02
「お疲れ様でした。まさか本当に三時間もの間、逃げ切れるとは思いませんでしたよ。木谷様」
激しい轟音と、何かが砕ける乾いた音がようやく止んでから数分後。都内某所の、地下三階。
「なあ……約束、だろぉ。早く、お、俺をここから……」
不気味な風穴が開いた右耳を手で必死に押さえつけ、床に座り込む木谷。彼が力なく寄りかかっているコンクリートの壁は、すでに木谷自身の身体から飛び散った赤黒い体液で酷く汚れていた。
「どうぞご安心ください。今すぐ――楽にして差し上げますから」
コアがそう穏やかに告げると、重い金属バットを手にした大柄な男が、静かに部屋へと入ってきた。
「は……?いやいや、話が違うだろ!俺を、無事に逃がしてくれる約束だろ!?」
「いいえ。私はただ『良いことが待っています』と申し上げただけですよ」
「だから、それが――」
「一瞬で、苦しまずに楽になれるのですよ。痛みに悶えながら無様に出血死を待つ必要がない。それに……あなたの身体は非常に状態が良いですから、血液も骨も極めて綺麗な形で回収することができます。そうすれば、少しはあの方へ罪滅ぼしの役に立てる。……ほら、やはり素晴らしい『良いこと』が待っていたでしょう?」
木谷は青ざめた顔で、絶望に首を激しく左右に振り、這うようにしてゆっくりと後ずさった。
「木谷様、あまり無駄に動かないでください。商品である大切な血液が、もったいないですから」
コアがバットを持つ大男へと、冷徹に仕事を始めるよう目配せを送る。男は感情の消えた目で、一歩、また一歩と木谷へ近づいていく。
「や、やめろ、来るな!頼むから、お願いだから助けて――っ!」
部屋の隅へと完全に追い詰められた木谷は、こちらに背を向け、せめてもの抵抗として自らの身体を守るように丸くなった。
「木谷様、本当にお疲れ様でした」
直後、鈍い衝撃音が室内に虚しく響き渡り――そして、静寂が戻った。
「……では、"その塊"を、隣の部屋へと運びましょうか。彼はもう、到着しているはずですから……」
これから向かう部屋で待っている最愛の推しの顔を想像したのか、コアの口元はだらしなく緩み、その足取りは目に見えて軽くなった。塊を引きずりながら、必死に自分についてこようとする大男に対し、コアはあたたかみすら感じる声音で優しく教え諭す。
「商品はくれぐれも丁寧に運んでくださいね。それとも、傷つけてしまった箇所をご自身の肉体で補填するおつもりですか?」
「す、すいませんでした……!」
大男はすぐさま金属バットを床へと投げ捨て、足元の塊を両手で丁寧に抱え直した。うつむく男の腕はコアのそれよりも遥かに太く逞しいというのに、恐怖のあまり小刻みにガタガタと震えていた。
「他の方がどうかは知りませんが、私の管理する『商品』を扱う際は徹底してご注意を。では、行きましょう。――ああ、運び終えたらすぐに掃除係へ連絡を入れておいてくださいね。明日、新たな『ショー』の予定が急遽組まれたとしても問題がないよう、手早く完璧に」
「は、はい!すぐに伝えます!」
「よろしくお願いしますよ。また新しい新人に一から仕事を教えるのは骨が折れますので、あなた自身が『商品側』へと回らぬよう、せいぜい頑張ってください」
コアはそう言い残すと、男と塊を伴って凄惨な『商品部屋』を後にし、すぐ隣に隣接された『処理部屋』へと向かった。
生命の鮮度が落ちてしまっては、商品価値が著しく下がるだけでなく、その後の精緻な処理作業にも余計な手間がかかってしまう。だからこそ二つの部屋は隣り合わせに設計されているのだが、室内の光景はまるで別世界だった。
先ほどの『商品部屋』には、廊下と上階のフロアへと繋がる二つの強固なドアがあったが、この『処理部屋』にある出入り口は、今くぐった扉がたった一つだけ。退路はない。
その代わり、壁一面には数百種類にも及ぶ見たこともない専門的な医療器具や解剖道具が整然とかけられており、頑丈な薬品棚には数千種類もの怪しい薬品瓶が隙間なく並べられていた。もちろん、家具が一切なかった商品部屋とは異なり、この処理部屋の床には、得体の知れないいくつかの巨大なドラム缶や、冷気を放つ特殊な高圧ボンベの群れが、不気味に牙を剥くようにして整然と並んでいた。
