第75話 救済対象者です
「聖導院は、長い時間をかけて知りました」
現在の院主が、アルベスに語る。
「人々の不安や悪意が増えれば、魔物の発生傾向が変わることを」
声は、講義をする時のそれと変わらなかった。
新入りの職員に、名簿の書き方を教える時と、同じ調子だ。
「特定の感情が強まれば、特定の層に偏りが出ることを」
*
「救済札。配給。返礼。名簿」
院主は続けた。
「……それらによって、人の流れを集めれば——澱みの流れも読みやすくなります」
アルベスは、その一つひとつに、自分の筆跡があることを思い出していた。
札の番号。配給の記録。返礼の印。名簿の欄。
全部、彼が整えたものだ。
番号を振ったのは、重複を避けるためだった。返礼の印を作ったのは、人手を公平に割り振るためだった。
どれにも、理由があった。どれも、自分で考えた理由だった。
その一つひとつが、いま、別の目的の部品として、並べ直されている。
「完全ではありません。ですが——ある程度、魔物の発生を誘導できます」
*
「誘導できれば、冒険者を配置できます」
院主の口調は、最後まで穏やかだった。
「冒険者が倒せば、マナが戻る。そのマナで——配給が安定するのです」
*
アルベスは、無言だった。
聖導院は、人を助けるために、人を集めていた。
だが同時に——人を集めることで、澱みの流れも集め、魔物の発生を読み、
マナ回収を効率化していたのだ。
……順番が、わからなくなる。
助けるために集めたのか。集めるために助けたのか。
院主の話は、どちらの順でも、同じ形に読めた。
そして、どちらでも、配給は今日も出ている。
*
「豊潤の層は」
院主は続けた。
「意図した形ではありませんでした」
石の壁に、灯りが揺れる。
「……流れを太くしすぎたのです。甘い実りへの渇きが、想定より早く、深く、集まりすぎた」
*
「事故……だと」
アルベスが、初めて、声を漏らした。
*
「事故です」
院主は認めた。
隠さなかった。ごまかしもしなかった。
「ですが——崩れた後に生じた困窮者を放置することはできません」
その通りだ、とアルベスは思った。放置は、できない。
「救済は必要でした。そして、救済には——記録と、返礼が、必要です」
……救済には、記録が要る。
その一言も、正しい。
正しい一言が、順番に並べられていく。並べ終わったところに、あの層が沈んでいる。
どこで止めればよかったのか。
一つ前に戻っても、正しい。二つ前に戻っても、正しい。
戻れる場所が、見つからなかった。
*
「……豊潤の層の被害者も」
アルベスが、静かに問うた。
「流れの一部だと?」
*
「被害者ではありません」
院主は答えた。
「救済対象者です」
*
……被害者、ではない。
救済対象者。
欄の名前が、変わっただけだ。
だが、欄の名前が変われば、その先の手続きが全部変わる。
被害者なら、原因を調べる欄がいる。誰の責任かを書く欄がいる。
救済対象者なら、要るのは、支給した量の欄だけだ。
アルベスは、その二つの帳面の違いを、誰よりもよく知っていた。
彼が、作ったからだ。
*
「……言葉を変えれば」
アルベスの声が、わずかに震えた。
「痛みは、減るのでしょうか」
*
院主は、答えなかった。
*
沈黙が、続いた。
石の奥で、鼓動が、一定の間隔で鳴っている。
その音は、ここへ来てから一度も乱れていない。
アルベスは、院主の顔を見た。
柔和なままだった。
目の奥の温度も、扉の前で見た時と、まったく同じだった。
……いま自分が何を聞かされたのか、この人には、わかっているはずだ。
わかっていて、この温度なのだ。
抱えた帳面が、腕の中で、少しだけ重くなった気がした。
……役に立たない、と言われた帳面だ。
それでも、彼はそれを離さなかった。
この中には、名前がある。番号ではなく、名前が。
救済対象者、と書き換えられても、その欄には、まだ、名前が残っている。
いまの自分に守れるものが、もしあるとすれば、たぶん、そこだけだった。
(第76話へ続く)
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【用語辞書】第75話に出てきた「投資」の話
この回のテーマは、言葉を変えることと、中身を変えることの違いです。
● 自分が作った部品が、別の目的に使われる
番号も、印も、欄も、どれもアルベスが良かれと思って整えたものでした。設計した本人の意図と、その仕組みが実際に果たす役割は、別に決まります。作った側が善意でも、組み上がったものが何をしているかは、時々、外から確かめないとわかりません。
● 呼び名を変えると、手続きが変わる
被害者と、救済対象者。呼び方が変われば、必要な書類も、調べる項目も、責任の所在も変わります。言い換えは、ただの言葉遊びではありません。多くの場合、言い換えた瞬間から、扱いそのものが変わります。だから、名前が変わった時は、何が変わったのかではなく、何を書かなくてよくなったのかを見ると、実態がわかります。
● 事故の後始末が、次の依存を生む構造
一度起きた事故の後始末として始まった救済が、やがて管理対象を増やし、仕組みをさらに強化する材料になっていく——この循環は、危機のたびに規模を拡大していく組織や制度に、しばしば見られます。当事者に明確な悪意がなくても、次の危機に備えるという名目が、際限のない拡大を正当化してしまうことがあります。
● システムリスク=個別の管理が、全体の脆さを生む
院主は、悪意の流れを読み、魔物の発生をある程度誘導することで、マナ供給を効率化しました。個々の判断は、それなりに合理的です。しかし、複雑な仕組みを一部だけ制御しようとすると、想定外の場所に歪みが蓄積し、いつか制御しきれない崩壊を引き起こすことがあります。一見安定して見える仕組みが、内部に積み上がった歪みによって、突然崩れる——市場でも、同じ形の崩れ方が知られています。
● 管理しているという過信
少しの操作で大きな効果を得られる仕組みは、うまくいっている間は、とても効率的に見えます。しかし、制御できる範囲を超えた時、その効果は同じ大きさで、逆向きに働きます。ある程度は誘導できる、という見積もりが外れた時、外れる幅は、誘導できていた幅と同じだけあります。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の団体・制度を批判する意図はありません。




