第56話 トウシ
白い封書の翌朝、それはまだ宿の机に置かれたままだった。
「助けたら注意されるって、やっぱ納得いかないっす」
トトが、朝から不満げに言う。
「でも、聖導院がなきゃ、今日食べるものに困る人もいる。そこは本当だ」
「じゃあ、どうするんすか」
「並ぶしかない状態を、少しずつ減らす」
「それって、どうやってやるんっすか」
……そこで、俺は言葉に詰まった。
投資、と言っても通じない。この世界には、そんな言葉自体がないのだ。
……いや。
言葉が無い、というのは、思っていたより、重い話かもしれない。
名前のついていないものは、話し合えない。比べられないし、教えられない。誰かがうまくやっていても、何がうまかったのかを、次の誰かに渡せない。
この町の人たちが、稼いだそばから使い切ってしまうのは、意志が弱いからじゃないのかもしれない。
——そういう扱い方があることを、誰も、言葉にしてこなかっただけだ。
*
俺は食卓にあった豆を、いくつか手に取った。
「たとえば、ここに豆が十粒あるとする」
「食えますね」
「……たべる」シルクが、こくり、と頷く。
「焼いたら、うまそうだな!」ホムラが、便乗する。
「食うな。話が終わる」
軽い笑いが起きて、俺は続けた。
「十粒ぜんぶ食べたら、今日の腹は満ちる。でも、明日は何も残らない。……一粒だけ残して、畑にまいて、水をやって、守って育てる。うまく育てば、あとで十粒より多く戻ってくるかもしれない」
「つまり……食わずに我慢した豆が、あとで増えて返ってくる、ってことっすか」
「そういう考え方だ」
「(ガク様。それは、この世界には無い概念です。ですが——あなた様の造語として置くなら、この地に、言葉を残せます)」
オルカが静かに告げた。
……造語か。まあ、それでいい。
言葉を残せます、という言い方が、少し引っかかった。
あの爺さんが、似たようなことを言っていた。配った粥のことなど、誰も覚えておらんでよい。だが、教えた水路の直し方を、誰かがまた別の誰かに教えているなら、わしの施しは、まだ流れておる、と。
……なるほど。
言葉は、粥より、遠くまで流れるわけだ。
「よし。この考え方は……"トウシ"、と呼ぶことにする」
「トウシ?」トトが、首を傾げる。
「……なんか、かっこいいっすね」
……名前を贈るのは、二度目だ。
一度目は、泉の水面に。あの時は、目の前に、待ってくれている相手がいた。
今度は、相手がいない。考え方に名前をつけるというのは、こんなに手ごたえの無いものなのか。
……ただ。
前世で使っていたほうの言葉には、もう、たっぷり手垢がついていた。
口にした途端に、誰かが眉をひそめる。儲け話。詐欺。ギャンブル。——中身を聞く前に、そういう顔をされる言葉だった。
この"トウシ"は、まだ、まっさらだ。
この先、この言葉がどういう顔をされるようになるかは、俺の使い方しだいということになる。
……それは、それで、重い。
「トウシ、トウシ……よし、覚えた。今日から言いふらすっす!」
「やめろ」
こいつは、放っておくと、酒場で三日以内に広める。しかも、たぶん、半分くらい間違えて広める。
「……いや。待て」
「え?」
「間違えないように広めるなら、いい。……そのために、まず、お前が正しく覚えろ」
トトが、めずらしく、真面目な顔で頷いた。
*
「じゃあ、すぐまきましょう! ぜんぶ!」トトが、目を輝かせる。
「それをやると、また同じ失敗になる」
「え、なんでっすか。まけば増えるんでしょ」
「畑が荒れていたら? 水がなかったら? 明日、腹が減って動けなくなったら? まいた種を守る人間が、倒れたら?」
トトは口をつぐんだ。
……この間、教えたばかりだ。全部をひとつに賭けるな、と。
こいつは、覚えていないんじゃない。覚えていても、目の前に新しい話が来ると、そっちに全部を積んでしまう。
……人のことは言えない。前世の俺が、それだった。
「だから、最初にやるのは、種をまくことじゃない。種を、食べる分と、残す分に分けることだ」
(第57話へ続く)
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【用語辞書】第56話に出てきた「投資」の話
● 名前がつくと、扱えるようになる
言葉のないものは、話し合うことも、比べることも、教えることもできません。「これは何という行為なのか」がはっきりして初めて、うまくいった理由を次の人に渡せます。難しそうな用語を覚えるのが目的ではなく、扱いたいものに名前を与えることが、最初の一歩になります。
● 元手を残す、という考え方
十粒すべて食べれば今日は満ちますが、明日には何も残りません。一粒だけ残して育てれば、いつか十粒より多く戻るかもしれない。増やす行為の前に、まず「使わずに残す」という選択があります。ここを飛ばすと、そもそも投じるものがありません。
● 全部を一度に投じない
うまくいく話を聞くと、手持ちを全部そこへ入れたくなります。ですが、育てている間に自分の生活が倒れれば、その芽も守れません。投じられるのは、生活が続くと分かっている分だけです。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の商品・制度の利用を勧めるものではありません。




