05
良く晴れた休日の、昼過ぎ。
都内にある広大な公園は、楽しげな家族連れをはじめとする多くの行楽客で賑わっていた。
「――神楽星那さん、ですね?」
陽菜は、青々とした芝生の上で巧みにジャグリングの道具を操っていた一人の青年に声を掛けた。
手元の道具をピタリと止めて振り向いた彼は、きょとんとした様子で陽菜と大和の姿を交互に見つめた。
「突然すみません。私たちは……こういう者です」
陽菜が懐から警察手帳を取り出し、厳かに身分を明かす。
その瞬間、青年の端正な顔から、すっと陽気な光が消えて曇った。
「警察……。僕に、何か用ですか?」
「捜査の詳細はお伝えできないのですが、少々お話を伺わせていただきたいんです」
「……お話って、一体なんですか?」
怪訝そうな眼差しを真っ直ぐに自分たちへ向けてくる星那に対し、陽菜は用意していた二枚の写真を提示した。
「このお二人についてですが、当然ご存じですよね。それぞれ、どういったご関係かお伺いしてもよろしいですか?」
「……『ちゃき君』は仕事仲間です。でも、こっちの木谷選手に関しては、テレビの画面越しで見るくらいの存在ですよ。――もういいですか?僕、次のステージに向けて練習したいんですけど」
「すみません。なるべく早く終わらせますので、もう少しだけ具体的に教えていただけますか?」
「……ちゃき君とは、いくつか地域のイベントで一緒にステージをこなしただけです。木谷選手とは、直接の面識はありません」
きっぱりと陽菜の目を見て話す星那の態度に嘘を吐いているような気配はなく、事前にマネージャーの招木田や茶谷本人から聞いていた交友関係のデータとも、寸分の狂いなく一致していた。
ただ、唯一違っていたのは、その『目』だ。
今、自分たちを冷徹に見据えている星那の瞳は酷く冷ややかに凍りついており、先ほどまで観客に向けていたあのにこやかな笑顔とは、あまりに正反対のものだった。
「そうですか。神楽さんは、プロのパフォーマーさんですよね。……実は私、以前とある商店街で、あなたが路上マジックを披露されているのを拝見したことがあるんです。イベントというのは、やはりそういったストリートの?」
陽菜がそう口にした瞬間、星那の凍りついていた表情に、一瞬にして鮮やかな温度が取り戻された。
「あ……!お客様でしたか。これは大変失礼いたしました。お越しいただいた方の顔はなるべく覚えるように心掛けているんですが……僕もまだまだ未熟ですね」
途端にいつもの穏やかな三日月の笑顔を浮かべてみせた星那の変わりように、陽菜の心は激しくざわつき、思考の歯車が一瞬だけ鈍く狂う。
「いえ、あの……それで、だから……」
「おい。茶谷と直接イベントで組める距離にいたんなら、木谷にだってどこかで会ったことくらいあんだろ?あの木谷だって、今はテレビや企業イベントに引っ張りだこの立派な芸能人様なんだからよお」
星那の急激な態度変化に動揺して言葉を詰まらせた陽菜の細い手から、大和は写真を一枚引ったくるように奪い取り、星那の顔面へと容赦なく詰め寄った。
「残念ですが、本当に木谷選手とはお会いしたことも、お話ししたこともありませんよ」
「直接の面識はねえ、か……。だがな、茶谷の口から木谷に関する話くらいは、嫌というほど聞いたことがあるんじゃねえのか?あいつは業界でも有名な、木谷信者だからな」
「そう、ですね。よくステージの合間の休憩中の雑談として、熱心に話してくれました。でも正直、サッカーの知識が絶望的に乏しい僕には、木谷選手のプレーがどれほど凄いものなのかは全く理解できませんでしたよ。――ただ……」
一度困ったような苦笑いを浮かべた星那だったが、その顔はすぐに、包み込むような優しい笑顔へと切り替わった。
「ただ、なんだよ?思わせぶりに勿体つけてんじゃねえぞ」
「ただ……ちゃき君のその『想い』の強さだけは、僕にも痛いほど真っ直ぐに伝わってきました。彼が木谷という選手を、どれだけ心の底から尊敬し、憧れているかということだけはね」
「お前……。じゃあその茶谷の口から、木谷の何かが『欲しい』っていう具体的な話を、直接耳にしたことはあるか?」
「欲しい、ですか?……すみません、もう少し具体的に質問していただけますか?」
完璧な笑顔のまま丁寧に受け答えを続けている星那。しかし、大和に対するその言葉の刃は、陽菜に向けていたものよりも遥かに鋭く、よそよそしい拒絶の冷気を孕んでいた。
「……まだ、警察のことを恨んでいるのか?」
「……僕の過去は、しっかりと調べ上げてあるのですね。あの日、僕がどれだけ泣いて頭を下げても、両親の無念はまともに調べてくださらなかったというのに」
静かに、けれど痛烈な皮肉を込めて放たれた星那の言葉は、鋭い刃となって大和と陽菜の胸に突き刺さり、二人の喉を完全に詰まらせた。
茶谷から容疑者候補の交友関係を聞き出した陽菜たちは、彼と接触する前に、当然その身辺をあらかじめ本庁のデータベースで照会していた。
『大和さん、これ……見てください』
『……チッ、とんでもねえ面倒な案件を引き当てちまったな』
