第55話 小さな余白
「聖導院が必要なのはわかります」俺は静かに言った。
「今日、倒れている人に粥を渡す場所は要る。怪我人を保護する場所も要る。——そこは否定しません」
アルベスが少し意外そうな顔をした。
……たぶん、この人は、俺が全部を否定しにくると思っていたんだろう。
「でも、守られるだけじゃ、いつまでも自分の財布は持てない。少しでも手元に残せるようになれば——その人は、次の一手を自分で選べる。俺は、その小さな余白を作る手伝いがしたいだけです」
「……理想としては理解できます」アルベスは丁寧に返した。
「ですが、困窮者に選択を委ねることは——時に残酷です。誤った選択で再び困窮すれば。結局、救済の負担は増します」
……これも正しい。俺は答えに詰まった。
自分で選ぶってことは失敗する、ってことでもある。
俺はそれで一度、全部失った。だからその怖さは痛いほどわかる。
あの日、俺に「やめておけ」と言ってくれる誰かがいたら。何度も、そう思った。
……でも。だからといって選ぶ力そのものを奪っていいわけじゃない。
選ばせてもらえなかった人間は、失敗もしない代わりに、うまくいった理由も、一生わからないままだ。
*
その夜。俺は、シルクの一族と、トトを、集めて、言った。
「まずは大きなことはしない。一発で増やす話もしない。……最初にやるのは財布を分けることだ」
「財布を分ける?」トトが首を傾げる。
「今日食べる分。壊れた時に直す分。次の仕事に使う分。あと——絶対に手をつけない、小さな分。それを見えるようにする」
四つ。
……あの札の窓を、俺は、まだ覚えている。
表面利回り、高い。安心感、極めて高い。流動性、低下。依存度、上昇。返礼義務、不明。
あれと、ちょうど、逆をやろうとしている。
増える話は、しない。安心は、渡すんじゃなく、自分で作ってもらう。いつでも動かせるように、手元に置く。誰かに返す義務は、つけない。
派手な話が、ひとつも無い。
……たぶん、この四つの財布は、あの列に並ぶより、ずっと退屈だ。
それでも、その口を握っているのが自分だ、というだけで、違う。
……あの爺さんに、言われたことがある。
施しには形がある。十日後、百日後、その者が自分の足で立っておるか。それを見れば、形はわかる、と。
あの時、俺は、見分ける方法しか教わらなかった。
どうすればそちらの形にできるのか、までは、聞いていない。
——たぶん、これが、その答えだ。
十日後に、財布がひとつでも残っていれば。百日後に、その中身が、少しでも重くなっていれば。
それは、俺が渡したものじゃない。その人が、自分で残したものだ。
*
その頃アルベスは、聖導院の奥、院主の私室で報告していた。
院主は机に向かい、山と積まれた名簿を、静かにめくっていた。
年老いてはいるが、背筋の伸びた穏やかな顔立ちの男だ。その物腰には悪意など欠片も見当たらない。
「ガクという召喚士は、聖導院を敵視しているわけではありません」アルベスは淡々と告げた。
「ですが——困窮者に、"自分で選べる"という考えを、広めようとしています」
院主は、しばらく、名簿から顔を上げなかった。
やがて静かにめくる手を止める。
「……それは、もっと、危うい」
*
白い封書は、まだ宿の机の上に置かれていた。
丁寧な言葉で、包まれた、白い線。その線の向こうで、聖導院は、人を守っている。
その線のこちらで、俺たちは人が立つための小さな余白を作ろうとしている。
……俺の窓も、人を測る。
あの管理官と、そこは変わらない。信用がどうだ、体力がどうだと、勝手に読み取って、勝手に並べる。
違うところが、ひとつだけある。
俺は、読んだ結果を、誰かの帳面には書き写していない。
俺の窓は、俺の中で消える。
……そこだけは、譲らないでおこう、と思った。
どちらが正しいのか。まだ俺には言い切れない。
けれど——ひとつだけわかることがあった。
財布を持たない人間は、いつか必ず、誰かの帳面の中で生きることになる。
(第56話へ続く)
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【用語辞書】第55話に出てきた「投資」の話
● 生活防衛資金=自分の財布を持つということ
どんなに立派な支援の仕組みがあっても、手元に、いくらかでも自分で管理できるお金がなければ、人はいつまでも、誰かの決めた条件の中でしか動けません。わずかでも自分の財布を持つことが、選択肢と自由を取り戻す最初の一歩になります。
● 目的別に、財布を分ける
全部を一つの財布に入れておくと、何にいくら使えるのかが分からなくなります。今日の生活費、急な出費に備える分、次の挑戦に使う分、絶対に手をつけない分。用途ごとに分けて、見えるようにしておく。これだけで、判断の迷いが減り、うっかり使い込むことも減ります。
● 選ばせないやさしさの危うさ
「誤った選択をすると、かえって困る」というのは事実です。ですが、失敗を恐れて選択そのものを取り上げてしまえば、人は自分で決める力を育てられません。大切なのは選ばせないことではなく、小さく試し、小さく失敗できる余地を、あらかじめ用意しておくことです。
● 失敗しないことと、理由がわかることは別
誰かに決めてもらえば、失敗は減ります。そのかわり、うまくいったときも、なぜうまくいったのかが分かりません。自分で決めた経験だけが、次の判断の材料になります。だからこそ、最初は失っても困らない額から始めるのが理にかなっています。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の団体・制度を批判する意図はありません。




