第92話 また一滴からじゃ
翌朝、聖導院の鐘は、いつも通りに鳴った。
町は、劇的には変わっていなかった。
荒野は、今日も荒野のままだ。井戸の水が、急に甘くなったわけでもない。
配給所には、今日も列がある。聖導院の白い建物も、そのまま残っている。
ただ——水路の底で、昨日より、少しだけ音がしていた。
……それだけだ。
変わったところを探して、ひととおり歩いてみて、見つかったのは、それ一つだった。
鐘の音も、同じだった。
昨日の朝と、まったく同じ間隔で、同じ数だけ鳴った。
あの伽藍の中で何があったかを、鐘は知らない。
拍子抜けするほど、何も起きていない。
あれだけのことがあって、翌朝に残ったのが、水の音が少し大きい、というだけだ。
……たぶん、それでいい。
一晩で町が変わったなら、次の一晩で、また元に戻る。
戻らないものは、たいてい、こういう小ささで来る。
配給所では、若い職員が、名簿の前で迷っていた。
筆を持ったまま、動かない。
「救済を受けなかった日ではなく……」
職員が、ぽつりと言って、書いた。
「今日は、自分で足りている日」
……書き方が、変わっている。
同じことを書いているようで、違う。
受けなかった、は、欠けた日の書き方だ。足りている、は、揃っている日の書き方だ。
「記録は必要です」
白い衣の男が、職員の後ろに立っていた。
あの人だ。深部で、名簿の紋に手をかけた人。
昨日ぶりだった。
礼を言うべきなのかもしれないと思って、やめた。あの人は、俺のために手をかけたわけじゃない。
それに、いま話しかけたら、この職員の質問が止まる。
「ですが——縛るためではなく、戻れる場所を残すために使います」
「では、列に来なかった者は……」
職員が、問う。
「所在不明ではありません」
男は、静かに答えた。
「今日は、自分で足りている。……そう記しなさい」
……破棄した人が、まだ書いている。
やめたんじゃなかったのか、と一瞬思って、すぐに違うと気づいた。
この人がやめたのは、記録そのものじゃない。縛るための記録だ。
「笑顔も記録してよいのでしょうか」
職員が、ふと聞いた。
男は、少し間を置いた。
「数字ではありません」
「ですが——見落としてはならない項目です」
……見落としてはならない項目。
俺の窓にも、そういう欄がある。気になる兆し、というやつだ。
あそこには、数字が入ったことが一度もない。
なのに、いちばん大事なことは、たいていあの一行に書いてある。
塗り固めあり。深部耐性・低下。抱え込みすぎ。
どれも、数字じゃない。どれも、見落とすと後で高くつく。
この職員は、たぶん、それを自分で見つけた。
名簿に、笑顔の欄を作ろうとしている。
……作ってしまえば、それはまた、数えるということでもある。
難しいところだ。だが、数えないより、ずっといい。
水路の脇で、白い作業着を着た男が、泥を掻き出していた。
院主だった。
手つきは、まだ慣れていない。
凄腕のハンターだった彼にとって、水路の細かい修繕は——不慣れな仕事だった。
……ハンターだったのか。
知らなかった。
白い階段の上にしか立っていない人だと思っていた。
力のある人だったんだろう。だから、一人で全部を持てると思ったのかもしれない。
持てるうちは、持ってしまう。
こつん。
「力を入れすぎじゃ」
ロウエンの杖が、水路の縁を叩いた。
「水路は、押さえつけると——詰まる」
……押さえる。
この人は、その言葉を使ったことがある。伝聞で聞いただけだが、覚えている。
押さえるのではありません、と言ったらしい。整えるのです、と。
いま、押さえつけると詰まる、と言われている。
言い方の問題じゃなかった。手の力の問題だった。
「……私は、まだ、必要でしょうか」
院主が、静かに聞いた。
「必要かどうかは」
ロウエンは、答えた。
「おぬしが決めることではない。」
「今日、目の前の石を、一つ直せ。それで水が流れれば——明日も、一つ直せ」
「おぬしも」
「また一滴からじゃ」
院主は、それ以上、何も言わなかった。
ただ、もう一度、泥を掻いた。
……渡っている。
一滴ずつ、という言い方は、この爺さんのものだ。
それがトトへ渡って、いま、この人へ渡っている。
昨日まで、街を丸ごと数えようとしていた人が、今日は、目の前の石を一つ直せと言われている。
それを、ちゃんと聞いている。
……大きいものを持ちすぎた人に、いちばん効くのは、小さい仕事なのかもしれない。
俺は、声をかけなかった。
言うことは、昨日ぜんぶ言った。それ以上のことを、俺は持っていない。
この人が、これを明日も続けるかどうかは、この人が決めることだ。
……必要かどうかは、おぬしが決めることではない。
そう言われた人が、今日、泥を掻いている。それだけで、いまは充分だと思った。
(第93話へ続く)
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【用語辞書】第92話に出てきた「投資」の話
この回のテーマは、記録の使い方です。
● 同じ事実でも、書き方で意味が変わる
受けなかった日と、自分で足りている日は、指している事実が同じでも、意味が正反対です。欠けたものとして数えるか、揃ったものとして数えるかで、その記録を見た人の判断が変わります。何を数えるかと同じくらい、どう数えるかが結果を左右します。
● 記録をやめるのではなく、使い方を変える
仕組みに問題があった時、その仕組みごと捨てるのが正解とは限りません。記録そのものは必要で、問題だったのは縛るために使っていたことのほうです。戻れる場所を残すための記録なら、同じ道具が逆に働きます。
● 数字にならない項目を、落とさない
測れるものだけを並べると、扱いやすい表ができます。ですが、大事なことほど数字になりません。数値化できない項目を「見落としてはならない項目」として残しておけるかどうかが、その仕組みの質を決めます。
● 押さえつけると、詰まる
流れを管理しようとして力を入れすぎると、流れそのものが止まります。整えることと、押さえつけることは、手の力の違いでしかありません。良かれと思って強めた管理が、いちばん詰まらせる原因になります。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の団体・制度を批判する意図はありません。




