第72話 ……ふえてる
その先、小さな窪みに、三人の冒険者が身を寄せ合っていた。
衰弱しているが、息はある。
「……助けが、来た……?」
一人が、声を絞り出した。
*
「もう大丈夫だ」
俺は、声をかけた。
「歩けるか」
「な、なんとか……すみません、俺たち、油断して、深追いしすぎて」
三人とも、若い。俺と、そう変わらない歳だろう。
顔に見覚えはなかった。それでも、この顔つきには、覚えがあった。
……責める気にはなれなかった。
誰にでも、起こりうることだった。
一度うまくいった帰り道が、次も同じだけ安全だと思う。そこから半歩だけ深く入る。半歩なら、たいてい何も起きない。
起きるのは、その半歩を、何度も重ねたあとだ。
俺だって、あの追い風の日に、同じ顔で走っていた。
あの時、止めてくれたのは、俺じゃなかった。
「水は」
俺は聞いた。
「……二日前に、切れました」
……三日と言っていたが、二日で切れていたのか。
助けが来たから、こうして話ができている。来なければ、この三人は、記録板に書かれる側になっていた。
どこで見つかったか。何日目だったか。次に、同じ道を通る誰かのために。
……それでも、書かれるだけだ。
書かれる側と、書く側の違いは、たぶん、そんなに大きくない。今日たまたま、報せが届いただけだ。
*
一行は、救出した冒険者たちを支えながら、来た道を戻りはじめた。
シルクの記録板が、再び、安全な道を示す。
*
撤退の途中、シルクが、ふいに、足を止めた。
耳が、ぴくりと動く。
鼻を、深く、ひくつかせる。
*
「……ふえてる」
「何がだ」
「……におい。もっと、おくから」
シルクは、最深部の方角を、じっと見つめていた。
「……まものの、におい。……ふえてる」
*
俺は、そちらへ鑑定を向けようとした。
だが、届かない。
深すぎる。まだ、俺たちの手の届く場所じゃない。
……何が起きているのか、わからない。
わかるのは、ただ——何かが、増えている、ということだけだった。
*
シルクの鼻は、これまで一度も外していない。
甘い匂いの下の腐りを嗅ぎ分けたのも、白い施しの下の苦さに気づいたのも、この子だった。
どちらの時も、俺の窓は、同じことを見つけるのに、少し遅れた。
説明はできない。理屈も言えない。
それでも、当たる。
……わからないまま持ち帰る、というのが、たぶん、いちばん難しい。
わからないと、人は、何か理由をつけたくなる。つけた理由は、たいてい間違っている。間違った理由をつけたほうが、わからないままでいるより、気分がいいからだ。
だから今日は、何もつけないでおく。
匂いが増えている。それだけを、そのまま持って帰る。
「シルク」
俺は言った。
「いまの、板に書いておいてくれ。理由はいらない。日付と、場所と、匂いが増えてた、だけでいい」
「……りゆう、なくても、いいの?」
「いい。あとで誰かが、理由のほうを見つける」
シルクは、しばらく考えてから、小さく頷いた。
板の端に、短い線が、一本増えた。
意味のわからない一行だ。読んだ誰も、たぶん、それが何なのかわからない。
……それでいい。わかった時に、日付が残っている。
*
一行は、無事、集落へ戻った。
救出した冒険者たちは、手当てを受け、休息に入った。
ロウエンが、静かに、水路のそばで出迎えた。
「……ご苦労じゃった」
その一言だけだった。何があったかも、聞かなかった。
……たぶん、聞かなくても、だいたい見当がついている。
この人が留守を選んだのは、体調のせいだけじゃないのかもしれない。
水路の底は、いつもどおり、細く鳴っていた。
いつもどおり、という言葉が、今日は少しだけ、ありがたく聞こえた。
*
俺は、シルクの言葉を、何度も思い返していた。
——ふえてる。
何が。なぜ。どうやって。
……何もわからない。
わかることを、順番に並べてみた。
窪みで三日耐えた三人がいた。傷を長引かせるほど増える敵がいた。深いところで、匂いが増えている。
この三つが、どこかで繋がっているのかどうかも、わからない。
繋げてはいけない、と思った。まだ、線を引くには早い。
三つを繋いだ絵は、たぶん、すぐに描ける。描けるからこそ、危ない。
手元にある材料だけで説明がついてしまうと、材料の外にあるものを、探さなくなる。
*
ただ、確かなのは、
この静かな集落の、ずっと奥深くで、
何かが、静かに、動きはじめているということだけだった。
(第73話へ続く)
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【用語辞書】第72話に出てきた「投資」の話
この回のテーマは、まだ理由のわからない異変を、どう扱うか、という話です。
● 説明のつかない観測を、そのまま記録しておく
ガクは、理由のわからない異変を、理由のないまま板に書かせました。これは、実務としてかなり有効な手です。記録した時点では意味がなくても、後から別の情報と並べた時に、初めて形が見えることがあります。逆に、その場で意味づけしてから記録すると、意味づけのほうしか残りません。
● 予兆を見逃さない、しかし焦って動かない
シルクは、まだ理由のわからない異変を感じ取りましたが、ガクはすぐに答えを求めようとはしませんでした。何かがおかしいという予兆に気づくことと、まだわからないことを、わからないまま持ち帰る冷静さ——どちらも、リスクに向き合う上で大切な姿勢です。
● わからないことに、理由をつけたくなる
説明のつかない動きを前にすると、人はもっともらしい理由を探します。ですが、後づけの理由は、たいてい間違っています。しかも、間違った理由を持っていると、次に本当の原因が見えた時、それに気づけなくなります。わからないものを、わからないままの形で記録しておくほうが、後で役に立ちます。
● 深追いは、半歩ずつ起きる
遭難した冒険者たちは、いきなり無茶をしたわけではありません。少しだけ深く、を何度も重ねただけです。危険は、大きな決断ではなく、小さな延長の積み重ねから来ます。だから、線は、その場の判断ではなく、あらかじめ引いておくものです。
● 届かない範囲があることを、認める
鑑定が届かない。まだ手の届く場所ではない。これを認められるかどうかが、分かれ目になります。手が届かないものについては、判断しない。判断しないと決めることも、判断のうちです。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。




