第76話 地面の下の機嫌
集落は、いつも通りの静けさを保っていた。
あの日、シルクが感じ取った小さな違和感について、まだ誰も、答えを持っていなかった。
*
いつも通り、と言ったが、正確じゃない。
配給所に並ぶ人々の疲れ方が、以前より濃い。並び方は同じだ。人数も、そう変わらない。ただ、立っている姿勢が違う。
聖導院の札が、心なしか冷たい。
ナギの水面が、ふいに、揺れた。コガネが、鈍く、重くなった気がした。
ロウエンのシズクの雫も、この頃、さらに細っている。
……どれも、気のせいで済ませられる大きさだ。
一つずつ見れば、そうだ。
*
俺は、ダンジョンの奥へ、なんとなく、鑑定を向けてみた。
▼ 鑑定結果
名称:ダンジョン深部 / 源流の乱れ
─── 市場指標 ───
流動性 ……… 低下
センチメント … 悪化
信用不安 …… 上昇
供給圧力 …… 人為的な偏り ⚠
気になる兆し … 塗り固めの剥離 ⚠⚠
────────────────
見立て:水面は静かに見える。
だが、底の流れが、
誰かの手で曲げられている。
……見出しが、違う。
市場指標。
こんな書式は、初めてだ。
敵の天気を読む窓でも、中身を診る窓でも、判断を測る窓でもない。
これは——場そのものの、数字だ。
一体でも、一人でも、一つの道具でもない。ダンジョンの深いところ全体に、値がついている。
*
欄を、順に見た。
流動性、低下。センチメント、悪化。信用不安、上昇。
三つとも、悪い方へ動いている。ただ、値そのものは、まだ穏やかだ。
問題は、その下だった。
供給圧力……人為的な偏り。⚠。
……人為的。
この一語が、この窓のすべてだと思った。
自然に悪くなっているんじゃない。誰かが、そうしている。
窓が、そう書いている。
*
そして、いちばん下。
塗り固めの剥離。⚠⚠。
塗り固め、という言葉には、覚えがある。
あの白い伽藍にも、あの人の窓にも、同じ字が並んでいた。表面が白く厚くて、下が読めない、というやつだ。
今度は、その塗り固めが——剥がれている。
……剥がれる、というのは、中身が出てくる、ということだ。
塗った側が、剥がしているのか。塗りきれなくなって、剥がれているのか。
窓は、そこまでは書いていない。
*
……誰かの手で。
俺の背筋が、冷たくなった。
*
ロウエンも、水路のそばで、異変に気づいていた。
水の流れが、いつもと違う。不自然に、太くなったり、細くなったりしている。
「……誰かが源に触れたか」
ロウエンが、低く呟いた。
「源って、じいさん、何すか」
トトが尋ねる。
「水路はのう」
ロウエンは、水面をじっと見つめた。
「下流だけ見ておっても、直らん時がある。上で、流れを曲げる者がいれば、下は——必ず濁る」
……上。
俺は、その言葉を、しばらく噛んでいた。
俺たちがずっと見てきたのは、下流だ。配給所の列。施し札。財布の中身。記録板。
全部、水が届いた先の話だった。
*
その日の夕方、レイラが、ふらりと現れた。
片手には、串焼きが二本。
どう見ても、深刻な用事で来た顔ではなかった。
「ほら、トト。食うかい」
「食います!」
「返事が早いねえ」
レイラが笑って、串を一本放る。トトはそれを、犬みたいな勢いで受け取った。
*
「で、あんたは?」
レイラが、もう一本の串を、俺のほうへ差し出してくる。
「いや、俺は——」
「ガク様は、先ほど食事を済ませています」
オルカが、横から静かに言った。
「へえ。食べた量まで管理してるのかい」
「体調管理です」
「便利な相棒だねえ」
「はい」
即答だった。
そこに、なぜか、少しだけ圧があった。
*
レイラは面白そうに目を細める。
「じゃあ、これはあたしが食べるか」
「それが合理的です」
「合理的、ねえ」
レイラは串焼きをかじりながら、何気ない調子で足元を見た。
「……ま、飯が普通に食えるうちは、まだ町も終わっちゃいないさ」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
「何か、気になるのか」
*
「んー。気になるってほどじゃないよ。ただ、召喚士ってのは、地面の下の機嫌に敏感でね」
レイラは軽く肩をすくめた。
「今日は、少しだけ落ち着かない。雷狼が、寝床で耳を立てるくらいにはね」
「危ないのか?」
「今すぐ、どうこうって話じゃない」
レイラは、わざと明るく言った。
「ただ、こういう日は、無理に深く潜らない方がいい」
串の先で、地面を軽く指す。
