第24話 白い衣の、底
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しん、と静まり返った層に、甘い匂いは、もう、なかった。
崩れた花の亡骸から、澄んだマナが立ちのぼり、天井の穴へ、静かに還っていく。金蛾は、もう、生まれない。豊穣は、終わった。
助かった人たちが、出口の近くで、へたり込んでいた。シルクが逃がした者、自分の足で逃げ切った者。命は、あった。
けれど。その手には、もう、何もなかった。
抱えていた結晶は、砂に還り、はたいた貨幣は、装備に消えた。一攫千金を夢見て、なけなしを注ぎ込んだ者ほど、根こそぎ、失っていた。すすり泣く声が、あちこちで、上がっている。
……救えなかった。
いや——違う。命は、救えた。あの口に、飲み込まれずに済んだ。それは、大きい。
でも、彼らの"豊穣"は、救えなかった。
当たり前だ。あれは、最初から、泡だった。中身のない、甘い匂いだけの、幻。膨らんだ泡は、いつか必ずはじける。どうあがいても、しぼむ運命だった。俺にできたのは、泡がはじける時に、命まで持っていかれないように、することだけ。
「(……ガク様。よく、やりました)」オルカが、静かに言った。「(膨らんだ泡は、誰にも止められません。止められるのは、はじけ方だけ。——あなたは、最悪の"はじけ方"を、防いだ)」
……そうだな。そう、思うことにする。
俺は、へたり込んだ人たちを見た。呆然と、失ったものを数えている。……この痛みを、忘れないでいてくれたら。次に甘い匂いが吹いた時、少しでも、疑ってくれたら。——それが、せめてもの、救いだ。
「なあ、オルカ。ひとつ、教えてくれ」
さっきの窓が、まだ目の裏に焼きついていた。
「赤が五つ並んだ中に、ひとつだけ、緑があった。掘り出し、って欄だ。……あんな地獄のど真ん中で、なんで緑なんだ」
「(安かったからです)」
オルカの答えは、あっさりしていた。
「(値が、中身から離れきっていたのが、昨日までの四十二。今朝、それが十二になりました。……この層で採れるものの値打ちは、何ひとつ変わっていません。値段だけが、一夜で四分の一以下になった)」
「……つまり」
「(買うなら、今です。これほど買い得な瞬間は、これまで一度もありませんでした)」
……は?
俺は、あたりを見回した。
砂に還った結晶を、指ですくって呆然としている男。装備を買い込むためにはたいた貨幣を思い出して、頭を抱えている女。抱き合って泣いている、若い二人。
……買える者が、一人もいない。
この場にいる全員が、今この瞬間、いちばん安い値札を目の前にしている。そして全員が、買うための何ひとつを、持っていない。さっきまで全部を注ぎ込んでしまったから。
俺だって、そうだ。ずだ袋の中身は、逃げるのに必死でほとんど落とした。第一、俺の手駒に、こういう時に「買いに行く」札なんて、一枚もない。守りのダイチ、攻めのホムラ、全天候のオルカ。攻めと守りは揃った、と思っていたのに。
いちばん安い時に、買いに行ける手が、ない。
「(……ええ)」
オルカの思念が、静かだった。
「(緑は、灯っています。ですが、灯っているだけです。——今のガク様には、この緑を掴む手が、ありません)」
赤い窓の中で、たったひとつだけ点いていた、あの緑。
あれは、朗報だったんだ。誰にも受け取れない、朗報。
……いつか。
いつか、あれを掴める手を、持ちたい。
「ガク」
シルクが、とことこと戻ってきた。息を切らして、けれど、その顔は、少しだけ、誇らしげだった。
「……にげた人、いっぱい、いた。ガクの、こえで」
「お前が、走ってくれたからだ。——ありがとな、シルク。お前がいなきゃ、あの核も、見つけられなかった」
シルクの頬が、ぽっと、赤くなる。それを隠すように、俺の腕に、こつん、と額をつけてきた。……こいつも、ずいぶん、懐いてくれたもんだ。
*
人々を連れて層を出ようとした、その時だった。
出口のほうから、白い衣の一団が、静かに入ってきた。
汚れひとつない、聖職者の装束。数人が手分けして、へたり込んだ人々の間を回っていく。倒れた者を抱え起こし、毛布を掛け、安全な広間へと導き、水とパンを配っていく。手際は、驚くほどよかった。まるで、こうなることを、あらかじめ知っていたみたいに。
「(……聖導院、ですね)」オルカが、静かに言った。「(この地で最も篤く信仰を集める教団です。ダンジョンの災いで身を持ち崩した者に施しを与え、"女神の慈悲の代理人"として崇められている。——民の、心の拠り所です)」
なるほど。道理で、みんな、すがりつくわけだ。失意のどん底で、無条件に差し伸べられる手。「ありがとうございます」「聖導院さまだけが頼りです」と、人々は涙を流している。中には、さっきまで俺の警告を鼻で笑っていた顔も混じっていた。今は、その白い衣にすがって、額を地面にこすりつけている。
……あたたかい光景だった。慈悲深く、尊く、見えた。破滅した人々を、無条件で救う。誰が、これを疑えるだろう。
——ただ、一人を、除いて。
