第40話 もがくほど、沈む
その静けさに、ひたっていた時だった。
ずずん、と、坑道の奥が、鳴った。
泉の奥の暗がりから、黒い水が、どぷり、どぷりと、湧き出してくる。
ただの水じゃない。触れたものを引きずり込む、粘つく闇。
鑑定の窓が、警告を灯した。
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▼ 鑑定 底知れぬ淵
/戦域の主 複雑度 ★★★☆☆
【総悲観】[危機・投げ売り]⚠⚠
荒れ(VIX 52.0) ●赤 ⚠⚠
商い(出来高 6.5倍・投げ売り一色)●赤
底の深さ(−58%/進行中) ●赤
凶兆(極大・相関 0.96) ●赤
掘り出し(CAPE 11)●緑 ← 赤の中に、
一つだけ緑
【底】[凪・底]← 赤が一つ残らず消える
荒れ(VIX 18.0) ●緑
商い(0.9倍) ●青
底の深さ(−58%/進行停止)●青
凶兆(緩む・相関 0.70) ●青
掘り出し(CAPE 11) ●緑
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見立て:もがくほど、深く沈む。
動くな。底を、待て。
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……二段。
窓が、二つの顔を並べている。
この形は、つい先日、見たばかりだった。あの甲殻の獣。攻勢と守勢と、その狭間の一瞬。三つの顔が、代わる代わる入れ替わる、あの厄介な相手。
だが、決定的に、違う。
あいつの窓には、安全な顔が、どこにも無かった。攻めても弾かれ、待っても手詰まり。逃げ場のない三択を、延々と持ち替えるしかなかった。
こいつは、逆だ。
二つ目の顔——【底】には、赤が、ひとつも無い。
安全な局面が、ちゃんと、存在している。
しかも、その顔は、放っておけば、勝手に来る。
同じ「待つ」という言葉が、二日と経たずに、真裏にひっくり返った。あっちは待てば詰み。こっちは、待たなければ詰み。
そして、もうひとつ。
赤が四本並んだ真ん中に、緑が、一本だけ、混じっている。
掘り出し。CAPE 11倍。
……あの数字だ。
あの、白い衣の底で見た、届かなかった緑。あの時、俺は指をくわえて見ているしかなかった。掴む手を持っていなかったから。
いつか、あれを掴める手を、持ちたい——そう思った。
目の前の数字は、あの時より、さらに一段、安い。
いちばん恐ろしい窓に、いちばん美味い数字が並んでいる。
この世界の、いちばん性根の悪いところだ、と思った。
「うわ、な、なんすかこれ!」
トトが、腰の剣を抜く。
「師匠、暴れて、追い払いましょう!」
「——待て、トト! 動くな!」
俺は、とっさに、弟子を制した。
見立てが、告げている。もがくほど、深く沈む、と。
この黒い淵は、こちらが暴れれば暴れるほど、その恐怖を糧に、勢いを増す。攻めれば、飲まれる。焦って手を出せば、深みへ引きずり込まれる。
*
じっさい、血の気の多いホムラが、たまらず飛び出して炎を叩き込むと、
黒い水は、その一撃を、ぐぶりと飲み込み、ひと回り、大きく膨れ上がった。
同時に、窓の隅の印が、書き換わる。
▼ 噛み合わせ 【総悲観】
ダイチ ………… ◎
コガネ ………… ◎
オルカ ………… ○
(縁なき水面)… ○ ※温存
ホムラ ………… ✕✕
……✕が、二つ。
初めて見る印だった。
効かない、じゃない。無駄になる、でもない。
——出すこと自体が、敵を強くする。
窓は、そう言っている。
これまで、俺は「◎の札を選ぶ」ことばかり考えてきた。噛み合う一枚を探して、切る。それが鑑定の使い方だと思っていた。
違う。
この盤面で勝敗を決めるのは、◎を出すことじゃない。✕✕を、出さないことだ。
「ホムラ、下がれ! ——ダイチ、コガネ、耐えるだけでいい! 決して、攻めるな!」
ダイチが盾になり、コガネが揺るがぬ錨を下ろす。
守りに徹し、ただ、耐える。攻めの手を、封じたまま。
黒い淵は、獲物が暴れないと知ると、いらだつように、さらに粘つく闇を吐き、周囲を、絶望的な光景に沈めていった。
*
……これは、堪える。
攻めたくて、うずうずする。何か手を打たなきゃ、と、体が叫ぶ。
前世の俺の、あの焦りが、ぶり返してくる。
じっとしているのは、暴れるより、ずっと、こわい。
何もせずにいると、まるで、自分だけが取り残されて、じわじわ沈んでいくような気がする。
「今、動かなければ手遅れになる」——そう囁く声が、頭の奥で、鳴りやまない。
あの日、あの銘柄に、なけなしを突っ込んだ時も、きっと、この声に、負けたのだ。
窓の【底】の欄は、さっきから、ずっとそこにある。
答えは、最初から、書いてあった。
書いてあるのに、体が言うことを聞かない。
……読めることと、できることは、別なんだな。
——けど。
俺は、ゆっくりと、息を吐いた。
今日の俺には、隣で凪いでいる、静かな水がある。
「……ナギ」
俺は、静かに、泉の水面に呼びかけた。凪いだ、この水に。
「お前の出番だ。——俺は、待てる。お前と、一緒になら」
水面が、応えるように、俺の足元へ、つう、と流れ寄ってきた。
手のひらに乗るほどの、小さな、透きとおった雫になって。
ナギ。凪の、ナギ。
焦らず、動かず、ただ待つ、この静かな相棒に、俺は、その名を贈った。
窓の隅で、(縁なき水面)と書かれていた欄が、静かに、ナギ、と書き換わった。
(第41話へ続く)
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【用語辞書】第40話に出てきた「投資」の話
● 総悲観・投げ売り=狼狽売り
暴落のさなかに、恐怖に駆られて慌てて売ることを狼狽売りといいます。皆が我先にと投げ売ると価格はさらに崩れ、その下げがまた次の売りを呼ぶ。これが作中でいう「恐怖の連鎖」であり、こちらが動くほど相手が強くなる正体です。
● 出来高が跳ね上がる=売買が殺到している
商いの欄は、どれだけ売り買いが行われているかを表します。ふだんの六倍以上という数字は、活況ではなく、全員が一斉に出口へ殺到している状態です。同じ「多い」でも、上げの局面と下げの局面で意味が正反対になります。
● 恐ろしい窓に、いちばん安い数字が並ぶ
割安かどうかの目安(作中の「掘り出し」)は、暴落の底でいちばん良い数字になります。ですが、その数字が出ている時は、たいてい誰も買える気分ではありません。「安い時ほど買えない」というのが、投資でいちばん有名な難所です。
● 出すこと自体が、損になる札がある
攻めの手が、効かないどころか、状況を悪化させることがあります。損を取り返そうと下げ相場で買い増しを重ねる、値動きに合わせて売買を繰り返す——どれも、動いた分だけ傷が深くなる典型です。効く手を選ぶ以上に、打ってはいけない手を打たないことが効く場面があります。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の銘柄・商品の売買を勧めるものではありません。




