第41話 底で、動く
ナギは、何もしなかった。
ただ、俺のかたわらで、静かに、力を溜めていく。
攻める構えも、守る構えも、取らない。ダイチのように立ちはだかりもせず、ホムラのように牙を剥きもしない。
ほんとうに、ただ、そこにいるだけだ。
俺たちは、守りのダイチとコガネの陰で、黒い淵が暴れ、荒れ狂い、そして——やがて、暴れ疲れて、勢いを失っていくのを、じっと、待った。
恐怖の連鎖は、永遠には続かない。
吐き出す闇が、細り、粘つきが、緩み、黒い水面が、いちばん低く、いちばん静かに、凪いだ、その瞬間。
窓の表示が、するりと、下の段へ落ちた。
【総悲観】が退き、【底】が、前に出る。
赤が、一本残らず、消えていく。
そして、噛み合わせの印が、書き換わった。
▼ 噛み合わせ 【底】
ナギ …………… ◎◎
ダイチ ………… ○
コガネ ………… ○
オルカ ………… △
ホムラ ………… △
……◎が、二つ。
効く、でもない。よく効く、でもない。
——この局面のために、この札は在る。
窓が、そう言い切っている。俺の手駒で、こんな印が灯ったのは、初めてだった。
——底だ。
「——今だ、ナギ!」
*
溜めに溜めたナギの力が、一気に、解き放たれた。
手のひらの雫が、膨れ上がる。だが、獣にも、人にも、ならなかった。
拳を握らず、牙も立てず、構えすら取らない。
ただ——水が、水のまま、天井を擦るほどの、巨大な津波になった。
凪いだ水が、勢いの尽きた黒い淵を、まるごと、呑み込み返す。
もがいていた時には、あれほど手強かった闇が、底で、静かになったその一瞬には、驚くほど、あっけなく、砕けて消えた。
しんと静まった坑道に、澄んだマナが、ひときわ大きな結晶となって、ごとりと落ちた。
*
「……勝った、んすか? なんも、してないのに」
トトが、ぽかんとしている。
「いや。——いちばん難しいことを、してたんだ」
俺は、汗を拭いながら、答えた。
「暴れたい時に、暴れない。手を出したい時に、じっと待つ。そして、みんなが疲れ果てて、底をついた、その一瞬にだけ、動く。——それが、いちばん、難しい」
「(……お見事です、ガク様)」
オルカの思念が、静かに続いた。
「(今の淵は、恐怖そのもの。皆が我先にと投げ売り、逃げ惑う、総悲観の底でした。あそこで、慌てて手を出した者から、順に、飲まれていく)」
「(——けれど、じっと弾を温存し、皆が投げ尽くした底で、たった一人、静かに買い向かえる者。それが、ナギの力です)」
「……なあ、オルカ」
俺は、まだ波打っている水面を見ながら、聞いた。
「泉で待ってた時、お前、ひとことも言わなかったよな。非効率だ、とか、言いそうなもんなのに」
わずかな間があって、思念が返ってきた。
「(……申し上げたら、ガク様は、待てなくなっていたでしょう)」
……こいつは、ときどき、俺より、うまく待つ。
*
皆が恐怖で投げ売る底でこそ、待っていた者が、いちばん安く、いちばん大きく、拾える。
——"何もしない"ことが、最強の一手になる時が、ある。
……ああ。それは、前世の俺が、いちばん持っていなかった力だ。
焦らず、待つ。全部を張らず、手元に弾を残す。そうして、いざという底で、動く。
あの頃の俺に、こいつがいてくれたら。……いや。今、いてくれる。それで、いい。
「よろしくな、ナギ。——地味で、退屈で、みんなに"遊んでる"って笑われる、お前のことを。俺は、ちゃんと、頼りにしてる」
水面が、ふるりと、嬉しそうに、揺れた気がした。
*
帰り道。俺の手駒は、また一枚、増えていた。
攻めのホムラ。守りのダイチ。全部が崩れる時の砦、コガネ。
そして今日、皆が投げ売る底で、たった一人、買い向かえる、待機のナギ。
あの夜、オルカが数え上げた、名前のない一枠。
——あれに、ようやく、名前がついた。
……ずいぶん、賑やかな、ばらばらの手駒が、揃ったもんだ。
どれも、世間には見向きされなかった、地味なやつらばかり。
ふと、あの白い伽藍のことが、頭をよぎった。
もし、聖導院が、あの黒い淵みたいな"総崩れ"を、もっと大きく、町ごと、仕組んだとしたら。
——耐えるコガネと、底で動くナギが、揃った今なら。その時こそ、俺たちの出番なんじゃないか。
……もっとも、あの白い建物が、そんなことを企んでいるという証拠は、何ひとつ無い。
ただ、あの塗り固められた笑顔が、どうにも、目に焼き付いて離れないだけだ。
そんな予感を、静かに胸にしまって、俺は、賑やかな相棒たちと、宿への道を歩いた。
(第42話へ続く)
====================
【用語辞書】第41話に出てきた「投資」の話
● 恐怖と貪欲は、逆に=逆張りの考え方
「他人が貪欲なときに恐れ、他人が恐れるときに貪欲になれ」——伝説的な投資家たちが繰り返してきた、逆張りの金言です。皆が浮かれて買う天井では慎重に、皆が絶望して投げ売る底では大胆に。ナギが、淵が暴れているうちは動かず、皆が疲れ果てて底で凪いだ一瞬にだけ動いたのが、まさにこれです。
● 弾を残す=暴落を待つための現金
底で買い向かえるのは、その時点で使える現金を持っている人だけです。全額を投じきっていると、いちばん安い場面で、何も買えません。この「取っておいた現金」は、投資の世界では乾いた火薬にたとえられます。濡れていない火薬だけが、いざという時に火を噴きます。
● 待つことは、放置とは違う
この回の主人公は、何もしなかったのではなく、条件が整うまで動かないと決めて、整った瞬間に動きました。ただ忘れて放っておくのとは、まったく別の行為です。あらかじめ「こうなったら動く」という線を決めておくことが、感情に負けないための、いちばん現実的な備えになります。
● 危機は、必ず終わるとは限らない
この回の相手は、放っておけば必ず勢いを失う性質でした。ですが現実には、待っているだけでは終わらない下げもあります。「待てば戻る」を万能の教えとして覚えてしまうと、次の場面で足をすくわれます。待つことは技術であって、教義ではありません。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の銘柄・商品の売買を勧めるものではありません。




