第68話 名簿に載せるための救済
そして、若き院主の「大きな器」は——最初から間違いではなかった。
彼が聖導院と協力し、マナの集積と配給を整えたことで、飢える者が減った。
怪我人への対応が早くなった。事故が起きた時、広域からの支援が届くようになった。配給量が安定した。遠くの集落にも、支援が届くようになった。
実際に、多くの人が救われた。
これは、彼の思い込みではない。数えられる形で残っている。
飢えによる死者の数。事故のあとに動員できた人手の数。冬を越した集落の数。
どれも、大きな器を作る前と、作ったあとで、はっきり違う。
見ろ。小さな桶では届かなかった者たちに、粥が届いた。水が届いた。
……ならば、大きな器は必要だったのだ。
この成功体験が、彼の中に深く根を張った。
根を張る、というのは、確信になる、ということではない。
疑う必要が、なくなる、ということだ。
疑うのは、うまくいかない時だ。うまくいっている間、人は、自分のやり方を検分しない。検分する理由が、どこにも無い。
*
だが、大きな器を維持するには——仕組みが要る。
支援を公平にするため、名簿が必要になった。
重複を避けるため、記録が増えた。
配給量を安定させるため、商人ギルドと結びついた。
マナ供給を安定させるため、ダンジョンの利権へ関わった。
人手を確保するため、返礼や奉仕が制度になった。
事故を減らすため、許可制、届出制が増えていった。
最初は、すべてに理由があった。
名簿を作る日、彼は反対しなかった。反対する理由が無かった。同じ人に二度配って、別の人に一度も届かない——それを直すための帳面だった。
商人ギルドと結んだ日も、そうだ。配給量が季節で乱れるのを、止めるためだった。
どれ一つとして、思いつきで始めたものはない。一つずつ、目の前の不具合を直すために、足していったものだ。
足すたびに、器は少し重くなった。
重くなるぶん、運ぶ者が要った。運ぶ者を養うために、また少し、集めなければならなくなった。
その一段ごとの重さは、いつも、直した不具合より小さく見えた。
*
けれど、いつからか。
救うための名簿が、名簿に載せるための救済に変わった。
配るための返礼が、返礼を集めるための配給に変わった。
器を満たすために——人を、器へ戻すようになった。
器を満たすことが、悪いわけではない。器が空なら、誰にも配れない。
ただ、満たすことが先に来た日から、人は、配る相手ではなく、注ぎ口として数えられるようになった。
どの日に入れ替わったのか、彼にも言えない。
毎日の判断は、どれも前の日の続きだった。前の日の続きを、正しく積んだだけだ。
入れ替わりには、日付がない。
……だから、気づいたところで、どこへ戻ればいいのかも、わからない。
*
現在。
アルベスが、院主の私室を訪ねていた。
「若い職員たちの一部に」
アルベスは報告した。
「救済対象者の自立を成果と見る意見が出ています」
院主は、静かに聞いていた。
自立を、成果と見る。
その言い方に、悪意はない。あの若い職員たちは、善いことを言っているつもりだろう。実際、善いことなのだろう。
「放置すれば、管理外の小さな流れが増えます」
アルベスは続けた。
「一方で、強く押さえれば——反発を招きます」
*
「押さえるのではありません」
院主は答えた。
「戻すのです。大きな器へ」
言った本人に、力みはなかった。
押さえるのは、力ずくだ。戻すのは、正しい場所へ帰すことだ。
彼の中では、後者だった。そこに嘘は、一つもなかった。
*
アルベスは、その言葉を、書き留めなかった。
書き留める種類の言葉ではない、と思ったからだ。
押さえるのではない、戻すのだ——それは、方針の言い換えとしては、丁寧すぎた。
丁寧な言い換えを必要とするのは、たいてい、そのままでは言いにくい中身のときだ。
彼は、それを知っていた。
知っていて、何も言わずに、私室を出た。
廊下は、白かった。掃除の行き届いた白さだった。
自分がいま黙ったことを、彼は、記録に残さない。
残さないものは、無かったことになる——それが、この帳面の作法だと、彼自身が誰よりよく知っていた。
(第69話へ続く)
【用語辞書】第68話に出てきた「投資」の話
この回のテーマは、善意で始まった仕組みが、なぜ肥大化し、目的をすり替えてしまうのか、という話です。
● うまくいっている間は、検分されない
やり方を見直すきっかけは、たいてい、失敗です。だから、成功が続いている仕組みほど、点検されないまま古びていきます。調子が良い時こそ、前提が変わっていないかを確かめる——言うのは簡単ですが、確かめる理由がその時いちばん見つけにくい、というのが厄介なところです。
● 規模の経済と、その代償
組織や仕組みを大きくすると、一つひとつの活動あたりの費用が下がり、より多くの人に、より安定して価値を届けられるようになります。院主の大きな器は、まさにこの効果で、実際に多くの人を救いました。しかし、規模が大きくなるほど、それを維持するための管理費用——名簿、記録、許認可——も膨らんでいきます。
● 管理費用は、あとから効いてくる
この回で並んだ仕組みは、どれも一つずつは正しい理由から生まれています。公平にするための名簿。重複を避けるための記録。事故を減らすための許可制。問題は、これらが積み上がったあとで、全体を止められなくなることです。個別に見れば全部正しいのに、合計すると重すぎる——組織でも、運用の仕組みでも、よく起こります。
● インセンティブの歪み=手段が目的化する
最初は救うために名簿を作ったはずが、いつしか名簿に載せるための救済へと、目的と手段が入れ替わってしまうことがあります。測定や管理の仕組みそのものが、本来の目的を追い越してしまうという罠は、投資の世界でも、企業経営の世界でも、繰り返し議論されてきました。
● 入れ替わりには、日付がない
目的と手段が入れ替わる瞬間を、当事者が自覚することは、ほとんどありません。毎日の判断は、どれも前日の延長にすぎないからです。だからこそ、ときどき、なぜこれを始めたのかを外から確かめる手続きが要ります。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の団体・制度を批判する意図はありません。




