第67話 大きな器を作ればいい
聖導院の奥、院主の私室。
白い帳面。古い地図。ダンジョンの断面図。水路の図。配給量の記録。
そして、色褪せた事故報告書の束。
束は年ごとに分けられ、古いものほど下に沈んでいる。いちばん下の紙は、もう字が薄い。
彼は、それを一枚も捨てたことがない。捨てないのが供養だと思っているわけでもなかった。ただ、数を忘れないためだった。
院主は、机に向かい、若い職員の言葉を、何度も、思い返していた。
——救済の失敗ではなく、成功ではないのでしょうか。
その言葉が、静かに、引っかかっている。
怒っているわけでは、ない。あの職員は、真面目な男だ。数字をごまかしたことも、面倒を避けたこともない。
ただ、不快感が、消えない。
正しい問いほど、あとに残る。間違った問いなら、その場で終わるのに。
救済から離れることを、成功と呼ぶ。
それは——聖導院が、不要になるということではないのか。
*
院主は、窓辺に立ち、街を見た。
井戸があり、畑があり、配給所があり、人が暮らしている。
けれど、その外側には荒野が広がっている。
マナの流れから外れた土地は、草も育たない。かつて小さな集落が丸ごと干上がった記録も、彼の頭にはまだ残っている。
あの時、報せが届いたのは、三日後だった。三日あれば、水は運べた。運べなかったのは、届いていなかったからだ。
届かない、という一語の中に、何人がいたか。彼は、その数を覚えている。
この街の水でさえ、ダンジョンから立ち上るマナに支えられている。魔物を浄化して得たマナがなければ、粥ひとつ、配れない。
人は、そのことを、ふだん考えない。考えなくて済むようにするのが、彼の仕事だった。
考えなくて済んでいるのは、誰かが代わりに考えているからだ。そのことに、街の誰も感謝しない。感謝されないことを、彼は不満に思ったことがない。
ただ——不要だと言われるのは、話が違った。
……善意だけでは、水は湧かない。
祈りだけでは、畑は実らない。
誰かが、流れを測り、集め、配らなければならない。
*
院主の記憶が、遠い日へ、遡っていく。
まだ聖導院の人間ではなかった、若い日々。
彼はこの街で名の知れた凄腕の冒険者だった。名声のためじゃない。マナを集めるために潜っていた。
ダンジョンで魔物を倒す。魔物を浄化し、マナ結晶を得る。それが、井戸や畑や、配給の糧になる。
だから彼は、誰より効率よくマナを得る方法を、求め続けた。
効率、という言葉を、彼はためらいなく使った。そこに冷たさがあるとは思わなかった。倒す数が増えれば、水が増える。それだけの、簡単な話だったからだ。
一体でも多く倒せば、一人分の粥が増える。
一層でも深く潜れば、一日分の水が増える。
——ならば、潜るしかない。
当時の彼は、そう信じて疑わなかった。
*
その頃、若き院主は、聖導院の活動もよく知っていた。
ロウエンたちは、小さな桶を丁寧に回していた。必要な者へ、少しずつ。
それは温かく、正しい。
彼は、それを一度も馬鹿にしなかった。桶を回す手つきは、彼が魔物を斬る手つきよりも、ずっと丁寧だった。
だが、若き院主が見た現実は、もっと過酷だった。
事故で一度に多くの冒険者が倒れる。荒野に近い集落が干上がる。魔物の発生が偏れば、配給が足りなくなる。
小さな桶では——届く前に尽きる。
その場にいる者だけは救える。けれど、遠くの者は救えない。
若き院主は、ロウエンのやり方を否定しきれなかった。
ただ——足りないと思った。
あの人たちは、目の前の一人を救える。だが、百人が同時に干上がった時、桶は足りない。
足りない、というのは、頑張りの問題ではない。
どれだけ心を込めても、桶の数以上には配れない。
それを、彼は現場で何度も見た。見るたびに、桶の温かさを認めながら、桶の数を数えた。
*
ある日、彼は、水路を直すロウエンに声をかけたことがある。
「流れは、小さく見ねばならん」
ロウエンは言った。
「水は、低いところから干上がる」
「ならば」
若き院主は、答えた。
「すべての低い場所へ届くほど、大きな器を作ればいい」
*
「器が大きくなれば重くなる」
ロウエンは、静かに続けた。
「重くなれば——運ぶ者が要る」
「それでも」
若き院主は、目を逸らさなかった。
「運ばなければ、死ぬ者がいる」
ロウエンは、それに答えなかった。
答えなかったのは、否定できなかったからだ。若き院主も、それはわかっていた。
わかっていて、勝ったとは思わなかった。
この老人が黙るときは、たいてい、こちらの言い分の中に、まだ見えていない穴があるときだった。
その穴が何なのかを、彼は、聞かなかった。聞けば、足が止まると思ったからだ。
*
この時、まだ二人は対立していなかった。
ロウエンは流れの細部を見ていた。院主は全体の不足を見ていた。
ただ、それだけの違いだった。
どちらも、干上がる者を減らしたいと思っていた。手の届く範囲の見積もりが、違っていただけだ。
見積もりの違いは、その日のうちには決着しない。決着しないまま、それぞれが自分の見積もりで動きはじめる。
その違いが、何十年かけて、どこまで開くのか——その日の二人には、まだ、わからなかった。
(第68話へ続く)
【用語辞書】第67話に出てきた「投資」の話
この回のテーマは、届く範囲をどう広げるか、という問いです。
● 小さな桶と、大きな器
目の前の一人を確実に助ける方法と、遠くの百人へ届く仕組みを作る方法は、どちらも正しく、どちらだけでは足りません。前者は速くて確実ですが、範囲が狭い。後者は範囲が広いかわりに、届くまでに時間と手間がかかります。片方を選ぶ問題ではなく、両方をどう持つかという問題です。
● 規模を大きくすると、運ぶ者が要る
「器が大きくなれば重くなる。重くなれば、運ぶ者が要る」——これは、規模を拡大するときに必ず起きることの、いちばん短い言い方です。大きくすること自体に費用がかかり、その費用は、大きくしてからでないと見えません。投資でも、事業でも、規模の利点だけを見積もって、規模の重さを見積もらないと、あとで足を取られます。
● 正しさが二つあるとき
この回の二人は、どちらも間違っていません。見ている範囲が違うだけです。対立は、片方が悪いから起きるのではなく、正しさの土台が違うところから、静かに始まります。判断がぶつかったときは、結論を比べる前に、それぞれが何を見ているのかを確かめると、話が早くなります。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の団体・制度を批判する意図はありません。




