第39話 何も起きない場所
あの日、休んで力を溜めた夜から、俺の中には、ずっと小さな気配が居座っていた。
派手でも熱くもない。ただ静かに満ちて、じっと待っているような、凪いだ何か。
あの夜、オルカは俺の手駒を数え上げた。攻めのホムラ、守りのダイチ、待機の余力、コアの私。そして——最後の砦、コガネ、と。
あの時は、聞き流していた。
攻め、守り、砦。それは分かる。だが「待機の余力」だけが、他と違っていた。あれは札の名前じゃない。名前のない、空いた一枠だ。
なのにオルカは、それを、ちゃんと数に入れた。
……あの一枠が、何なのか。そろそろ、確かめたかった。
「シルク。どこか、この町の近くで、"何も起きない場所"に、心当たりはないか」
妙な頼み方だったが、シルクは、こくりと頷いて、鼻をひくつかせた。
「……ある。……だれも、いかない、とこ。……なんにも、いない。……つまらない、って、みんな、いってた」
つまらない、と、みんなが言った場所。
——それは、だいたい、いつも、当たりだ。
*
シルクが導いたのは、古い坑道の脇道の、そのまた奥だった。
行き止まりに、ぽつんと、澄んだ泉が湧いている。
魔物もいなければ、結晶も落ちていない。マナの気配も薄く、ただ、水面が、鏡みたいに、静まり返っているだけ。
ハンターが「無駄足だ」と見向きもしないのも、無理はなかった。
その、動かない水面の真ん中に、それは、いた。
透きとおった、水そのもののような姿。
人の形にも見えるし、ただの水たまりにも見える。身じろぎひとつせず、波紋ひとつ立てず、ただ、そこに在る。生きているのかどうかも、判然としない。
俺は、鑑定を向けた。
====================
▼ 鑑定結果
名称:(縁なき水面)/待機の型・特異
─── 持ち高 ───
属性 ………… 現金(待機)
火力 ………… なし
守り ………… なし
コスト ……… 小(ただし温存が本分)
─── 銘柄カルテ ───
割安・割高 …… 見向きされず、
遊んでいると笑われる
体力(財務)…… 目減りせず、
いつでも動ける
気になる兆し …… なし
────────────────
見立て:平時は、ただの"遊んでいる水"。
だが皆が投げ売る底で、
たった一人、買い向かえる。
====================
……見たことのない形だった。
魔物に向ければ出る、相の並んだ盤面。仲間に向ければ出る、銘柄のカルテ。
これは、そのどちらでもない。両方を、半分ずつ切り取って、貼り合わせたような窓だ。
まだ、俺のものではない。けれど、もう、ただの野良でもない。——そういう、宙ぶらりんの相手にだけ出る様式なんだろう、と、なんとなく察しがついた。
欄が、やたらと短い。
これまで見てきたどのカルテより短く、そのくせ、書かれていることが、いちいち極端だった。
火力なし。守りなし。
攻めもせず、守りもしない。ダイチやコガネ以上に、"何もしない"やつだった。
——守りでも、攻めでもない。動かずに、待つ。
いつだったか、俺は、そんなことを口にした覚えがある。三つ目の構えってやつが、あるんじゃないかと。
あれは、思いつきだった。
思いつきが、こうして、水の形をして、目の前に座っている。
そして、その見立ての最後の一行に、俺の目は吸い寄せられた。
——皆が投げ売る底で、たった一人、買い向かえる。
*
「師匠、これ、なんすか? ……ただの、水たまりっすよね?」
トトが、泉を覗き込む。
「呼んでも、つついても、なんも反応しないし。……死んでるんじゃ?」
試しにホムラを出して、火の粉をぱちぱち散らして挑発させても、水面は、さざ波ひとつ立てなかった。
ダイチが、のっそり近づいて、どん、と地を踏んでも、動じない。
「……こいつは、脅しても、おだてても、動かない」
俺は、ふと、悟った。
