第7話 働けど、働けど
希望をもって新しい生活が始まりますが、前途多難のようです。
石畳は、冷たかった。
城壁の隅、軒先のわずかな庇の下で、膝を抱えたまま、俺は朝を迎えた。宿に泊まる金などない。結局、ゆうべはここで眠った。固い石の上で丸まって、空腹をなだめながら。
異世界転生、初日の夜。所持金ゼロ。野宿。
……夢に見た異世界生活と、だいぶ違う。
「おはようございます、ガク様」
隣で、オルカが静かに言った。彼女は、夜の間も、ずっとそこにいた。眠りもせず、淡く光ったまま、俺のかたわらに。いてくれた、と言うべきか。出しっぱなしで、俺のマナを吸い続けていた、と言うべきか。
……たぶん、両方だ。
「ああ。おはよう」
立ち上がると、腹が、ぎゅう、と鳴いた。猛烈な空腹。昨日から、水しか口にしていない。頭は、ぼんやりと重い。マナも、半分くらいしか戻っていない気がする。
——食わなきゃ。何か、食わなきゃ、死ぬ。
そのためには、稼ぐしかない。
俺は、街の真ん中を見上げた。ひときわ高く、青白いマナの光を噴き上げる、巨大な縦穴から。あれが、ダンジョン。この世界の、工場で、職場。
……行くか。新しい、初出社だ。
ダンジョンの入り口は、思っていたより、ずっと雑然としていた。
屈強な男たちが、武器を担いで、ぞろぞろと縦穴へ吸い込まれていく。誰もが、でかい。誰もが、荒っぽい。鉄の塊みたいな大剣を背負った男、岩を砕きそうな拳に布を巻いた大女。みんな、いかにも「力で押し通る」という顔をしている。
脇には、買い取り所があった。潜って戻ってきたハンターが、ずだ袋いっぱいの青白い結晶を、カウンターにじゃらじゃらと空ける。係の者が、それを量り、貨幣を手渡す。倒した魔物が浄化されて残るマナの結晶を、こうして売って、金にする。オルカが昨日、教えてくれた通りだ。
なるほど。ここで稼いで、メシを食う。単純な話だ。
俺は、列の最後尾に並んだ。前に立つ大男が、ちらりと俺を振り返り、それから——隣のオルカを見て、ぴたりと、動きを止めた。
「……お、おい。あれ、人型のゴーレムじゃねえか」
「常時、出しっぱなし……? どこの大召喚士さまだよ」
ひそひそと、ざわめきが伝わっていく。例によって、オルカのせいだ。俺が、とんでもない実力者だと、勝手に勘違いされている。
——違うんです。俺、ただの、すっからかんの新人なんです。
列のかたわらで、若いハンターが、ちっ、と舌打ちをした。その足元で、小さな光が、力なく揺れている。丸っこくて、地味な、精霊の燃えさし。
「使えねえな。守りなんざ、銭にならねえ。派手に殴って、ガンガン稼いでナンボだろうが」
男は、その光を、足の甲でぞんざいに払いのけた。光は、すうっと薄れ、横穴の奥の暗がりへと、転がるように消えていった。
……ひでえ、な。
そう思ったけれど、俺に、口を出す資格はなかった。自分のメシすら、まだ稼げていないのだから。
俺は、ただ目をそらして、縦穴の縁を降りていった。
浅い層は、薄暗く、じめじめとしていた。
空気は湿って、土とかびのにおいがした。遠くのほうで、別のハンターたちの怒声と、何かを力任せに叩き潰す、にぶい音がこだましている。誰もが、奥へ、奥へと、潜っていく。立ち止まる者など、ひとりもいない。
壁から、淡い光がにじむ。あれがマナの源か。足元の岩陰で、何かが、かさり、と動いた。
——出た。
灰色の、痩せた鼠。だが、ただの鼠じゃない。目が濁った黄色に燃えている。一匹、二匹——いや、もっといる。わらわらと、壁の隙間から這い出してくる。
俺は、反射的に、一番手前のやつに鑑定を向けた。
▼ 鑑定結果
名称:灰鼠 / 群れ:多数
─── 相場環境 ───
地合い ……… 軟調(弱気)
変動性 ……… 低
主導要因 …… 単一
複雑度 ……… ★☆☆☆☆
─────────────
見立て:環境は単純。小さく一手で足りる。過剰な備えは、費え。
……また、これだ。地合い。変動性。複雑度。魔物のくせに、相場の天気予報。
最後の一行が、やけに気になった。「過剰な備えは、費え」。……ついえ。費える、の、費え。無駄になって、消えてなくなる、って意味だ。けど——何が無駄なんだ?
