第89話 ひとつに賭けない
「誰か一人で勝つんじゃない」
俺は、全員を見渡して、言った。
「ひとつに賭けない。……全員の役目を噛み合わせる」
言いながら、自分でも少し驚いていた。
これは、指示じゃない。方針だ。
ここに来るまで、俺は、いつも一枚を選んできた。この局面には、この札。次の局面には、あの札。
いま言ったのは、そういう話じゃない。
全員を、同時に、別々の役で使う。誰か一人が決めるんじゃなく、噛み合わせで決める。
……窓が黙ってから、それしか思いつかなかった。
その、瞬間だった。
白帳の主が、俺に幻を見せた。
前世の会社。
パワハラの上司。
自分の失敗。
全部を失った、あの日の記憶。
輪郭だけだった。
顔は見えない。声も、言葉として聞こえない。ただ、部屋の形と、光の落ち方と、机の並びだけが、やけに正確だった。
……正確なのが、いちばんこたえる。
……読まれている。
俺は、ずっと、相手を読む側だった。窓を向けて、中身を見て、どう来るかを当ててきた。
いま、逆をやられている。
こいつは、名簿を作る化け物だ。人の何を書き留めれば、その人が動けなくなるかを、知っている。
俺について書き留めるとしたら、ここだ、と当ててきた。
……当たっている。
「選ぶから間違える。委ねれば、傷つかずに済む」
声が、幾重にも重なって、降ってきた。
「並びなさい。記録されなさい。守られなさい」
……言い方を、変えてきた。
配給所で聞いた時は、分類されなさい、だった。深部で聞いた時も、そうだった。
今度は、守られなさい、だ。
こいつは、相手を見て、いちばん通りやすい言葉を選んでいる。
管理されろ、では俺は動かない。守ってやる、なら動くかもしれない。そう踏んだということだ。
……本当に、そう踏まれるだけのものが、俺の中にある。
「お前も、管理されていた方がよかった。選んだ結果、また失敗するだけだ」
……揺れた。
前世の俺は、確かに、選択を間違えた。
それで、何もかも失った。
言い返す言葉が、すぐには出てこなかった。
こいつは、嘘を言っていない。
嘘なら、はねのけられる。本当のことだから、刺さる。
……あの使いの時と、同じだ。
理屈が通っている相手ほど、こわい。間違っているところを、指で差せないからだ。
だが、あの時と、一つだけ違うことがある。
あの時の俺は、言い返せずに黙った。
その後で、ロウエンさんが答えてくれた。管理は悪ではない、大きな器も要る。じゃが、器を満たすために人を絞りはじめたら、それはもう救いではない、と。
……あの言い方だ。
全部を否定しない。どこから先が違うのかを、一箇所だけ指す。
でも——今は違う。
……委ねれば、傷つかずに済む。
俺は、その一行を、頭の中でひっくり返してみた。
委ねる、というのは、預けるということだ。
全部を、一か所に。
……それは、分けない、ということだ。
選ぶな、というのは、分けるな、と同じ意味になる。
全部を、あんた一人に預けろ。あんたが配る。あんたが決める。だから安心しろ。
……それだ。
俺が前世でやって、全部を失ったのは、それだ。
一つの場所に、時間も、体も、頭の中も、全部を置いた。
稼ぎも、付き合う相手も、自分が何者かという話も、全部そこにあった。
置いていることにすら気づかなかった。分けるという考えが、頭に一度も浮かばなかった。
そこが崩れた時、俺には、何も残っていなかった。
あの日、俺が失ったのは、仕事じゃない。
仕事しか無かった、という事実のほうだ。
選んだから失敗したんじゃない。
一つに、全部を賭けたから失敗したんだ。
こいつが勧めているのは、まったく同じやり方だ。
あの日の俺の負け方を、そっくりそのまま、もう一度やれと言っている。
……それに。
俺には、一つだけ、選ばせてもらえなかったものがある。
最初の日に押しつけられた、一体だ。
外せない。取り替えられない。ハズレを引いた、と思った。
こいつだけは、俺が選んだものじゃない。
……だから、名簿にも載らない。
俺の持ち物じゃないからだ。
選べないというのは、誰にも外させられない、ということでもあった。
……ずっと、呪いだと思っていた。
選ばせてくれない。取り替えさせてくれない。毎日、勝手に持っていく。
文句を言う相手すら、いない。
その外せなさが、いま、こいつの手の届かないところに立っている。
この化け物が、いちばん手を出せない一枚は、俺がいちばん要らないと思っていた一枚だ。
間違えた。
だから、選ぶのをやめるんじゃない。
次は——全部を、ひとつに賭けないように選ぶんだ。
俺は、幻を振り払った。
……礼を言う気には、ならない。
だが、こいつが見せてきたおかげで、俺は、自分がなぜここに立っているのかを、言葉にできた。
こいつは、人の弱いところを、正確に当てる。
当てられた側が、そこを直せるとは、思っていなかったんだろう。
(第90話へ続く)
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【用語辞書】第89話に出てきた「投資」の話
この回のテーマは、選ぶことをやめないことです。
● 委ねることは、分けないことと同じ
全部を誰かに預ければ、自分で決める苦しさからは解放されます。ですが、預けた先が一つなら、それは最も集中した状態です。判断を手放したつもりで、実際には、いちばん危ない配分を選んでいることになります。
● 失敗の原因を、正しく取り違えない
大きく失った経験があると、選んだこと自体が悪かったように思えます。ですが、多くの場合、悪かったのは選んだことではなく、一つに賭けすぎたことのほうです。原因を取り違えると、次にとる対策も間違えます。選ぶのをやめるのではなく、賭け方を変えるのが答えです。
● 本当のことは、はねのけにくい
誤りを含んだ主張は反論できますが、事実を突いてくる主張は反論しにくいものです。相手の言い分が正しくても、そこから導かれる結論まで正しいとは限りません。事実と結論を分けて聞くことが、こういう時の唯一の手立てです。
● 選べなかったものが、最後に残ることがある
自分で選んで組み入れたものは、自分で外すこともできます。逆に、はじめから外せない前提で置かれているものは、状況が悪くなっても外れません。それが弱点になる場面もあれば、動かせないことがそのまま守りになる場面もあります。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の団体・制度を批判する意図はありません。




