第32話 今度こそ
「豊穣の層だよ。お前がすべてを失った、あの場所。あの時も、まったく同じだった。『誰でも儲かる』『今しかない』『乗り遅れるな』。——そして、泡ははじけた」
「で、でも師匠! 今度のは本物かも! 今度こそ——」
「"今度こそ"」
俺は、静かに繰り返した。
「その言葉がいちばん危ない。ああいう浮かれ騒ぎってのは、いつだって『今度こそ本物だ』って顔をしてやってくる。前に痛い目を見たはずの人間まで、また同じ甘い匂いに、ふらふら引き寄せられる。……俺も、昔、何度もそれをやった」
みんなが「絶対に儲かる」と騒いでいる時こそ、いちばん危ない。それを、この間、命がけで学んだばかりじゃないか。人は、こんなにも簡単に同じ轍を踏む。
「乗り遅れて、悔しい思いをするのと。飛び乗って、全部失うのと。——どっちがましだと思う?」
トトは、うつむいて、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「……乗り遅れる、ほうっすね」
「そうだ。取り逃した儲けは悔しいだけ。けど、飛び乗って溶かした金は、二度と戻らない。——お前は、それを身をもって知ってるはずだ」
「……はい」
トトは、こぶしをぎゅっと握った。その目から、さっきまでの熱に浮かされた光がすうっと引いていく。
「……あぶなかった。俺、また同じことやるとこだった」
「気づけたなら上等だ。——たいていの奴は、気づけずにもう一回溶かす」
*
その帰り道。トトが、ふと思い出したように言った。
「そういえば師匠。俺、聖導院に行こうかとも思ってたんすよね」
俺の足が、止まった。
「……聖導院に?」
「はい。ほら、俺、豊穣で全部失ったじゃないっすか。行くとこもなくて。そんな時、聖導院は無償で救ってくれるって評判で。優しくて、あったかくて。……いい人たちっすよね。師匠に拾われてなかったら、俺、たぶんあそこに行ってました」
……あそこに、行っていた。
背筋がひやりとした。この素直で調子のいい若者が、あの塗り固められた笑顔の教団に、感謝の涙を流しながら、身を預けていたかもしれない。……その先に、何が待っているのかも知らずに。
そういえば、こいつは五十人の代表として来たのに、自分は、あの列に並ばなかった。
……並ばずに済んだんじゃない。並ばなかったんだ、こいつは。
俺の隣で、シルクが鼻をきゅっとつまんだ。真新しい服の袖から、洗いたての白い毛並みがのぞいている。
「……あそこ。くさい。……ガク、しってる。あまいの、と、おなじ」
「トト。——ひとつ覚えておけ。うますぎる話には、必ず裏がある。誰でも、無償で、いくらでも救ってくれる。……そんな、うますぎる施しほど疑ったほうがいい」
「え……でも、聖導院は、困った人を助けて——」
「かもしれない。本当にただ優しいだけかもしれない。——けどな。この間、豊穣の"甘い匂い"に、俺たちはまんまと騙されかけた。だから、次からはどんなに尊く見えるものでも、いっぺん立ち止まって、中身を確かめる。それだけの話だ」
トトは、まだ半分腑に落ちない顔をしていた。それでいい。今すぐわからなくていい。
ただ——聖導院に"救われた"知り合いが、日に日に元気をなくしていく、という、あの噂。トトが、あの列に並ばずに済んだことに、俺はひそかに胸を撫で下ろしていた。
*
宿に戻ると、トトは、その日教わったことを、指を折って数え上げていた。
「えっと……大人しい相手に、全力は出さない。相手をよく見る。ひとつに全部を賭けない。……で、"今度こそ本物"は、いちばん危ない。乗り遅れるより、飛び乗るほうがこわい。……あと、うますぎる話は疑う」
「よく覚えたな」
俺は少し驚いた。調子がいいだけの、抜けた若造だと思っていたが。素直なぶん、教えたことがまっすぐ染み込んでいく。
「師匠のおかげっす! ……なあ師匠。俺、絶対いつか師匠みたいに賢く立ち回れるようになりますから!」
……賢く、か。
こいつに教えていると、不思議と俺自身も学び直している気がした。コスト。分散。過熱。罠。——全部俺が、身銭を切って命がけで覚えたこと。それを言葉にして、誰かに手渡す。そうすると、自分の中でも、それがもう一度はっきりと形になる。
窓は、俺にしか見えない。だから、俺が読んだものは、俺が言葉にしないと、この世のどこにも出てこない。
……言葉にしてみて、はじめてわかることがあった。今日、俺は「一番強いオルカ」と言いかけて、心の中で「一番高いオルカ」に直した。あの直しは、こいつに教えようとしなければ、たぶん一生しないままだった。
教えることは、いちばんの学び直しだ。前世じゃ、誰にも教えられる立場になんてなれなかったけどな。
「(……ガク様)」オルカの思念がそっと触れた。「(あの子に教えるたび、ガク様のマナの巡りが、少し良くなっています。人に教えることが、あなた自身の理解を深めているのでしょう。——おかげで私もまた少し深く手を伸ばせそうです)」
……ほう。教えることで俺も育つ、と。
休んだ日に、力が溜まった。教えた日に、巡りが良くなる。
……稼いでいない日ばかりだな。それなのに、こいつは毎回、俺の目を良くしていく。
地味な土くれも、冴えない金塊も、食うだけの斥候も。そして、この調子のいい若造も。——うちのやつらは、みんな世間に見くびられてきた奴らばかりだ。けど、俺には見える。こいつらの本当の値打ちが。
なあ。見過ごされてきた者ってのは、案外拾い上げてみると、とんでもない掘り出し物なのかもしれないぜ。
「よし。明日もみっちり鍛えてやる。覚悟しろよ、トト」
「うっす! よろしくお願いします、師匠!」
賑やかな夜が更けていく。
……ふと、窓の隅を思い出した。あそこに並ぶのは、精霊の欄だけだ。シルクの欄がないのと同じで、こいつの欄も、たぶん一生、灯らない。
手駒が一枚増えたわけじゃない。
けど、うちの食卓は、また少しあたたかくなった。
(第33話へ続く)
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【用語辞書】第32話に出てきた「投資」の話
● 「今度こそ本物だ」=バブルが繰り返す理由
バブルは、一度こりごりしたはずの人まで、「今度のは、前とは違う」という言葉で再び引き寄せます。歴史上、バブルのたびに必ず語られてきたのが、この決まり文句。ですが、たいてい違いません。「今度こそ」と思った時こそ、いちばん危ない——これは、覚えておく価値のある戒めです。
● 取り逃す損と、失う損を、天秤にかける
乗り遅れて取り逃す損は、悔しいけれど財産は減りません。熱に浮かされて飛び乗り、はじけて失う損は、二度と戻らない。焦りに飲まれそうな時は、この二つを並べて比べると、たいてい答えが出ます。
● うますぎる施しほど、裏を疑う
「誰でも・無償で・いくらでも」という条件がそろった時、その費用を誰が払っているのかを考える必要があります。無償に見えるものの代金は、たいてい、あとから別の形で請求されます。
● 教えることは、いちばんの学び直し
人に説明しようとすると、自分の理解の穴が見えます。曖昧なまま使っていた言葉を、正確に言い直す必要が出てくるからです。理解しているつもりのことを、一度誰かに説明してみる。これは、自分の判断を点検する方法として、かなり有効です。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の団体・銘柄・商品とは関係なく、また特定の投資を勧めるものでもありません。




