第74話 悪意すら、流れの一部として
その夜、若き院主は、確かめずにはいられなかった。
澱みが流れ着いた先、最深部の方角——
そこで、何かが、蠢く気配があった。
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白く、脈打つ核。
根のように広がる、無数の管。
そこへ、あの黒い澱みが、静かに流れ込んでいる。
澱みは、形を持ち、卵のように膨らんでいく。
やがて——魔物が生まれた。
*
その魔物が倒される。
すると、澱みがほどけて——マナへと浄化される。
……戻った。
若き院主は、その一部始終を、息を殺して見ていた。
黒いものが降りてきて、形を持ち、殺され、白いものになって、また上がっていく。
水路と、同じだ、と彼は思った。
汚れた水が、下って、濾されて、また上がってくる。
ただ、この水路は、人の中から流れ出していた。
そして、濾すために、誰かが命を懸けている。
彼が今日まで倒してきた魔物は、全部、誰かの中から出たものだったことになる。
……誰の。
その問いを、彼は、その場では追いかけなかった。追いかけたら、立っていられなくなる気がした。
*
若き院主は、ふと、思い出す。
町に近い、浅い層でも、同じような黒い澱みを、薄く見たことがあった。
あの時は、気にも留めなかった。
深いところでしか起きないことだと思っていた。だから、浅いところで見たものは、別の何かだと思っていた。
……見えていたのに、数えていなかった。
彼は、そのことを、この先ずっと忘れなかった。
*
これまでの探索でも、思い当たる節があった。
恐怖に駆られた冒険者、焦りに追われた冒険者の近くでは、
澱みが、心なしか濃く漂っていた気がする。
……偶然、だろうか。
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……もしかして。
澱みは、人の感情から、生まれているのではないか。
核は、それを吸い込み、魔物へと変えている。
まだ、確信ではない。
ただの、仮説だった。
仮説のまま置いておくことも、できたはずだ。
できなかったのは、その仮説が、正しかった場合に救える人数を、彼が数えてしまったからだ。
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これを読めれば。
街を救える。
魔物がどこに出るか分かれば、冒険者を送れる。
マナが不足する前に、流れを整えられる。事故を、減らせる。飢えを、減らせる。
……この時点では——まだ善意だった。
救える人数を数えている限り、それは善意だ。
数えるのをやめて、仕組みの側の都合を数えはじめた日から、名前が変わる。
その日が、いつだったのかは、彼にもわからない。
*
若き院主は、その仮説を胸に、聖導院の門を叩いた。
誰よりも深くまで潜った経験と、あの仮説を、この場所でなら試せると思った。
一人で潜っていては、比べる材料が足りない。何百人ぶんの記録が集まる場所でなければ、確かめようがなかった。
長い年月をかけて、彼は、研究を重ねていく。
その間に、彼はもう潜らなくなった。潜る側から、送り出す側になった。
誰も、それを止めなかった。実際、送り出す側になってからのほうが、彼は多くの人を助けていた。
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恐怖、嫉妬、支配欲、飢え、焦り——様々な感情の痕跡を、彼は丹念に追った。
どれも澱みを生む。だが、量も、濃さも、まちまちだった。
恐怖は薄く、広く漂う。飢えは、季節によって形を変える。
嫉妬は、量は少ないが、消えるのに時間がかかった。支配欲は、集団の中でだけ、急に濃くなった。
どれも、扱いづらい。日によって違いすぎる。
仕組みに使うなら、いつも同じ場所から、同じ量で出るものがいい。
そして、やがて突き止めた。
中でも、最も濃く、最も扱いやすい指標になるのは——悪意だった。
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けれど、そこに、ひとつの危険な認識が生まれた。
悪意すら、流れの一部として扱える。
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院主は、悪意を消すのではなく——管理する対象として見はじめた。
*
その日、彼が変わったわけではない。
やろうとしていたことは、前の日と同じだった。街を、干上がらせない。それだけだ。
変わったのは、扱いの方だった。
悪意は、無くすべきものではなくなった。読むべきものになり、次に、集めるべきものになった。
消したいものと、必要なものが、同じ一つになった。
……もし、街から悪意が消えたら。
その日、彼が長い年月をかけて組み上げたものは、全部、要らなくなる。
彼は、その考えを、すぐに脇へ置いた。
置いただけで、捨てはしなかった。
どこかに、置き場所があった。
その置き場所は、何十年もかけて、少しずつ、部屋の真ん中へ移っていくことになる。
(第75話へ続く)
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【用語辞書】第74話に出てきた「投資」の話
この回のテーマは、仕組みが分かった時に、何が起きるか、という話です。
● 見えていたのに、数えていなかった
浅い層の澱みは、若い頃から目に入っていました。ですが、意味づけができていなかったので、記録もしていません。データが足りないのではなく、目の前を通っていたものを、数えていなかった——これは、後から振り返ると、いちばん悔しい種類の見落としです。意味がわからないうちに記録しておく習慣が、ここで効いてきます。
● 観測できるようになると、使いたくなる
仕組みが読めるようになった瞬間に、選択肢が一つ増えます。読むだけにするか、読んだうえで動かすか。読めるものは、たいてい、動かせます。だから、理解と利用のあいだには、当人が思うほどの距離がありません。院主は、悪いことをしようとして一線を越えたのではなく、読めたから、続けて動かしただけです。
● 扱いやすい指標が、目的をすり替える
測れるもののうち、いちばん扱いやすいものが、いつのまにか目標そのものになります。悪意が最も濃く出るとわかれば、悪意を基準に運用が組まれます。仕事の評価でも、投資の判断でも、扱いやすい数字が中心に据わり、扱いにくいけれど大切なものが、脇へ寄せられていきます。
● 消したいものが、必要なものになる時
本来なくすべきものが、仕組みを回すために必要になってしまう——これが、この回でいちばん危ない転換です。事故があるから安全対策の部署が要る、不良があるから検査が要る。それ自体は当たり前ですが、なくなると困る側に立った時、人は無意識に、なくならない方向へ判断を寄せはじめます。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の団体・制度を批判する意図はありません。




