第91話 あんた一人じゃなくていい
白帳が剥がれた。
院主が、崩れるように落ちる。
殺してはいない。
浄化した。
……そうだ。
俺たちは、この人を倒しに来たんじゃない。
剥がしに来た。
中に混ざっていたものと、外から巻き付いていたものを、分けただけだ。
分けたら、中身は、ただの人だった。
白い衣の、痩せた人だ。ダンジョンの底の床に、うずくまっている。
……小さい。
さっきまで、壁と天井と床を巻き込んで、部屋そのものの大きさだった。
剥がしたら、これだ。
大きかったのは、この人じゃない。この人に巻き付いていたもののほうだった。
誰がいくら受け取ったか、という記録が、あの体積の正体だ。
人の負い目を集めると、あれくらいの大きさになるらしい。
……この人は、それを、力だと思っていたんだろうか。
たぶん、思っていない。
守るべきものが増えた、くらいの感覚だったんじゃないかと思う。
増えるたびに、降りられなくなっていく。
「……私が、いなければ」
院主が、力なく呟いた。
……その言い方だった。
俺には、この人が積み上げてきたものの、ほとんど何も分からない。何十年、何をどう抱えてきたのかも知らない。
ただ、その一言の形だけは、知っていた。
自分がいなければ回らない、と思っている人間の言い方だ。
前世で、何人も見た。俺自身も、たぶん、一度はそう思った。
あれは、責任感の顔をしている。
でも、中身は、たいてい、こわさだ。
自分がいなくても回ると分かってしまうのが、こわい。
だから、回らないようにしておく。
悪意でやるんじゃない。
自分では、責任を果たしているつもりでいる。引き継ぎを渋るのも、細かく確認するのも、全部、良かれと思ってやっている。
気づいた時には、自分にしか分からない形になっている。
……この人は、それを、街の大きさでやった。
「いなくてもいい、とは言わない」
俺は、そう答えた。
……そこは、譲れない。
この人がやってきたことを、要らなかったと言うのは、簡単だ。簡単すぎて、たぶん、何も直らない。
「でも——あんた一人じゃなくていい」
……一人分です、と言われたことがある。
あの窓口で、一人分の札を渡された時だ。あの時、数えられているのは人の数で、人じゃないと思った。
この人は、逆をやった。
全部を自分一人で数えようとして、自分一人が数えるほかない形にしてしまった。
一人分ずつ配るのに、配る側が一人でなくていい。
むしろ、一人でないほうが、たぶん、ずっといい。
大きな器が要る、とこの人は言ったらしい。
器そのものは、間違っていなかったと思う。個人の善意では足りない、というのも、たぶん本当だ。
間違えたのは、その器を、一人で持とうとしたことだ。
大きい器ほど、重い。
重いものを一人で持てば、手を離せなくなる。手を離せなくなった人は、中身を見なくなる。
持ち手が何人かいれば、一人が疲れた時に、置ける。
……ロウエンさんは、置いた。
自分の手が動かなくなった時に、トトへ渡した。
この人には、渡す相手がいなかった。作らなかった、というほうが近い。
白いページが、ほどけていく。
名簿のページも、返礼の鎖も、配給札の輪も、
黒い澱みを吐き出しながら、光へと、戻っていく。
……全部が、一本で繋がっていた。
その一本が、ほどけている。
繋がりが切れるというのは、たぶん、こういう見え方をするんだと思った。
誰かが誰かに借りている、という線が、一本ずつ消えていく。
すべてが救われたわけじゃない。
聖導院が、消えたわけでもない。
この街の荒野が、緑に変わったわけでも——ない。
……名簿は、また作られるだろう。
誰かが数えなければ、配れない。それは本当だ。
だから、たぶん、同じことが、また少しずつ始まる。
俺たちが今日やったのは、一回、剥がしただけだ。
……それでも。
足元の水路に、ぽたり、と。
小さな雫が——また、落ちた。
……一滴だ。
誰が落としたのかは、分からなかった。
シズクかもしれないし、この深部のどこかから、ただ染み出しただけかもしれない。
どっちでもよかった。
この一滴で、街が変わるわけじゃない。
乾いた場所が、一つ、少し湿るだけだ。
だが、水路というのは、そういうものだ。
一滴が、次の一滴を待って、細い線になって、いつのまにか流れになる。
止めなければ、流れる。
俺は、その雫が落ちるのを、しばらく見ていた。
誰も見ていない場所で、誰にも数えられずに落ちている。
名簿には載らない一滴だ。
……載らないものだけが、残る。
あの見立てを、俺はやっと、丸ごと読めた気がした。
数えられたものは、数えた人のものになる。
数えられなかったものは、誰のものにもならない。だから、誰にも取り上げられない。
名簿の外にいた連中が道を示し、選べなかった一体が最後に効いて、いま、誰も数えていない一滴が落ちている。
……ずっと、同じことを言われていたわけだ。
……止めない。
(第92話へ続く)
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【用語辞書】第91話に出てきた「投資」の話
この回のテーマは、終わらせ方です。
● 壊すのではなく、分ける
問題のある仕組みを扱う時、まるごと否定するのがいちばん簡単です。ですが、中に守るべきものが混ざっている場合、まるごと壊せば、守るべきものも一緒になくなります。必要なのは強い力ではなく、何と何が混ざっているのかを見分けて、分ける手間のほうです。
● 自分がいなければ回らない、という状態を作らない
特定の一人に依存した仕組みは、その人が抜けた瞬間に止まります。これは、その人の責任感ではなく、設計の問題です。誰が抜けても続くようにしておくことが、続ける意思の、いちばん確実な表し方になります。
● つながりがほどけると、危機は終わる
すべてが同じ方向に動いてしまう状態は、貸し借りの線が全部つながっていることから起きます。その線がほどけると、それぞれが別々に動きはじめます。危機の終わりは、値が戻ることではなく、連動が緩むことのほうに先に現れます。
● 一度片づけても、また始まる
仕組みの問題は、一回の対処で消えるものではありません。同じ理由から、同じ形のものが、また作られます。だからといって対処に意味がないわけではなく、続けるかどうかだけが違いになります。止めなければ流れる、という言い方が、いちばん近い説明です。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の団体・制度を批判する意図はありません。




