01
夜、二十時五十分。
都内某所の、地下三階。
「――ですから、何も難しいことはございません。二十一時から二十四時までの三時間、逃げ切れれば木谷様の勝ち。ルールはただそれだけですよ」
ブラックスーツを隙なく着こなした男は、どこまでも穏やかな声音で語りかける。しかし、至近距離で説明を受ける木谷漣は、恐怖に顔を歪めて首を左右に激しく振り乱した。
「ん――っ、んーー!」
「木谷様、ここまできたら諦めて覚悟を決めるしか……。いえ、失礼しました。あの方のお金に勝手に手を出したあの瞬間に、あなたに拒否権など最初から存在しなかったのですよ」
両手両足を無慈悲に縛り上げられ、冷たい床の上で膝立ちになったまま男を見上げる木谷。猿轡を噛まされた口元からは、だらしなく涎が垂れ流され、恐怖のあまり涙と鼻水まで流している。
「んーっ、んーっ!んーー!!」
「……おや、そろそろ時間ですね」
男が木谷の顔から猿轡を乱暴に外す。
「っは!お、お願いだ、頼む、助けてくれ!ここから逃がしてくれたら何でもする!何でも言う通りにするから!!」
自由になった口から必死に唾を飛ばし、狂ったように懇願する木谷。男はそんな彼の顔へと静かに自らの顔を近づけ、そっと優しく耳元で囁いた。
「もしも無事に逃げ切ることができれば、とても良いことが待っていますよ。ですから、どうか精一杯頑張ってください」
「い、良いことって……いいや、今だ!今すぐ俺をここから――」
「では、お時間となりましたので、私はこれにて失礼いたしますね。どうぞ、ご武運を」
「おい、ちょっと待て、おい――っ!」
男に突き放され、バランスを崩した木谷はそのまま床へと無様に転がった。男はそんな様子を一顧だにせずドアを開き、廊下で控えていた体格のいい男二人と入れ替わるようにして部屋を出た。
「な、なんだお前たちは!?お、俺に触るな!おい、やめろ、離せ!!」
「随分と生きが良いじゃねえか。その調子でせいぜい走れよ?」
「なあ、賭けるか?こいつが生き延びられるかどうかにさ……」
背後から響く大男たちの下卑た笑い声を、ブラックスーツの男はそっと溜息を吐きながらドアを閉めることで遮断した。
――本当に、つまらない人たち。
あの方に見限られた以上、この木谷という男の未来はすでに確定している。当人がどれほど無駄に足掻こうとも、導き出される結末が変わることはない。
あの方の資産に手を出せばどうなるか、少し頭を働かせれば簡単に分かりそうなものなのに。一時の浅はかな感情に流されて金に目を眩ませた木谷のような凡愚に、期待するだけ時間の無駄というものだ。
人間の人生など、元からひどく短いもの。だからこそ、もっと効率よく快楽を貪り、満喫すべきなのだ。
男は事務的に淡々と階段を上り、すでに客が待っている上階のフロアへと向かった。さっさと与えられた仕事を片付け、自分の愛してやまない最高の『推し』に会いに行くために――。
「失礼いたします」
重厚な防音扉を静かに押し開き、室内の様子を素早く確認する。
「……みなさま、お揃いですね」
部屋に充満する、熟成された甘ったるい高級ワインの香りに眉ひとつ動かさず、完璧な笑顔を浮かべて声をかけた。
「やっと来たか。コア君、待ちくたびれたよ」
「申し訳ございません、クラウン様。少々、準備に手間取ってしまいました」
高級ブランドの腕時計を見せびらかすように大袈裟に手を挙げ、手招きをしてくる小太りの男。彼は、自身の突き出た腹のせいで完全に隠れてしまうにもかかわらず、ベルトのバックルにまで最高級品をあしらうほど、ブランドロゴへの執着が強い。有名スイーツ会社の現社長であり、ここでのネームは『クラウン』だ。
「いやいや、上等なワインを飲んで十分に楽しんでいたじゃないっすか」
「そうですよ。極上のつまみもいただけたので、僕はこれ以上ないほど満足しています」
「恐れ入ります。次回もまた、みなさまのために選りすぐりのヴィンテージをご用意させていただきますね。ネクター様、ログ様」
