第73話 器の底
白い扉の向こうに、音はなかった。
ただ、足の裏から、深い鼓動だけが、伝わってくる。
……一定だ、とアルベスは思った。
速くも、遅くもならない。生きているものの音にしては、あまりに揃いすぎている。
それでいて、機械の音でもなかった。
院主が、扉を開いた。
*
燭台の光が、扉の内側から漏れて、院主の顔を照らした。
白髪。整えられた髭。灰色の、澄んだ目。
柔和だった。
アルベスは、この人の顔を、何百回も見ている。会議の間で、廊下で、配給所の前で。
なのに——今日まで、見ていなかった気がした。
いつも、少し離れた場所にいた。段の上か、逆光の中か、机の向こうか。近づく用がなかったし、近づく作法でもなかった。
いま、同じ扉の前に、同じ高さで立っている。
……この人は、こういう顔をしていたのか。
温かい。責める顔ではない。長く人の話を聞いてきた者の、静かな顔だ。
ただ、一つだけ。
目の奥の温度が、変わらない。
扉を開ける前も、開けたあとも。まったく同じだった。
人の顔は、場所で少し変わる。会議の間の顔と、廊下の顔と、この扉の前の顔は、本来なら同じにならない。
この人だけが、同じだった。
……この人は、どこにいても、同じ場所に立っているのだ。
*
中は、聖導院の白さとは、まるで違った。
清潔な伽藍の奥にあるとは思えない、古い石。
湿った空気。黒ずんだ壁。うっすらと、脈打つマナの光。
表側が、白い器なら。
ここは——器の、底だった。
アルベスは、無意識に、帳面を抱きしめていた。
……なぜ抱えたのか、自分でもわからなかった。
守るためか。守られるためか。
この帳面には、この街の困窮者の名前が、ほとんど載っている。誰が何をいくつ受け取ったか、何日並ばなかったか。
その全部が、いま、何の役にも立たない場所に来ている。
*
「ここでは、帳面は、役に立ちません」
院主は、静かに、言った。
「流れは、紙の上より先に——石の奥で、乱れます」
アルベスは、答えなかった。
言われたことは、正しい。ここには数える対象が何もない。
それでも、抱えた手は、緩まなかった。
*
院主の背後には、聖導院に仕える上級召喚士たちが、十一人。
アルベスと合わせて、十三人。
あらかじめ、院主が招集した者たちだった。
最深部へ至る近道は、すでに整備されている。それでも、強い魔物が、なお徘徊している区画だ。
先を行く召喚士の一人が、闇の奥から躍り出た、爪の長い獣を、ゴーレムの一撃で、瞬く間に切り伏せた。
露払いは、慣れた手つきだった。
誰も、驚かない。
……この道は、彼らにとって、すでに通い慣れた道なのだ。
アルベスは、それに気づいて、少しだけ息を止めた。
整備されている。慣れている。招集されている。
つまり、今日が初めてではない。
自分だけが、今日、初めてここに来た。
十一人。いずれも上級召喚士だ。名前も、階級も、彼が名簿に書いている。
書いていながら、この者たちが何のためにここへ通っているのかを、彼は今日まで知らなかった。
……管理していたつもりの側が、いちばん知らされていなかった。
その事実に、彼は、思ったより長く動揺した。
*
「ここは街の底です」
院主は、進みながら語った。
「井戸も、畑も、配給も、すべて——この下から立ち上る流れに支えられています」
その言い方に、誇りはなかった。自慢でも、脅しでもない。
単に、そうである、と言っただけだ。
アルベスは、その平坦さのほうに、背筋を冷やした。
誇っている人間は、まだ疑える。当たり前だと思っている人間は、疑いようがない。
*
院主の記憶が、遠い日へ、沈んでいく。
まだ若く、凄腕の冒険者だった頃。
あの大きな器を思いつく、少し前の記憶——ある一つの狩りの光景が、鮮明に、甦ってくる。
*
同じ隊にいた、一人の仲間。
腕は立つが、いつも人一倍、報酬に貪欲だった。
悪い男ではなかった。飯は奢るし、新入りにも道を教える。
ただ、分け前の話になると、目つきが変わった。
その日も、彼は、仲間の制止を振り切り、格上の魔物へ、単身で挑みかかっていった。
自分が仕留めれば、取り分が変わる。それだけの理由だった。
「待て、無茶だ!」
*
戦いは、荒れた。
仲間の焦り、苛立ち、そして——負けたくない、という強欲な執着。
それらが入り混じった、剥き出しの感情が、彼の体から、
黒い靄のように、薄く滲み出ているのが見えた。
*
その靄は、若き院主の目の前で、ゆっくりと、地の底——最深部の方角へと、
吸い込まれるように流れていった。
*
「……今の、何だ」
仲間が魔物を倒し、興奮気味に戻ってくる間も、
彼の目は、地の底へと消えていった、あの澱みの行方に、釘付けのままだった。
倒したぞ、と、肩を叩かれた。
……この男の中から出たものが、いま、地面の下へ落ちていった。
そう言ったところで、誰も信じない。自分でも、まだ、信じていなかった。
(第74話へ続く)
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【用語辞書】第73話に出てきた「投資」の話
この回のテーマは、見えている場所と、見えていない場所の関係です。
● 表と裏は、同じ仕組みの両側
白い伽藍と、湿った石の底。二つは別の場所ではなく、同じ器の、表と底です。うまく回っている仕組みには、たいてい、表からは見えない部分があります。見えないから悪い、という話ではありません。ただ、表だけを見て全体を評価すると、支えている構造を見落とします。
● 自分だけが知らなかった、という発見
整備された道。慣れた手つき。招集された十一人。アルベスが気づいたのは、事実そのものより、自分がその外にいた、ということでした。情報の非対称——同じ組織にいても、知っている人と知らされていない人がいる。誰かに任せて判断する時は、自分が全部を見られる立場にいるのかどうかを、先に確かめておくと役に立ちます。
● 数えられない場所では、帳面は役に立たない
測る道具は、測れる対象があって初めて働きます。数字がない場所で数字を求めても、答えは出ません。それでも人は、慣れた道具を手放せません。アルベスが帳面を抱えたのは、役に立つと思ったからではなく、それしか持っていなかったからです。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の団体・制度を批判する意図はありません。