「失礼します。……相変わらず、準備に抜かりはございませんね。ルーツさん」
コアが冷徹な処理部屋へと足を踏み入れると、中央に据えられたステンレス製の作業台の前に、一人の小柄な男が鋭利な包丁を手に静かに佇んでいた。汚れひとつないグリーンの防水エプロンを身に着け、その足元には大容量のポリバケツが二つ、手際よく配置されている。
「ああ、コアさん。お疲れ様です。はい、もう……いつでも始められますよ」
振り返った男――『ルーツ』は、首をこくりと小さく傾けて、その薄い口角を滑らかに釣り上げた。
――さすがはルーツさん。完璧です。
こちらを見つめる、一切の光を失った彼の濁った瞳。それを目にした瞬間、コアの全身の血液は甘美な熱を帯びて沸き立ち始める。
その胸の高鳴りは、あの薄暗い場所で彼に初めて出会ったあの時から、何一つとして変わっていなかった。
――コアがルーツと出会ったのは、組織の『後処理』を内密に請け負わせていた、とある食肉処理場の巨大な冷凍庫の中だった。
極寒の白い冷気のなか、周囲の喧騒から隔絶されたように一人黙々と凍った獣肉を運んでいた小柄な見知らぬ男。それが、かつてのルーツだった。
『彼は……新人ですか?』
『あいつか?そうだが……まあ、もう長くはねえだろうな』
『長くはない、とは?使えない、ということでしょうか』
『いいや、肉を捌く腕だけは確かだが……目が完全に死んでるんだ。どう足掻いたって、もうあっちの世界に戻ることはできねえよ』
『死んでいる、ですか……。ふふ、食肉処理場の主が言うと、実におもしろい表現ですね。ですが私には、彼がここにいる誰よりも、泥臭く必死に生きているように見えますよ。見たところこちらの現場は人手が足りているようですし、彼を私が引き抜いてもよろしいでしょうか?』
『構わねえが、使い物にならなくても俺は知らねえからな』
『何の問題もございません。その際は、私の方で新たな処理依頼を――彼を商品とした案件を、もう一件増やせばいいだけの話ですから。それでは、さっそく彼に話を聞いてきます。失礼』
その後、ルーツから直接自身が抱える深刻な家庭の事情を聴いたコアは、満面の笑みを浮かべて、冷凍庫の隅で震える彼へと優しく手を差し伸べたのだ。
『素晴らしい!愛するご家族を守るために、こんな血生臭い場所に『ここで働かせてください』と素人が直談判しにくるだなんて、まるで映画の主人公のようです。――ですが、残念ながらあなたは踏むべきステップを間違えている。私と同類の才能を持つあなたは、そちら側のぬるい世界にいるべき人間ではございません。本当は……ご自身でも薄々分かっているのではないですか?』
『すみません。何を言っているのか――』
『どうぞ、大切なご家族のためにも、こちら側の世界へいらしてください。ほんの少し、非日常が日常に切り替わるだけです。あなたは何も変わらなくていい。そのまま、その手でご家族を大切にすればいいんです。――何よりも、何よりも大切にね』
『……よろしく、お願いします』
コアの差し伸べた手を取って以降、ルーツはこの地下の処理部屋で、あらゆる『アフターフォロー』の仕事を一任されるようになった。
組織に入ったばかりの頃は、自身の胃の内容物を床へ激しく吐き散らかし、この処理部屋を汚すことも少なくなかったルーツ。しかし、どれほど精神が磨り減ろうとも彼は決して手を止めず、黙々と作業をこなし続けた。そうして技術を磨き抜いた今では、組織の誰よりも綺麗に、塵一つ残さず肉体を処理できるプロの職人へと変貌を遂げていたのだ。――その、光を完全に失った美しい瞳のままで。
「では、早速始めましょうか。それを作業台の上へ……。もし、聞こえていますか?」
「あ、はい!す、すいませんっ!」
木谷の肉塊を抱いていた大男は、コアの冷たい声にハッと我を取り戻すと、慌ててステンレスの作業台の上へとそれを転がした。そして無言のまま、恐怖の入り混じった目でルーツを睨みつけながら、じりじりと数歩後ろへと後退する。
――ただの、怯えた子犬ですね。
