックの旋律はセピア調の店の雰囲気によく馴染んでおり、外界の喧騒を忘れさせる落ち着いた空間を演出している。平日の昼間という時間帯も手伝ってか客足はまばらで、星那は目的の人物をすぐに見つけることができた。
「……お待たせいたしました」
「いえ、私も今着いたところです。改めまして、捜査一課の倉本陽菜といいます」
差し出された警察名刺を丁重に受け取り、お互いに軽くお辞儀を交わしてから、星那も対面の席へとついた。
「お忙しい中、無理にお呼び立てしてしまって本当にすみません。ですが、どうしても神楽さんから、直接お話を伺いたかったんです」
「そうですか……。僕のようなストリートのパフォーマーが警察の捜査にお役に立てるとは到底思えませんが、一体、僕に何を聞きたいんでしょうか?」
最初から長居するつもりのない星那は、挨拶もそこそこにすぐさま本題へと切り込んだ。陽菜の元へアイスコーヒーを運んできた店員に対して、「すぐに失礼しますので」とあえて自分の注文を通さなかったのは、店側に少々悪いなと思いながらも。
「……失礼を承知で申し上げますが、先週の公園でお話を伺ってから今日までの間、神楽さんの過去の経歴について詳しく調べさせていただきました。――ご両親は昔、民間のサーカス団を経営されていたのですね」
陽菜がそっと差し出してきたスマホの画面には、煌びやかな天幕の前で、満面の笑みを浮かべて寄り添い合う星那の若き日の両親の姿が写し出されていた。
「随分と、懐かしい昔の写真ですね。……ええ、仰る通りです。僕の生家は、世間一般でいうサーカス一家でした」
「残されていた当時の記録映像はほんの僅かなものでしたが、目隠しをして標的に向かって正確に得物を投じる、難易度の高い『ナイフの演目』もありました。……神楽さんご自身も、手先がすごく器用でいらっしゃいますよね。神楽さんは、どんな演目をこなされていたんですか?」
「僕は……両親や他のみんなのような華々しい才能はありませんから、簡単なことしかできませんよ。子供の頃は、自分にどんな適性があるのか分からなかったので、ありとあらゆる演目を試しては死に物狂いで練習しました。命綱一本で宙を舞う空中ブランコや大玉乗り……それから、あなたが仰った『ナイフの演目』も一通り」
親にどれほど卓越した才能や天性のセンスがあろうとも、それが生まれてきた子供に同じように受け継がれるとは限らない。
だからこそ、我が子にも何かしらの隠された可能性が秘められているはずだと信じて、親は幼い子供に様々な過酷な試練を与え、きらりと光る才能の欠片を必死に見つけ出そうとする。それがいつか、この子の未来を救う盾になるはずだと狂信的に信じ込んで。
ただ、星那にとってその親の教育の対象が、普通の子供のような野球のバットやピアノの鍵盤などではなく、高所に吊るされたブランコのロープであったり、あるいは、冷たく研ぎ澄まされた鋭利な刃物であったという――ただ、それだけの違いだった。
「そうですか……。では、〇月✕日。神楽さんはこの日の夜、どこで何をされていましたか?」
「……なるほど。僕は今、警察に疑われているわけですね」
「いえ、決してそういうわけではありません。これは形式的な確認で、今回の事件に関わる可能性のある皆様に一通りお伺いしていることなんです」
「……その日は、終日仕事をしていましたよ」
陽菜が口にしたのは数週間も前の日付だったが、星那は一切迷うことなく即座に、かつ明確に答えた。
覚えているのも当然だった。なぜなら彼は、今日に至るまで『仕事』しかしていないからだ。来る日も来る日も、外界の人間に対して深く頭を下げ、口角を滑らかに吊り上げ、身体を前後左右へと動かす。……ただその不条理なルーティンを繰り返しているだけで、彼個人の私生活において、特別なイベントなど何一つとして行っていないのだから。
「では、その『仕事』の具体的な内容と場所を教えていただけますか?」
「すみません。僕の仕事には厳格な守秘義務が課せられていますので、これ以上はお断りします」
「……その時間、都内のどこに身を置いていたか、その大まかな場所だけでも構いません」
「すみません。一時間という予定より随分と早いですが、僕はこれで失礼させていただきますね。――ああ、それと、あちらで退屈そうにされている刑事さんにも、どうぞよろしくお伝えください」
星那が少し離れたボックス席へと涼しげに視線を送ると、そこへ腰掛けていた男が、バツが悪そうにガシガシと頭を掻きながらゆっくりと立ち上がった。
