第69話 救ったことがある者ほど
その頃、俺はロウエンと共に、聖導院の前を通りかかっていた。
白い階段の上に、院主が立っていた。
遠目にも、隙のない佇まいだった。
……なんとなく、俺は鑑定を向けた。
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▼ 鑑定結果
名称:聖導院の院主/大きな器を掲げる者
─── 銘柄カルテ ───
信用 ……… 極めて高い
実務能力 …… 極めて高い
還元意識 …… 高い
管理志向 …… 極大 ⚠
自己保存 …… 上昇中 ⚠
気になる兆し … 塗り固めあり ⚠⚠
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詳細:表面、白く厚い。下層、読取不能。
見立て:救うために集めた器が、
器を守るために、
人の流れを欲し始めている。
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……相変わらず、読めない。
塗り固めが、あまりにも分厚い。
*
この並びには、見覚えがあった。
信用。実務能力。還元意識。管理志向。
あの管理官の窓と、四つまで同じだ。組織に属する人間には、同じ物差しが立つらしい。
違うのは、その下だ。
あっちには、柔軟性、があった。
こっちには——自己保存、がある。
……欄が、一つ入れ替わっている。
柔軟性が低いのは、曲がらないということだ。融通が利かない。それは、厄介ではあっても、悪意じゃない。
自己保存が上昇中、というのは、そういう話じゃない。
守る対象が、自分の側に寄ってきている、ということだ。
*
それから、いつもは無い一行があった。
詳細。
表面、白く厚い。下層、読取不能。
この行を見るのは、二度目だ。
一度目は、あの白い伽藍そのものに向けた時だった。同じ字面が、同じ場所に出ていた。
……建物と、人が、同じ書き方で読めなくなっている。
塗り固めているのは、たぶん、この人だ。
塗り固められているのも、たぶん、この人だ。
*
「院主は、昔からああだったのか」
俺は隣のロウエンに尋ねた。
「いや」
ロウエンは遠くを見ながら答えた。
「最初は、よく潜る若者じゃった。誰より深く、誰より多く、マナを持ち帰った」
その言い方に、責める色はなかった。
「あやつのおかげで、冬を越した集落もあるのじゃ」
……意外だった。
*
「ただの悪人なら」
ロウエンは続けた。
「楽じゃった」
「救ったことがある者ほど」
ロウエンは、静かに言った。
「自分の救い方を、疑えなくなる」
杖の先が、地面を軽く突いた。
「……あやつは、確かに救った。だからこそ——厄介なんじゃ」
*
その言葉が、俺の胸に重く残った。
……確かに救った。だから、疑えない。
順番が、逆じゃないのだ。悪いことをしたから間違ったんじゃない。正しいことをして、それが実際にうまくいったから、疑う理由がなくなった。
あの窓の見立ても、そう書いてあった。
救うために集めた器が、器を守るために、人の流れを欲し始めている。
器は、最初から器だった。変わったのは、何のために満たすか、だ。
*
院主の記憶は、さらに深く沈んでいく。
かつて、まだ若かった頃。彼は、仲間たちと最深部を目指したことがある。
仲間たちは、途中で、次々に倒れていった。
彼だけが、さらに進んだ。
そして、奥で——白く脈打つ何かを見た。
そこから、マナが立ち上っていた。
同時に——何かが、生まれる気配もあった。
その日、彼は見たのだ。この街が、何に支えられているのかを。
そして、人の澱みが——どこへ流れ着くのかを。
その記憶の詳細は、いまだ、彼の胸の奥深くに封じられたままだった。
*
「豊潤の層の乱れは」
院主は、私室でアルベスに呟くように言った。
「制御の範囲を超えました」
「……あれは」
アルベスが、静かに問う。
「多くを失いました」
院主は続けた。
「ですが、失った流れを、ただ嘆くことは——できません」
言葉に、震えはなかった。
「生き残る者には、次の流れを整える責務があります」
アルベスは、それ以上、何も問わなかった。
*
院主は、若い職員の言葉を、もう一度思い返した。
——救済の失敗ではなく、成功ではないのでしょうか。
その思想が、広がれば。
配給列は、短くなる。名簿の力は、弱まる。返礼の流れは、細る。マナ供給の管理は、乱れる。
聖導院の存在意義が——揺らぐ。
人々が、自分の判断で動きはじめる。
「小さな桶は」
院主は静かに言った。
「温かい。……ですが、街を生かすには足りません」
そして。
「大きな器を——もう一度満たさねばなりません」
*
その夜、院主は聖導院の奥、管理区画へと続く扉の前に立った。
古い鍵を手に取る。
扉には、白い封印。
奥から、かすかに——マナの鼓動が聞こえた。
「院主」
アルベスが、遅れて追いついた。
「管理区画を開けるのですか」
「見るだけです」
院主は、答えた。
一拍置いて。
「源の流れを」
*
白い扉の向こうで、遠い鼓動が、ひとつ、鳴った。
それは——街を生かす音にも、何かが目を覚ます音にも聞こえた。
(第70話へ続く)
【用語辞書】第69話に出てきた「投資」の話
この回のテーマは、成功した人ほど、その成功を疑えなくなる、という話です。
● 成功体験が判断を鈍らせる
院主が大きな器に確信を持ったのは、それが実際に多くの人を救った、という成功体験があったからです。ですが、一度うまくいった方法に固執しすぎると、状況が変わった時に方針を修正できなくなります。過去の成功は、未来の正しさを保証してくれません。むしろ、成功が大きいほど、疑うための材料が手に入りにくくなります。
● 必要悪の正当化という罠
「事故は嘆くのではなく、次の流れに活かすべきだ」という考え方は、一見、前向きで責任感のある態度に見えます。しかし、都合の悪い出来事を必要な費用として片付けはじめると、本来向き合うべき問題から目をそらしてしまう危険があります。損失を検証せずに次へ進む癖は、同じ損失を繰り返す近道です。
● 塗り固め=読めないこと自体が、一つの情報
この窓は、中身が読み取れません。ですが、読み取れないという事実が、はっきり書かれています。開示が薄い、説明が整いすぎている、詳細を聞くと話がずれる——中身が分からないという状態そのものを、判断の材料として扱う。分からないものを、とりあえず良いものとして扱わないことが、大切です。
● 自己保存という一欄
組織を率いる人の物差しに、この欄が立ちはじめると、判断の向きが変わります。仕組みを守るための判断と、人を助けるための判断は、たいていの日は同じ方向を向いていて、時々だけ食い違います。その時々に、どちらを選んだかで、その仕組みが何のためのものかが決まります。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の団体・制度を批判する意図はありません。