俺は、ふと、シルクを見た。
施しを受け取る列に、シルクは並ぼうとしなかった。それどころか、白い衣から、じり、と距離を取っている。……そういえば、こいつは、あれだけ飢えて路地裏で残飯をあさっていた時も、一度も、聖導院に頼らなかった。この町でいちばん、施しを必要としていたはずなのに。
「シルク。お前、あそこには、行かないのか」
「……いかない」シルクは、鼻をきゅっとつまんだ。「あそこ、くさい。……あまいのと、おなじ。うえは、いいにおい。……したが、へん」
甘い匂いの底と、同じ。上はいい匂いで、底が、へん。
……ぞくりとした。
一団の真ん中で、一人の男が、静かに指図をしていた。柔和な微笑みをたたえ、落ち着いた所作で部下に段取りを告げ、救われた人々に優しく声をかけている。誰が見ても、慈悲深い、指導者。
……こいつらのことは、何も知らない。名前すら。今日まで、そんな教団がいることすら、まともに認識していなかった。ただ、あんまり手際がよくて、あんまりできすぎていて——なんとなく、俺は、その指導役の男に、鑑定を向けた。
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▼ 鑑定結果
名称:??? / 聖導院・指導者(?)
─── 銘柄カルテ ───
割安・割高 …… 尊い(皆がそう言う)
体力(財務)…… ???(読み取れず)
還元(尽くす度)… 施し、篤い(表向き)
伸びしろ ……… ???
気になる兆し …… ??? ⚠(塗り固められ、読めず)
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見立て:入念に塗り固められている。
ほとんど、読めない。
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……読め、ない。
窓のほとんどが、???で埋まっていた。ダイチの時は、あんなにはっきり中身が見えたのに。まるで外側を、分厚い漆喰で入念に塗り固められているみたいに、カブの目を通さない。
……今日、二度目だ。
一度目は、あの層。危険が、全部いい顔をして並んでいて、数えられなかった。あれは、本体まで辿り着いたら、数えられるようになった。
じゃあ、これは。
この人の、本体まで辿り着いたら——読めるように、なるんだろうか。
けど——いちばん下の欄。塗り固められたその隙間から、⚠マークだけが、ちらり、と灯っていた。何かを必死に隠している時の、あの兆し。
俺の鑑定は、ごまかせても。——シルクの鼻は、ごまかせていない。
「(……ガク様)」オルカの声が、ひどく低かった。「(あの塗り固めようは、尋常ではありません。……あの方には、近づきすぎないよう)」
甘い匂いの底には、腐敗があった。
では——この、慈悲深い施しの、入念に塗り固められた底には。
いったい、何が、あるんだろう。
(第25話へ続く)
【用語辞書】第24話に出てきた「投資」の話
● 膨らんだ泡は止められない。止められるのは、はじけ方だけ
過熱した相場を、誰かが冷ますことはできません。できるのは、はじけた時に致命傷を負わない備えをしておくことだけです。全額を失うか、痛手で済むか。その差は、暴落が来る前に決まっています。
● 高値掴みの末路と、痛みの教訓
熱狂の頂点でなけなしを注ぎ込んだ人ほど、失うものは大きくなります。つらい現実ですが、この痛みを覚えている人は、次の甘い匂いを疑えるようになる——それが、暴落が残す、たったひとつの教訓かもしれません。
● 「読めない」相手が、二種類ある
豊穣の層が読めなかったのは、危険が有利の顔をしていたから。この人物が読めないのは、読ませないように塗り固められているからです。前者は見る側の問題で、後者は見られる側の意図。同じ「情報がない」でも、意味がまるで違います。開示の少ない相手を、たまたま情報が乏しいだけだと思い込むのは危険です。
● いちばん安いのは、誰も買えない時
CAPEが四十二から十二へ。中身は何ひとつ変わっていないのに、値段だけが四分の一以下になりました。理屈のうえでは、絶好の買い場です。ところが、その瞬間に買える人はほとんどいません。全員が直前まで全力で買っていて、手元に何も残っていないからです。だから「暴落したら買えばいい」は、言うほど簡単ではありません。買うためには、買わずに我慢していた分が必要です。
● 誰も疑わないものほど、確かめる価値がある
「尊い(皆がそう言う)」という一行が、この窓のいちばん不気味なところです。評価が高いことと、中身が良いことは別。全員が良いと言っていて、しかも中身が確かめられないものは、確かめられる範囲で最も注意すべき対象になります。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の銘柄・商品の売買を勧めるものではありません。
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