第93話 火事場の力
「じいさん、俺、けっこうやれてましたよね」
トトが、得意げにシズクへ手をかざした。
「シズク、俺でもいける——」
ぽたり。
雫がするりと、トトの掌をすり抜けて、ロウエンの杖先へ戻っていった。
「えっ、戻った!?」
「当たり前じゃ」
ロウエンが、鼻を鳴らした。
「火事場の力を、実力と勘違いするでない」
……容赦がない。
昨日、この爺さんは膝から崩れた。今日はもう、杖を振っている。
だが、たぶん、これが正しい。
あの時のトトは、確かに、あれをやってのけた。
やってのけたことと、いつでもやれることは、別だ。
前世でも、そういうのを何度も見た。
一度うまくいった人間が、それを自分の実力だと思い込む。次に同じやり方をして、同じようにはならない。
うまくいった時ほど、なぜうまくいったのかを調べたほうがいい。
あの時のトトを動かしていたのは、腕じゃなくて、目の前で人が倒れていた、という状況のほうだ。
「でも、俺、昨日は——」
こつん。
「昨日は、昨日。続ける力が足りん」
ロウエンが、杖を引いた。
「今日から——水路掃除じゃ」
「ええ!? あんな激しい戦いのあとに!?」
「戦いの、あとだからじゃ」
……あとだから、か。
終わった直後がいちばん抜ける。片づけをしないまま次の日を迎えると、たいてい、同じところで詰まる。
この爺さんは、それを知っている。
それに、たぶん、もう一つある。
昨日のトトは、あれで少し、自分を大きく見積もっている。
放っておけば、次の危ない場面で、同じ手を出す。
……そうなる前に、水路掃除で足を止めさせる。
こつん、が飛ぶのは、いつも、そういう時だ。
「……でも、一滴ずつ、っすよね。わかってますよ。……たぶん」
トトが、ぶつぶつ言いながら、桶を手に取った。
……また、たぶん、が付いた。
こいつのこの口癖は、いつからか、逃げ道じゃなくなっている。
わかってます、で止めないほうが、正確だと知ったんだろう。
……それに、水路掃除に文句を言いながら、ちゃんと桶を持っている。
文句と、手を動かすことは、両立する。
嫌々でも続くほうが、意気込んで三日でやめるより、ずっと強い。
……この爺さんが渡しているのは、やる気じゃない。
やる気は、その日の気分で消える。
毎朝、桶を持つ、という手順のほうを渡している。
手順は、気分が悪い日でも残る。
集落では、シルクが、記録板を仲間たちと整理していた。
危険な道だけじゃない。
良い依頼主。安く使い捨てる隊の名。報酬。匂い。道の状態。
——ばらばらの情報が、一枚の板に集まっていく。
……増えた。
最初は、迷わないための線だけだった。どこで曲がるか、どこが危ないか。
いまは、誰と組むと損をするか、まで載っている。
危ない道を避けるのと、悪い相手を避けるのは、たぶん同じことだ。
どちらも、避けられれば、それだけで生き延びる確率が上がる。
……この板の強みは、書いた人が多いことだ。
一人が歩いた道の記録なら、その一人の運が混ざる。
何十人ぶんが集まると、運が薄まって、道の性質だけが残る。
誰も、全体を見ようとして書いていない。自分が困ったことだけを書いている。
それが集まって、誰も持っていなかったものになる。
「写しをいただけますか」
あの若い職員が、遠慮がちに聞いた。
シルクは、首を振った。
「……これは、わたしたちの、みち」
……前にも、そう言った。
あの時と、同じ言い方だ。
「……でも」
シルクが、少し間を置いて、続けた。
「……こまったひとには、みせる」
「必要なところだけ、自分たちで渡せばいい」
俺は、補足した。
……全部を渡すか、何も渡さないか、じゃない。
板ごと写しを取られたら、あの板は、聖導院の名簿の一部になる。誰がどこを歩いているかまで、向こうの手に入る。
だが、困っている一人に、必要な一行を見せるだけなら、板はこの子たちのものだ。
渡す量を、渡す側が決められる。
……それが、持っている、ということなんだと思う。
あの職員に、悪気はない。
たぶん、本当に、みんなのために使おうと思って聞いた。
悪気のない写しが、いちばん危ない。
断りにくいからだ。
……こまったひとには、みせる。
この子は、断ったんじゃない。渡す条件を、自分で決めただけだ。
断る、と、条件を付ける、は、まるで違う。
……この子は、板を作った時、こんなことになるとは思っていなかったはずだ。
迷子にならないように、匂いの濃さを書いただけだ。
それが、いま、聖導院に頭を下げさせている。
小さく始めたものを、手放さずに持っていると、そういうことが起きるらしい。
……逆も、たぶん、そうだ。
大きく始めて、手放せなくなったものが、昨日のあれだった。
小さく始めて、手放さずにいたものが、この板だ。
始まりの大きさが違うだけで、どちらも、手放していない。
なのに、行き先がこれだけ違う。
(第94話へ続く)
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【用語辞書】第93話に出てきた「投資」の話
この回のテーマは、実力と、まぐれの見分けです。
● 火事場の力を、実力と勘違いしない
一度うまくいった時ほど、なぜうまくいったのかを調べる必要があります。状況が味方していただけの結果を自分の腕だと思い込むと、次に同じやり方をして失敗します。良い結果が出た時こそ、再現できる部分とそうでない部分を分けておくことです。
● 終わった直後が、いちばん抜ける
大きな山を越えた直後は、気が緩みます。片づけをしないまま次へ進むと、たいてい同じところで詰まります。うまくいった後の見直しは、失敗した後の見直しよりも省かれがちで、そのぶん高くつきます。
● 避けるための情報は、それだけで価値がある
どこが危ないか、誰と組むと損をするか——増やすための情報より地味ですが、避けられればそれだけで生き延びる確率が上がります。損を避けることは、儲けを狙うことと同じくらい、結果を左右します。
● 渡す量を、渡す側が決められること
全部を渡すか、何も渡さないかの二択ではありません。必要な部分だけを、必要な相手に、自分の判断で渡せる状態を保っておくこと。それが、そのものを持っているということです。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の団体・制度を批判する意図はありません。