「やっぱり、とうに気が付いてやがったか」
広げた新聞紙と半分残ったコーヒーカップを手に、こちらへと大股で歩み寄ってきた男は、星那の読み通りベテラン刑事の大和だった。
「どんな人間であれ、目の前にいるお客様の顔や、その微細な特徴は、絶対に覚えろ――と、幼い頃から両親に叩き込まれてきましたので」
「そうかい……。やっぱ、お前は物覚えが人一倍いいってわけだな」
陽菜の隣へとどっかり腰掛けた大和は、無言のまま懐から一枚の証拠写真を取り出し、テーブルの上へ滑らせた。
「この、少し変わった特別な『ナイフ』に関して、今度は俺とじっくり――」
「すみません。僕が今日、お会いする約束を交わしたのは倉本刑事さん、あなたお一人だけです。それにこの後、僕にとっては本当に大事な『連絡』が入る予定になっていますので。失礼します」
星那は二人の刑事に向かって行儀よく軽く頭を下げると、そのままスマートに席を立って出口へと歩き出した。
「神楽さん!待ってくださいっ!!」
陽菜の悲痛な呼びかけに、星那は不思議そうに歩みを止めて振り返る。陽菜は動こうとしない大和を押しのけ、星那の背中へと必死に駆け寄っていた。
「急いでいますので、用件なら――」
「私は!神楽さんの、あの楽しそうな笑顔が好きなんです!」
「……それは。わざわざどうも、ありがとうございます」
「あ、いえ!べ、別に変な、深い恋愛感情とかそういう意味ではなくて!ただ、その、ええと……私は、あなたが……っ」
自分の放った言葉の重さに後から気づいたのか、みるみる顔を真っ赤にして目を泳がせ、しどろもどろになって完全にパニックを起こしている陽菜。
その無様な姿を席に残されたまま見つめていた大和は、大きな掌で自らの顔を覆い、心底呆れ果てた様子で深く深くうなだれていた。
――本当に……めんどくさい人だな。
陽菜の慌てふためく後ろ姿を見つめながら、星那は心の中で小さく呟いた。
頭で損得を考えるよりも先に、自らの衝動や身体が動いてしまう人間。そういう無鉄砲な輩は、大抵、自分自身の内側に他人に決して譲れない強固な『信念』を宿しているタイプが多い。
そして彼らは、その自分の芯が絶対に間違っていないとピュアに狂信している。だからこそ、計算を捨てて直感だけで、あんな風に真っ直ぐに他人の懐へと飛び込んでこられるのだ。――かつての、自分自身がそうであったように。
「失礼しま――」
「守りたいんです!私は、あの楽しそうな笑顔を守りたいんです。誰もが大切な人と、当たり前に笑って暮らせる毎日を作りたいんです!」
「……それは、本当に素晴らしい目標ですね。どうぞ頑張ってください」
「はい!だから、どんな些細なことでも構いません。神楽さんの胸にあるものを話してください。新人の私じゃ到底力不足だとは分かっていますが、あなたが心から笑って毎日を送れるように、警察官として全力で尽力させてください!」
真っ直ぐに自分の目を見据え、一歩も引かずに訴えかけてくる陽菜。その熱を帯びた表情は真剣そのもので、そこにはお仕着せの綺麗事や嘘偽りなど微塵も感じられなかった。彼女は本心から、目の前にいる神楽星那という一人の青年の心を心配し、力になりたいと叫んでいるのだ。
――この人は……幸せな人だな。
正しく努力を重ねれば、真っ直ぐに頑張りさえすれば、いつか必ず報われて明るい未来がやってくると信じて疑っていない、無垢な陽菜の横顔。それを見つめる星那の瞳の奥が、どろりとした深い絶望の闇で濁った。
だが、それもパチリと瞬きをするまでの一瞬の出来事だ。その底知れない心の亀裂に気づける者など、この穏やかな喫茶店のなかには誰一人としていなかった。
「……ありがとうございます。もしも数年前、あなたが僕の両親の事件の担当者になってくれていたなら、何かが少しだけ、変わっていたかもしれませんね」
「そ、それは……」
「冗談です。気にしないでください。――それでは失礼します、倉本陽菜さん」
「あ、ちょっと、神楽さん……っ!」
今度は二度と振り返ることもなく、星那はセピア調の喫茶店を後にした。
外界へと出ると、初夏の生温かい風が肌を撫でた。星那は黙々とアスファルトの通りを歩き、赤信号に遮られてふと足を止めたとき、奇妙な既視感に襲われて周囲の景色を見回した。
見覚えのある古い街並み、遠くから聞こえる子供たちの喧騒。
記憶の底に沈んでいた古い引き出しが、カチリと音を立てて開く。
――そうだ。昔、まだ自分がほんの子供だった頃、この近くにある小学校に、数ヶ月間だけ籍を置いて通っていたことがあった……。