作業台の脇で仁王立ちになり、ルーツの動きをじっと凝視している大男。本人は「この処理のプロがバカな真似を起こさないよう、力で牽制する役目」を全うしているつもりなのだろう。しかし、駄目だ。致命的に覇気がない。ただ心の中でキャンキャンと怯えて吠えているだけで、処理部屋に漂うルーツの圧倒的な死の空気に、完全に呑み込まれてしまっている。
もしも今、ルーツがその包丁をこいつに向けて牙を剥いてきたら、この大男は防壁にすらならず、ただの無力な肉の壁として切り刻まれるだけだろう。
「ありがとうございます。……今回はこれですか。なるほど、非常に状態が良いですね。これなら、それほど時間はかからなそうです」
台の上の塊に触れ、関節や皮膚の状態を手際よく確かめたルーツは、天井から無機質にぶら下がっている強固な金属製の枷へと、躊躇なく手を伸ばした。
「それでは作業を始めますが、今回もいつもと同じでよろしいですか?」
肉塊の末端に枷をガチリと嵌め込み、天井に向けて逆さに釣り上げたルーツは、よく研ぎ澄まされた包丁の切っ先をその先端付近へと近づけながら、静かに振り返った。
「ええ。いつも通り、厳密な種別と部位別での解体を、よろしくお願いいたします」
「承知いたしました」
逆吊りになった塊と正面から向き合ったルーツは、包丁を持つ右手をスッと淀みなく動かした。皮下を切り裂き、その開口部へと、手元にあった一本の透明なビニールチューブを熟練の動作で差し込む。
――直後。
それまで透明だったチューブの内部が、内圧によって一瞬にして真っ赤に染まった。ドクドクと不気味な音を立てながら、生温かい赤い液体が、足元のポリバケツの底へと勢いよく滴り落ちていく。
「よし。それじゃあ、血が抜け切るのを待っている間に……。あれ?これ、もしかして……。あの、コアさん。一つだけ、個人的なお願いをしてもよろしいですか?」
「おや、何なりと。一体何がございましたか?」
「この、末端の部位――僕に譲ってもらうことはできませんか?」
天井から逆吊りにされた肉塊の、足首から先の部位を愛おしそうに指先で撫でながら、ルーツが振り返った。その口元からは、子供のような無邪気な笑みが零れ落ちている。それを見た瞬間、コアの心臓は歓喜で跳ね上がった。
「っ……!――そのご要望、理由を伺ってもよろしいですか?」
「また、あの時と同じように……"プレゼント"したいんです」
「ああ、そうでしたか。今度は一体、どなたにお贈りしたいのですか?」
「昼間の仕事先で知り合った、ある男の子です。すごく優しい子で、僕に昼の仕事を紹介してくれるんです。だからその……恩返しじゃないですけど、何か喜ぶことをしてあげたいなって、ずっと思っていて」
少し照れたように頬を染め、はにかむルーツ。その瞳には、先ほどまで肉塊に向けていた冷徹な死の気配など微塵もなく、純粋な感謝の色が色濃く溢れ出ていた。
「それは……あなたにとって、感謝してもしきれない大切な方、なのですね」
「はい!いつだったかは忘れてしまいましたけど、ある日の休憩中に、その子がこれが欲しいって言っていたんです。これがあれば、もっと体の軸を保ったまま、指先まで綺麗に踊れるって……。だから、これも僕に譲ってくれませんか?お願いします」
ルーツはコアの方へと向き直ると、深く頭を下げた。
足元のポリバケツからは、ぽたぽた、ぽたぽたと、チューブを通じて生温かい赤い液体が滴り落ちる音が室内に響いている。だが、その勢いは確実に弱まり、もう間もなく完全に止まろうとしていた。
「なるほど。お肉に加えて、十枚の爪と十本の指、二十七・五センチメートル程度の骨に、それらに付随する組織諸々、ですか……」
コアが脳内で計算を弾く。
本来、ルーツへの『アフターフォロー』として支払われるのは、解体された肉のみ。それ以外は、すべて組織側へと引き渡すこと――それがコアとルーツとの間で交わされた絶対の契約だった。
一見すると、回収した希少なパーツを様々な特殊な趣味嗜好を持つ裏の顧客相手に、高値で売り捌くことができるコアたちの方が優位な立場に見える。なんせ、ここに運ばれてくる商品はすべて『あの方』の資産なのだ。処理を代行させているからといって、その所有権がルーツへと移ることは天地がひっくり返ってもあり得ない。そもそも、特殊な人脈を持たないルーツにとっては、肉以外のパーツなど何の価値も持たないはずなのだ。
