05
都内某所のスポーツバー。
とある海外サッカーチームの試合中継が放映されている店内は、天井から吊り下げられた大型モニターを仰ぎ見る客たちで溢れかえり、飲めや歌えの大賑わいを見せていた。
しかし、そんな喧騒に包まれたカウンター席の最果てで、スーツ姿の男と、Tシャツ姿の男の二人だけが、モニターに背を向けたまま密やかに言葉を交わしていた。
「――以上が、本日ご来店予定のお客様です。手際の良いご案内のほど、どうぞよろしくお願いいたします」
「は、はい。常連が三人、新規が一人……ですね。承知しました」
「もし、このリストに載っていない不審なお客様が紛れ込まれましたら……。あ、申し訳ございません。少々失礼いたします」
ポケットの中で自身のスマホが小刻みに振動していることに気がつき、Tシャツ姿の男は静かに席を立った。何食わぬ顔で行き交う客の合間をすり抜け、裏口の重い扉を開けて外へと出る。
常夜灯に照らされた薄暗い裏路地には、人間の気配は一切なかった。それでも男は念のため、それとなく周囲の物陰に視線を巡らせてから、愛用のスマホを取り出した。
――ああ……。ご連絡を、ずっと心待ちにしていましたよ、ルーツさん。
画面に届いていた、一件の新着メッセージ。その送り主が、男の"今"最もお気に入りの仕事仲間である「ルーツ」だと分かった瞬間、男の頬の筋肉はだらしなく緩みきった。
仮にそれが『何かお手伝いできる案件はありませんか?』という、事務的でそっけない用件のみの内容であったとしても、男の胸の奥はそれだけでゆっくりと、甘美な悦びで満たされていくのだ。
『ご連絡ありがとうございます。ぜひ、至急ご対応いただきたい案件がございます。大変急なお願いではございますが、今晩のご都合はいかがでしょうか?』
男がにこやかに、かつ恭しい文面で返信を送ると、コンマ数秒と経たずにルーツから承諾の文字が返ってきた。
相変わらず『よろしくお願いします』とだけ記された簡素な返答だったが、それを目にした途端、男の全身の血液は沸々と沸き立ち、歓喜に震え始める。
『お引き受けくださり、誠にありがとうございます。今晩、こちらからお迎えの車を向かわせます。後ほど、担当者から折り返しの詳細連絡を入れさせますので、少々お待ちください』
メッセージに『既読』の二文字が付いたことをしっかりと確認し、男は愛おしそうにスマホを仕舞うと、再び賑やかな店内の喧騒へと戻っていった。
――ふふ。みなさん、本当に楽しそうですね。
男が席を外していたほんの数分の間に、どうやらお目当ての試合がキックオフされたらしい。客たちはモニターにしがみつき、一喜一憂の声を上げている。その姿は実に生き生きとしており、自分たちの人生を心底謳歌しているようにすら感じられた。
きっと、寝食を忘れて盲信できるほどの『何か』に出会えた人は、それだけで幸福なのだろう。――かつての自分がそうであったように。退屈でどうでもよかったはずの灰色の人生が、たった一人との出会いで、百八十度鮮やかに変わってしまうくらいに……。
「ソローさん。打ち合わせの最中に席を外してしまい、失礼いたしました」
男がカウンター席へと戻った時、待たせていたスーツ姿の男――ソローの手元にあったグラスは、すでに空っぽになっていた。
「いえ、とんでもないです。えっと、その……」
所在なげに目を泳がせ、必死に言葉を探しているソローだったが、男は特に気にする風でもなく彼の隣へと滑り込むように座り、店員へ追加のドリンクとおつまみをスマートに注文した。
品物が運ばれてくるまでの間、男はカウンターに背を預け、ごく自然な仕草でテレビの試合中継を眺めていた。しかし、隣のソローの視線は床に落ちたままで、心なしかその顔色も白く煤けているように見える。
――私の直接の担当ではないのですが……。
