第66話 源を、整えねばなりません
水路のそばで、ロウエンが、少し息をついていた。
「じいさん、疲れてるんすか」
トトが気づく。
「年寄りが、息をつくたびに騒ぐでない」
こつん。杖が飛ぶ。
いつもの調子だった。
けれど、俺は気づいていた。
シズクの雫が、この頃、いつもより細い。
俺は、そっと、ロウエンに鑑定を向けてみた。
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▼ 状態変化
名称:ロウエン / 古い水路の守り手
─── 銘柄カルテ ───
体力 ……… 低下
継続力 …… 高
還元 ……… 過多 ⚠
気になる兆し … 深部耐性・低下 ⚠
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見立て:流れを絶やさぬ者ほど、
自分の器を、静かに削る。
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……状態変化。
この見出しは、前に一度だけ見た。あの支洞で、戦いの収支を見た時だ。
継続流出、小。継続回復、小。差し引き、わずかに改善。
あれは、場の話だった。誰かが得をして、誰かが損をする、その差し引きの話。
今度は、人だ。
同じ見出しで、一人の中身が出てきている。
*
名称の下に、いつもの銘柄カルテが並んでいた。
この爺さんの窓を見るのは、二度目だ。
一度目は、集落を去っていく背中に向けて、勝手に開いた。あの時は、名前も知らなかった。
欄が、いくつか、入れ替わっている。
あの時にあった、割安・割高も、伸びしろも、今日は無い。
……そうか。
鑑定は、いま見るべきものだけを出してくるらしい。この人がいくらで、どこまで伸びるかは、もう、どうでもいい話になっている。
*
還元、過多。
初めて会った時、この欄は、極めて手厚い、だった。
同じ欄が、いま、過多になっている。
……手厚い、と、過多。
言葉としては、隣同士だ。配る量は、たぶん、あの時から変わっていない。変わったのは、配る側の器のほうだ。
同じだけ出し続けているのに、残りが減っていけば、それは、いつか過多に変わる。
体力、低下。継続力、高。
続ける力は、まだ高い。だから、たちが悪い。
続けられるうちは、続けてしまう。
*
いちばん下。
深部耐性、低下。
……深部。
この爺さんが、これから深いところへ行くような話は、まだ一度も出ていない。
なのに、窓は、そこの耐性が落ちていると書いている。
俺は、その一行を、しばらく見ていた。
まだ起きていないことに、備えの数字だけが先に出るのは、いい兆しじゃない。
……流れを絶やさぬ者ほど、自分の器を、静かに削る。
俺の胸に、その言葉が、静かに沈んだ。
……止めればいい、と、簡単には言えなかった。
配るのをやめろ、というのは、この人に、この人であることをやめろと言うのに近い。
それに——止めたら、止めた分だけ、誰かの明日が細る。それを、この人がいちばんよく知っている。
だから、削れているのだ。
*
トトが、ロウエンを支えようとして、シズクの雫に触れた。
雫が、一瞬だけ、トトの指先に留まった。
「うわ、なんか、じいさんの雫、俺の手に……」
トトが驚いた声を出す。
「ほう」
ロウエンが、目を細める。
「何すか。怖いんすけど」
「若いの。お前、雑ではあるが」
ロウエンは、笑った。
「情はある」
「褒めてます?」
「半分じゃ」
……俺は、それを、黙って見ていた。
雫は、すぐにロウエンの杖先へ戻っていった。ほんの一瞬の話だ。
それでも、他人の手に留まるところを、俺は初めて見た。
あの雫は、この爺さんの、内側から出ているものだ。
それが、別の手のひらの上で、一瞬だけ、形を保った。
……使い手が減るかわりに、渡せる先が一つ増えた、ということなのか。
窓には、そんな欄はない。
あるのは、体力、低下、という一行だけだ。
*
その夜、聖導院では、アルベスが院主に、追加の報告を上げていた。
「嗅ぎ分けの民だけではありません。記録板の使い方を、他の小さな種族も見に来ています」
院主は、しばらく黙っていた。
「……小さな者たちが、互いを見つけはじめた」
その声には、これまでにない、重さがあった。
彼が恐れているのは、数名が配給列から外れることだけではない。聖導院を介さず、人々が横に繋がることだ。
「院主。管理区画の件は……」
アルベスが切り出す。
「まだ、触れる時ではありません」
院主は、遮った。
「最深部の流れは——私が見ます」
私が、と言った。
アルベスは、そこを聞き逃さなかった。聞き逃さなかったが、問い返しもしなかった。
*
院主は、窓の外、地下へ続く古い扉のほうへ、目をやった。
「私は、かつて、あの底で見ました」
独り言のように、呟いた。
「この街が、何に支えられているのかを」
それ以上は、語らなかった。
アルベスも、それ以上は問わなかった。
問えば、答えは返ってきただろう。返ってきたら、自分も、それを知っている者になる。
知らないでいるほうが、まだ、帳面を書ける。
*
若い職員の言葉が、院主の中で、まだ反響していた。
——救済から離れることは、成功ではないか。
「救済から離れることを成功と呼ぶなら」
院主は、静かに否定した。
「聖導院は——不要になる」
「聖導院が不要になれば、人はまたそれぞれの判断で、マナを求める」
灯りの下で、影が、わずかに動く。
「……やがて、誰かが無理をし、誰かが道を誤り、また何かが、静かに歪んでいく」
*
白い帳面の奥、さらに下。
聖導院の床下には、古い階段がある。
かつて、冒険者だった頃、彼が仲間とともに降りた、最深部へ続く道。
そこで、彼は、何かを見た。
言葉にできない、何か大きなものを。
それが、この街の全てを支えている——そう、彼は確信していた。
*
「流れが乱れるなら」
院主は、呟いた。
「源を、整えねばなりません」
白い帳面の上で、灯りの影が、深く揺れていた。
(第67話へ続く)
【用語辞書】第66話に出てきた「投資」の話
この回のテーマは、配る側が枯れる、という話です。
● 還元の過多=出し続ける側にも、限りがある
誰かに手厚く配ることは、それ自体は良いことです。ですが、配る量が同じでも、配る側の体力が落ちていけば、同じ行為が、いつか過多に変わります。手厚いと過多の境目は、配る量ではなく、残っている器のほうで決まります。企業の配当でも、同じことが起こります。利益が細っているのに配当を据え置けば、外から見た手厚さは変わらないまま、内側だけが痩せていきます。
● 続けられるうちは、続けてしまう
この回でいちばん危ないのは、継続力が高いことです。まだできてしまうから、やめる理由が見つからない。止まるのは、たいてい、続けられなくなってからです。だからこそ、余力ではなく、あらかじめ決めた線で止める、という設計が要ります。
● まだ起きていないことに、備えの数字が先に動く
深部耐性の低下は、深いところへ行く予定がなくても、先に出ます。守りの数値は、実際の危機より早く動くことがあります。何も起きていないのに備えが薄くなっている——そのずれに気づけるかどうかが、後で効いてきます。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の団体・制度を批判する意図はありません。