ダイチも、コガネも、こちらから手を伸ばせば、応えてくれた。けれど、こいつは、たぶん、違う。力ずくでも、言葉でも、引き出せない。
——待つこと。それだけが、こいつに届く唯一の手なんじゃないか。
俺は、剣を置いて、泉のほとりに、腰を下ろした。
「……師匠? 何する気っすか」
「待つ」
「え、いつまで」
「こいつが、応えてくれるまでだ。——先に、行ってていい」
トトは、きょとんとしたまま、やがて手持ち無沙汰に、その辺の岩に座り込んだ。
シルクは、俺の隣に、ちょこんと寄り添った。
ホムラは「たりぃ」とぼやいて縁に引っこみ、ダイチは、そのまま俺の背後で、置物みたいに黙って佇んだ。
オルカは、何も言わなかった。
いつもなら「ガク様、それは非効率です」くらいは飛んでくる場面だ。なのに、思念は、ひとことも寄越されない。
……たぶん、こいつも、待っている。
時間が、ゆっくりと、流れた。
*
何もしない。ただ、水面を眺めて、待つ。
……前世の俺には、いちばん、できなかったことだ。
稼がない時間は、負けた時間。休むのは、悪。
焦って、常に何かを掴もうと手を伸ばして、その果てに、全部を失った。
けれど、今は、待てる。不思議と、この静けさが、心地よかった。
隣のシルクは、退屈がるでもなく、俺と同じように、じっと水面を見つめていた。
……そういえば、こいつも、待つのが得意なんだったな。
路地裏で、何日も、誰かが振り向いてくれるのを、じっと待っていた。獲物の気配を、身じろぎもせず、待ち続けられる。
——見くびられてきた者ほど、"待つ"という、いちばん地味な力を、身につけているのかもしれない。
「……ガク」
ぽつり、とシルクが囁いた。
「……この、みず。……さびしがって、た。……ずっと、ひとりで、まって、た」
「……ああ。そうかもな」
どれくらい、そうしていただろう。
日の傾きも、時の流れも、この静かな泉のほとりでは、意味を失っていく。
ただ、水面を眺め、呼吸を整え、心を、凪がせる。焦りが、すうっと、抜けていく。
ふと——鏡のようだった水面が、こちらへ、とぷん、と、ひとつだけ、波紋を返した。
『……待てるのだな、お前は』
凪いだ、水の声だった。
『皆、すぐに焦れて、去っていった。わしを"役立たず"と罵り、あるいは無理に振るおうとして、逆に溺れた。……ただ静かに、隣で待てた者は、お前が、初めてだ』
「……ずっと、待ってたんだな。誰かが、お前の"待つ意味"に、気づいてくれるのを」
水面が、ふるりと、揺れた。……たぶん、頷いたのだと思う。
(第40話へ続く)
【用語辞書】第39話に出てきた「投資」の話
● 現金(待機)="何もしない"という持ち方
投資というと、何かを買って持つことだと思われがちですが、何も買わずに現金のまま置いておくのも、れっきとした一つの持ち方です。増えないので地味ですし、周りからは「遊ばせている」と言われます。ですが、後で必ず効いてくる場面があります。
● 目減りせず、いつでも動ける=流動性
現金の強みは、値動きがないことと、いつでも好きなものに変えられることです。土地や建物のように「売りたくてもすぐ売れない」ということがない。この「すぐ動かせる」性質を流動性といい、危機のときほど価値を持ちます。
● 出すのは安いが、待つ時間が高い=機会費用
現金を置いておくこと自体に手数料はかかりません。ですが、その間、他の何かに投じていれば得られたはずの利益を、まるごと諦めています。これを機会費用といいます。だから現金は「持つのは安く、待つのは高い」。この回で主人公が見た「コスト 小(ただし温存が本分)」は、そういう意味です。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の銘柄・商品の売買を勧めるものではありません。