本庁のパソコン画面に赤く表示されたのは、重々しい『閲覧制限』の四文字。
それは、容疑者リストの一人にすぎない『神楽星那』の過去のデータが、警察組織の一定以上の階級でなければアクセスを許可されない、きわめて特殊な領域に隔離されていることを意味していた。同時に、そこには国家が「一般の目に触れさせてはならない」と判断した、不都合な真実が隠されているという証拠でもあった。
しかし、大和と陽菜は諦めず、古い新聞の縮刷版やネットのアーカイブ、さらには独自のツテを駆使して泥臭く情報をかき集めた。その結果、神楽星那という青年が、数年前に起きた凄惨な交通事故の『被害者遺族』であるという決定的な事実を突き止めた。そして、彼が警察組織を心の底から憎悪している理由も。
「あの事故に関しては……本当にすまねえ。当時の詳しい捜査資料は、俺たちの権限じゃどうしても引き出すことができなかった」
「知っていますよ。警察は身内の都合の悪い真実を隠蔽するのが、本当にお上手ですから。……おかげで、僕の両親を無残に轢き殺したあの大学生は、今もどこかで何食わぬ顔をして、のうのうと生き永らえている。本当に、権力を使って真実を捻じ曲げることだけは、天下一品ですね」
「で、でも!当時の実況見分では、現場は見通しが極めて悪く、信号機もない交差点で、以前から交通事故が多発していた地域だったと――」
警察側の広報のような反論を思わず口にしてしまった陽菜に対し、星那はそっと悲しげに頷いて、その薄い唇を開いた。
「ええ、その通りです。だからこそ、僕の両親は普段から、わざわざ手前にある信号機付きの安全な交差点へ遠回りをして通るように決めていたんです。たとえその日が、一人息子の誕生日だからと、どれだけ急いで家に帰ろうとしていたとしても……絶対に、あの危険な近道を選ぶはずがなかった」
星那の顔には、相変わらず穏やかな微笑が浮かんでいた。しかし、その両目だけは笑っておらず、胸の底に沈殿した当時の烈しい怒りと怨恨は、数年が経過した今なお、一滴も薄れていないのは明白だった。
――星那の両親が非情な交通事故に巻き込まれたのは、星那の誕生日当日の、夕方のことだった。
仕事を終えた両親は、息子のために小さなお祝いのケーキを買い、最愛の息子が待つ家へと急いで帰路についていた。
『誕生日だから近道をしようと、見通しの悪い危険な交差点に不用意に進入した』
それが、当時の警察がそそくさと弾き出した強引な捜査の結末だった。結果として、交差する大通りから猛スピードで突っ込んできた、ある大学生の運転する高級外車と側面から激しく衝突し、運悪く二人とも即死。
『両親があの危険な道を選ぶなんて、絶対にあり得ない!もう一度、ドライブレコーダーや周囲の目撃者をちゃんと調べてください!』
遺された星那は、泣きながら何度も警察の窓口で再捜査を訴え続けた。しかし、組織は彼の悲痛な叫びに一切の耳を貸すことなく、生き残った加害者の大学生の裁判が淡々と開始された。
だが、それは司法の審判と呼ぶにはあまりに程遠い、ただの醜悪な茶番劇に過ぎなかった。加害者である少年の父親は、国政を裏で牛耳るほどの大物政治家。父親は、自分の可愛い我が子の前科と未来を守るため、自身が持つ金と地位と国家権力のすべてを動員し、強引に無罪の判決をもぎ取りにきたのだ。
そして下された、無情な判決。
『被告人を――無罪とする』
星那から世界で一番大切だった両親の命を奪い去ったその男は、法律の手によって守られ、何一つの傷を負うこともなく、今も変わらぬ輝かしい日常を謳歌している。
「……悪いが、今の俺たちには、当時の上層部が隠蔽した正確な資料や物証を確認する術はねえ。だから、あの日何が起きたのか、本当の真実は分からねえよ。けどな……お前が警察を死ぬほど恨む理由も、大切な人間を理不尽に失ったその地獄のような辛さも、俺には痛いほどよく分かる」
「でしたら、それを言葉ではなく、態度で示してください。……失礼いたします」
星那は陽菜に向けてだけ、丁寧に行儀よく頭を下げると、そのまま静かにその場を立ち去った。
その後ろ姿を呼び止めようと、陽菜は必死に口を開きかけたが、喉が固く強張って、どうしても言葉にならなかった。
「……あいつの事情聴取、ここから先はお前に一任するぞ、陽菜っこ。どうやら俺のような汚い一課の古い刑事には、最初から素直に心を開いてくれそうにねえからな」
「――はい。分かりました」
二人の視線の先、近くのベンチで道具を片付け始めていた星那の元へ、一人の小さな女の子がトコトコと笑顔で駆け寄っていき、何かを楽しそうに話しかけていた。
星那は優しく目線を下げて頷くと、一度は鞄に仕舞いかけたジャグリングのボールを再び取り出し、青空へと向かって鮮やかに放り投げた。
空中を舞うカラフルなボールが、三つ、四つと魔法のように増えていく。それと完全に比例するようにして、星那の周囲には楽しげな子供たちの人だかりが瞬く間に形成されていき、青年を中心とした温かい笑顔の輪が、穏やかな陽気の中にどこまでも広がっていった。