クラウンの対面でワイングラスを片手に軽薄な笑みを浮かべているのは、若い男――『ネクター』。彼は酒を浴びるように飲む毎日の豪遊を繰り返しているが、その本質的な価値は一切分かっていない、有名飲料メーカー社長の放蕩息子だ。
そのアホ息子の隣で、澄ました顔のまま丁寧に眼鏡のレンズを拭いている中年の男は『ログ』。自身の経験と偏った価値観を何よりも絶対視し、学生起業から一代で財を成した新興IT企業のワンマン社長だった。
「あら、コアさん、気にすることはないわよ。このナッツも十分に美味しいもの。ただ、私の話す『美味しい儲け話』には、到底敵わなかったってだけだから」
「温かいご配慮、痛み入ります、ジェム様。改めまして、案内人のコアと申します。本日より、素晴らしい関係を築けますと幸いです」
ネックレスにイヤリング、十本の指に嵌められた大ぶりの指輪にいたるまで、これ見よがしに高価な宝石を散りばめ、上座のソファで傲慢に足を組み替えている中年の女は『ジェム』。彼女は異常なほど美意識が高く、「美しくなければ女ではない」という過激な思想を持つ、有名な美容整形外科の院長だった。
コアにとっては、この四人も先ほど地下で泣き叫んでいた木谷と何ら大差のない俗物に過ぎない。しかし、今晩は大切なお客様だ。彼らをもてなすために、彼らがくつろぐ特等席のソファへと静かに膝を突き、視線を下げる。
「開演の準備が完了いたしました。これより特設フロアへのご移動をお願いできますでしょうか。なお、ご退席の際には――」
「ああ、分かっているよ、コア君。今回も『大切なもの』を預ければいいんだろ?」
「さすがはクラウン様、仰る通りです。専用ボックスに”それ”を投入していただいた時点で、みなさまの『最終意思』とさせていただきますので、賭け間違いにはくれぐれもご注意ください」
「大丈夫だ。ただ、今日は初参加の初心者が混じっているからなあ。まずは無難に、『失敗』に賭けるべきかな?」
クラウンは、挑発するような視線をジェムへと向けた。
「あら、それはどうかしら?私、趣味のクレーン射撃はプロ顔負けの腕前なの。それに、うちのクリニックは最近の業績も最高潮。――今の私には、運の女神も味方してくれているはずよ。ねえ、コアさん?」
「私は、みなさまに心ゆくまでお楽しみいただければ、それで十分でございます。――それでは、まずはクラウン様からご移動をお願いいたします」
「はいはい……。俺は今回も、この限定物の時計を預ける。おいコア君、絶対に傷一つ付けるんじゃないぞ?」
「深く承知しております」
クラウンは重そうな身体をゆっくりと揺すりながら起こし、自慢の腕時計を外して応接室を後にした。
続いてネクターは自身の秘蔵ワインセラーの鍵を、ログは企業の最高機密が入っているであろうUSBメモリーをトレイに載せ、それぞれ特設会場へと退席していく。
「大変お待たせいたしました。最後はジェム様、ご移動をお願いいたします」
「……ねえ、一つだけ不躾な質問をしてもいいかしら?」
「構いませんよ。何でございましょう」
「私は今回、このダイヤのイヤリングを預けるわ。でも、イヤリングは左右で二つあるの。だから、『成功』と『失敗』、その両方に同時に賭けることは可能かしら?」
一瞬の静寂の後、コアの口元が滑らかに歪んだ。
「――さすがはジェム様。実に柔軟で、合理的な発想をお持ちですね。もちろん、何ら問題ございません。ここで賭けていただくのは、あくまでもゲームをより深く愉しむための要素の一つ。厳格な規約など設けてはおりません」
「やっぱりね。ありがとう。――さあ、これで私も存分に楽しめそうだわ」
満足げな含み笑いを浮かべたジェムは、耳元から輝くイヤリングを外して席を立った。
「いってらっしゃいませ。どうぞ、至高の三時間を……」
贅沢に香水を纏ったその後ろ姿に向けて、コアは完璧な角度で恭しく腰を折り、深々と見送った。