「オルカ。この鑑定の言葉……お前、意味わかるか」
(……おぼろげには。ですが、はっきりした意味を掴むには、ガク様の元の世界の知に遠く手を伸ばす必要があります。——マナを消費します)
「マナを?」
(はい。手を伸ばすほど、深く読むほど、重い。……今は、半分も残っていません。堪えてください。言葉の意味を知るのは、生き延びてからでも、遅くありません)
……知るだけで、マナを食うのか。この世界は、つくづく、世知辛い。
考えている暇は、なかった。灰鼠の群れが、一斉に、こちらへ走り出す。
「オルカ!」
「はい」
淡く光る腕が、薙ぎ払われる。たった一振り。灰鼠の群れは、まとめて吹き飛び、岩肌に叩きつけられ——ほどけるように、淡い光へと変わった。宙でくるりと凝り、こつん、こつん、と、青白い結晶がいくつも地面に落ちる。
……やっぱり、強い。
俺は、結晶を拾い集めた。手のひらに、五つ、六つ。ほんのり、脈打っている。
よし。この調子だ。拾って、売って、メシを食う。
——次の群れだ。
「オルカ、頼む」
「……はい」
また、一振り。また、結晶。次。一振り。結晶。次——。
夢中で、繰り返した。倒して、拾って、また倒して。ずだ袋が、だんだん、ふくらんでいく。やった。稼げてる。働けば、ちゃんと報われる。
……はずだった。
気づけば、膝が、笑っていた。
ふらり、と視界が傾ぐ。さっき半分戻ったはずのマナが、もう空っぽに近い。指先が冷たい。あのオルカの一振りは、振るうたびに、俺のマナをごっそりと持っていく。それを何十回も繰り返したのだ。
「ガク様。そろそろ限界です」
オルカが、静かに、告げた。
……ああ。もう立っているのも、やっとだ。
俺は、ずだ袋を抱えて、よろよろと縦穴を上がった。
買い取り所のカウンターに、俺は、結晶をすべて空けた。じゃらじゃらと、青白いそれが量りに乗る。
「銅貨、八枚」
係の男が、無造作に硬貨を滑らせてきた。
銅貨、八枚。
——これが、半日、命を削って稼いだ額。
まあ、いい。ゼロよりは、ずっといい。俺は、ふらつく足で、昨日の露店へ向かった。焼けた肉のたまらないにおい。
「すみません、これひとつ」
「あいよ、銅貨二枚」
今度は払えた。震える指で、二枚を渡し、串を受け取る。一口、かじった瞬間——じゅわ、と脂と塩が口の中に広がった。
……うまい。
涙が出そうになった。異世界に来て、初めてのまともな食事。たかが、肉の串一本。それが、こんなに。
でも。
半分ほど食べたところで、ふと、頭の隅が冷えた。
……待てよ。
俺は、残りの銅貨を手のひらで数えた。六枚。串を引いて、六枚。たしかに、貨幣は増えた。けど——マナは?
半日、ダンジョンに潜って、稼いだマナの結晶は、全部売った。なのに、俺のマナは半分どころか、ほとんど空っぽだ。朝より、ずっと減っている。オルカを振るうのに食ったマナのほうが、拾った結晶より、はるかに多かったからだ。
貨幣は、ちょっと増えた。マナは、ごっそり減った。
……これ。
差し引きで、俺、貧乏になってないか?
働けば働くほど、すり減っていく。動いた分だけ、損が積み上がる。
——これ、前世でさんざん味わったやつだ。
毎晩、終バスを逃し、自転車で帰宅。休日なく出勤。身を削って働いて、それでも暮らしは楽にならなかった、あの灰色の日々。……はるばる異世界まで来て、同じ沼にはまるとは。我ながら芸がない。
頑張り方を間違えちゃうと後が大変ですね。