ソローは今朝、とある病院の裏路地で骨を何本か叩き折られながらも、『妹のためなら何だってやってやる!』と啖呵を切って、こちらの世界へやって来た男だ。
足を踏み入れた以上、彼はもうこちらの世界の住人であり、これまでの世界の『日常』や『普通』など何一つとして通用しない。仕事初日だろうが骨折の痛みに耐えていようが、いつまでもぬるいお客様気分でいるつもりなら、早急に退場してもらう必要がある。――たとえ二度と、元の平穏な世界には戻れなくなるとしても。
「ソローさん。あなたは人生を、長いと思いますか?それとも、短いと思いますか?」
注文の品を運んできた店員が完全に立ち去るのを見計らい、男はソローの耳元だけに届く極めて小さな声で問いかけた。
「え?ええっと……」
「私は、人生とはひどく短いものだとあの方から教わりました。ですから、ご自身の手でその短い人生をさらに縮めるような真似は、なさらない方が賢明ですよ。もちろん、今すぐこの世から消え去りたいというのであれば、私は止めはしませんが」
「……す、すみません。お、俺、何か……っ」
泳いでいた目をさらに激しく泳がせるソローの額には、うっすらと嫌な汗が滲み始めていた。膝の上に置かれた彼の両手も、小刻みに震えている。
――期待外れですね。
熱気と歓声に包まれた店内で、一人だけ青白い顔をして怯えているソローからは、病院の裏でボロ雑巾のようになっていた時のような気骨は一切感じられなかった。
男の心の隅々まで深く染み渡っているお気に入りの「ルーツ」とは異なり、彼の心はまだ、こちらの世界の血に染まりきっていないのだろう。だからこうしてくだらない迷いや戸惑いに支配され、自分を客観視することもできず、周囲から完全に浮いていることにすら気づけないのだ。そんな、足手まといにしかならないコマは――。
「ソローさん。あなたは本当に運がいい」
男はそう言って柔らかく微笑むと、新しく届いたグラスをそっと手にした。
「もしも今、誰かから『この店内に不審な人物はいませんでしたか?』と尋ねられたら、あなたならどう答えますか?」
「……ええと」
「私でしたら、スポーツバーに来ているにもかかわらず、画面の試合を一秒たりとも見ようとせず、青い顔でうつ向いている方がいた、と答えますよ」
「――っ!す、すみませんでした!」
男が何を指摘したのかを瞬時に察知し、ソローは慌ててグラスを引っ掴むと、身体を百八十度回転させてモニターの方を向いた。
テレビを見つめる彼の瞳は恐怖で瞳孔が開いており、グラスを握る手もガタガタと震えていたが、一人で空のグラスを凝視したまま俯いているよりは、遥かにカモフラージュとしてマシだった。
「はあ……。まあ、無闇に歓声を上げて悪目立ちせず、他の客に絡んだりもしなかったことは評価しましょう。及第点とします」
「あ、ありがとうございます……っ」
「お気になさらず。今は非常に気分が良いので、今回だけは特別です。次はありませんよ」
「は、はい……。すみませんでした、次からは徹底して気をつけます」
「では、打ち合わせを再開しましょう。本日ご来店予定のお客様は、事前にリストにある四名。それ以外の不審な人物が紛れ込んできたら、すぐに私へご連絡ください。なお、当初予定していた『アフターフォロー』の件ですが、先ほど急遽変更になりました。後ほど、担当者をそちらへ迎えに向かわせます。――ですが、その前に」
それから画面の中の試合が終了するまでの間、男たちは時折タイミングを合わせて派手にグラスを掲げたり、周囲に混じって大きな拍手を送ったりしながら、数時間後に開始される『仕事』の打ち合わせを淡々と進めていった。
もちろん、周囲を欺くその大袈裟なリアクションとは裏腹に、交わされる言葉はすべて、二人以外には絶対に聞こえないほどの、極めて小さな声音のままで。