「お願いします。これが明確な契約違反なのは重々わかってます。けど、非力な僕が彼にしてあげられることなんて、他に何もないんです。この機会を逃したら、僕は一生、あの子に何もしてあげられない……。お願いです、コアさんだけが頼りなんです!」
再び必死に頭を下げ、懇願を繰り返すルーツの姿。その純粋に慕っているような姿が、コアの乾ききった心をゆっくりと、しかし確実に満たしていく。
「……ふふふ。あなたは本当に……。いいですよ、私の負けです。どうぞ、頭を上げてください。お肉もその端切れも、ルーツさんに差し上げましょう」
「えっ!本当にいいんですか!?」
自分から無理を承知で頼み込んでおきながら、ルーツは少年のように目を丸くした。まるで、欲しかったおもちゃを買い与えられた子供そのものの反応だった。
「構いませんよ。ルーツさんが担当してくださる商品はいつも最高品質だと、お客様からの評価も極めて高い。パーツが一つや二つ少なかろうと、あの方が損をすることはありません。それに何より、前回はあなた自身の手で、素晴らしい『極上の素材』をこちらに持ち込んでくださいましたからね。今回はその、ささやかなお礼です」
商品の所有権はトップであるあの方にあるが、コアはその商品の売買や処理に関する全権を一任されている。だからこそ、功労者への支払いに多少の『色』を付けたところで何の問題もなかった。むしろ、唯一無二の技術を持つルーツをこちら側に繋ぎ止め、良好な関係を維持するための必要経費と言ってもいい。
「ありがとうございます!ああ、でも……今回も配送の方は――」
「もちろんです。前回同様、我々の手で丁寧かつ美しく、ご希望の方へお贈りさせていただきますのでご安心を。送り状の準備をいたしますので、お相手のお名前を、お教えいただけますか?」
「何から何まで、本当にすみません。でも、今回はフルネームがはっきりと分かります」
「それはそれは、大変助かりますね。では後ほど、お相手の顔が写った画像などを私の端末へご提出ください。この時間からの手配でしたら……そうですね本日の、午前中には確実にお届けできるかと」
「ありがとうございます!仕事の後に、みんなで一緒に撮った写真があるんです――」
――チチ、とチューブから滴り落ちる雫の音が、完全に途絶えた瞬間。
ルーツの瞳から一切の感情が消え失せ、冷徹な闇へと滑り落ちた。彼は弾かれたようにコアから背を向け、再び目の前の肉塊へと向き直る。
「……第二段階、はじめます」
塊から手際よくビニールチューブを引き抜き、台の上へと横倒しにする。ルーツは天井の枷を外すと、一切の迷いなく淡々とその右手を動かし始めた。
まるで、野菜でも切り刻んでいるかのように、ステンレスの部屋に、包丁がストン、ストンと肉を切る無機質な音だけが響き渡った。
「相変わらず、ため息が出るほど見事な手捌きです。……っと、あまりの美しさに見惚れている場合ではありませんね。私も早急に、自分の『仕事』を済ませてしまわないと」
コアはルーツの足元から、なみなみと赤い液体が湛えられたポリバケツを静かに持ち上げると、奥の薬品棚へと向かった。
バケツを近くの作業机に置くと、自身のジャケットの内ポケットから、丁寧に折り畳まれた一枚の指示書を抜き出す。
「今回は……これと、これ。ああ、それからこちらも必要でしたね」
指示書に記載されたいくつかの薬品のボトルを棚から選り分けると、コアは傍らに置かれていた保護ゴーグルと、厚手のビニール製手袋へと手を伸ばした。
「では、私も……そろそろ『調理』を始めましょうか」
ゴーグルと手袋を隙なく装着し終えると、コアは選んだ褐色瓶のキャップを静かに開け、その不気味な中身を数滴、赤い液体の中へと慎重に垂らした。
「……美味しくなあーれ」
コアが子供に言い聞かせるような優しい声音で呟く。
直後、禍々しい赤い世界の中に落とされたその透明な液体は、あっという間に混ざり、姿を消した。