「稼ぎたい連中ほど、こういう小さな違和感を笑って踏み抜く」
*
トトが串焼きを頬張りながら、こくこく頷いた。
「俺、最近それ、ちょっとわかってきました。違和感ある時に突っ込むと、だいたい師匠に怒られるっす」
「いい師匠じゃないか」
「はい! めちゃくちゃ地味ですけど!」
「褒めてんのか、それ」
俺が苦笑すると、レイラは声を立てて笑った。
「地味でいいんだよ。派手なやつほど、足元の音を聞かないからね」
*
オルカが、そこで淡々と口を挟んだ。
「レイラ殿の経験則は、一定の参考価値があります」
「おや。褒められたかい?」
「経験則としては、です」
「そこ、限定するんだね」
「重要な条件です」
……先日から、オルカはレイラ相手だと、妙に言葉の角が立つ。
レイラはそれを楽しんでいるようだった。
*
「まあ、安心しな。今日は喧嘩を売りに来たんじゃないよ。串焼きが余ったから、顔を見に来ただけさ」
「本当にそれだけか?」
「半分はね」
「もう半分は?」
レイラは、串の先で、遠くのダンジョンの方角を軽く示した。
「雷狼が、少し落ち着かない。だから、あんたたちの鼻と水路の爺さんが、何か掴んでないか見に来た」
*
シルクが、耳をぴくりと動かす。
「……した。……すこし、にがい」
「だろうね」
レイラは、ふっと笑みを薄くした。
「でも、今はまだ、飯を食って、寝られるなら寝な。慌てて動くほど、相手の流れに乗せられる時もある」
その言葉に、ナギの静かな水面が、ほんの少しだけ揺れた気がした。
「焦らないことも、備えか」
「そういうことさ」
*
……この人は、串焼きを二本持ってきた。
用があるなら、そう言えばいい。呼びつけてもいい。
そうしなかったのは、たぶん、こっちに何もなかった時に、ただの世間話で終わらせるためだ。
空振りでも、格好がつく形で来ている。
……警告というのは、こういう出し方があるのか。
俺が前世で受け取ってきた警告は、どれも、受け取った側が困る形をしていた。
*
レイラは、食べ終えた串を軽く振って立ち上がった。
「何かあったら呼びな。あたしの雷狼は、寝起きが悪いけど、叩き起こせば働く」
「現時点で、要請の予定はありません」
オルカが即座に言った。
「おや。残念」
「必要が生じた場合は、戦力評価を行います」
「戦力としては?」
「評価対象です」
「まだ候補止まりかい」
「はい」
レイラは、愉快そうに笑った。
「ま、候補に入ってるなら上等だ」
そう言って、彼女は夕暮れの通りへ歩いていった。
*
緊迫というほどではない。
けれど、完全な日常とも言い切れない。
串焼きの匂いと、地下から来るかすかな苦さが、夕方の風の中で、ほんの少しだけ混ざっていた。
(第77話へ続く)
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【用語辞書】第76話に出てきた「投資」の話
この回のテーマは、まだ数字が動く前の、小さな違和感です。
● 場そのものに、値がつくことがある
個別の銘柄ではなく、市場全体の状態を測る見方があります。流動性、市場心理、信用不安——どれも一つの会社の話ではなく、取引が行われている場のほうの数字です。個別を丁寧に調べていても、場の側が傷んでいる時は、全部が同じ方向へ動きます。ときどき、視線を場のほうへ上げておくと役に立ちます。
● 人為的な偏り=自然に悪くなっているのではない
悪化にも種類があります。景気の循環で下がるのと、誰かの操作で歪むのとでは、対処がまるで違います。前者は待てば戻りますが、後者は、その手が止まるまで戻りません。悪くなっている、で止めずに、なぜ悪くなっているかを一段だけ深く見る——ここが分かれ目になります。
● 下流だけ見ていても、直らないことがある
配給所の列も、財布の中身も、水が届いた先の話です。上流で流れを曲げる者がいれば、下流は必ず濁ります。手元の数字をいくら整えても直らない時は、原因が自分の管理範囲の外にある可能性を疑ったほうが早いことがあります。
● 空振りしてもいい形で、警告を出す
レイラは、串焼きを二本持って来ました。何もなければ世間話で終わる形です。警告は、受け取る側が身構えないほど届きやすく、外れた時に出した側が損をしないほど、次も出しやすくなります。伝え方の設計は、内容と同じくらい大事です。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の団体・制度を批判する意図はありません。




