第22話 泡沫の宴
良かったら最後まで読んでいってください。
層の奥へ進むほど、甘い匂いは、濃くなった。
うっとりする果実の香りに、いつしか、饐えた臭いが混じりはじめる。表向きの甘さの、その裏で、確かに何かが腐っている。シルクの言った通りだった。
背後では、まだ歓声が響いていた。金蛾を払い、結晶を抱えて、人々が笑っている。その明るいざわめきが、進むごとに遠ざかり、代わりに、低い脈動が近づいてくる。どく、どく、と。シルクが聞き取った、あの鼓動だ。今は、俺の耳にも届いていた。
「……ちかい」
先頭を這うように進むシルクが、鼻を押さえて、囁いた。
「この、おく。……いちばん、あまくて。いちばん、くさってる。……きて」
ひらけた空間に、出た。
そして、俺は、それを見た。
層の最奥、天井まで届く、巨大な花のような塊。半透明で、ぬめぬめと濡れ光り、脈打つたびに、あの甘い匂いを吐き出している。花の中心は、ぽっかりと口を開けた、暗い袋になっていた。そして、その口から——金蛾が、次から次へと、生み出されては、層の浅いほうへと、送り出されていく。
これが、豊穣の、源。甘い匂いを撒き、金蛾を吐き、人を誘い込む、"何か"。
俺は、鑑定を向けた。
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▼ 鑑定 捕食する豊穣/戦域の主
[順風の果て] 複雑度 ★★★★☆
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荒れ(VIX 8.5) ●赤 ⚠⚠
商い(出来高 5.2倍) ●青
奢り(CAPE 42) ●赤
凶兆(あり・逆イールド −0.3%)●赤 ⚠⚠
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見立て:満ちきった泡。
あとは、はじけるだけ。
——暴落、間近。
……数えられる。
まっさきに、そう思った。
層の窓は、はてなマークだった。赤がひとつも見つからなくて、俺は数えることを諦めた。
ここは、違う。赤が、はっきり灯っている。荒れに、ひとつ。奢りに、ひとつ。凶兆に、ひとつ。★は、よっつ。
……数えられてしまった。
なんでだろう。数えられたほうが安心なはずなのに、背中がぞわぞわした。
「(正体に、辿り着いたからです)」
オルカの思念が、硬かった。
「(あの層は、この者が撒いた匂いにすぎません。匂いは、測れない。……撒いている本体だけが、測れるのです)」
……ああ。
俺が測れなかったのは、俺の腕が悪かったからじゃない。あそこには、測るべきものが、そもそも無かったんだ。上でみんなが必死に払っていた金蛾も、あの甘い匂いも、全部、こいつが吐き出した息だった。
そして、もうひとつ。
荒れ、8.5。
……昨日の層は、9.1だった。もっと凪いでいる。もっと波がない。なのに、あそこでは琥珀だったこの欄が、ここでは、はっきりと赤い。
「(凪ぎすぎたのです。もう、これ以上は静かになれないところまで)」
⚠マークが、二つ並んでいる。今までにない、警告だ。
それと、見慣れない欄が、ひとつ増えていた。
奢り。四十二。赤。
「(値が、中身から離れきっているという相です。……ガク様の窓が、この欄を映したのは、はじめてですね)」
いつのまにか、俺の窓は、欄が増えていた。灰鼠の時に、商いの欄が新しく点いた、あの時みたいに。
……見えるものが増えるのは、腕が上がったってことだ。そのはずなのに、増えた欄は、赤かった。
「そして、この——凶兆の、逆イールド、っていうのは」
「(順番が、逆になっているという意味です。近い先より、遠い先のほうが、安く見積もられている。……人が、遠い未来より、明日を恐れはじめた時にだけ起きます)」
オルカが、静かに続けた。
「(ガク様。この見立ての一行は、詩ではありません)」
満ちきった泡。あとは、はじけるだけ。——暴落、間近。
「(そのまま、この欄の直訳です)」
*
「(これは——泡を、膨らませる者です)」オルカの思念が、続いた。「(甘い匂いで熱狂を煽り、皆の稼ぎと、皆自身を、限界まで肥え太らせる。そして満ちきった瞬間、一気に飲み込む。——上にいる人々ごと)」
「飲み込む……人ごと?」
「(ええ。これが満ちきって"収穫"を始めれば、豊穣は一夜で地獄に変わります。結晶は泡と消え、逃げ遅れた者は、この口の中へ。——時間が、ありません)」
俺は、来た道を振り返った。遠く、明るいざわめきの向こうで、大勢の人が、まだ笑っている。
……あいつら全員、これに、喰われる。
「——逃げろ! みんな、逃げるんだ! この豊穣は、罠だ!」
俺は、声を張り上げた。喉が裂けるくらいに。けれど、届いた数人が、ちらりとこちらを見て——ふっと、鼻で笑った。
「なんだあいつ。せっかくの稼ぎ時に」
「妬みだろ。自分が乗り遅れたからって」
誰も、手を止めなかった。それどころか、より深く、より夢中に、金蛾を払い続ける。乗り遅れるな、と、目を血走らせて。
……くそ。
わかってはいた。前世の俺も、そうだった。「危ないぞ」と言われても、耳を貸さなかった。儲かっている時ほど、人は、都合の悪い声が、聞こえなくなる。
それに——俺が見ているものは、俺にしか見えない。
この窓を、あいつらの前に広げてやることができたら。赤が三つと、⚠が二つと、暴落間近の一行を、そのまま見せられたら。……たぶん、それでも、半分は笑うんだろうけど。
「シルク。——動ける人だけでいい。近くの、聞く耳のありそうなやつを、端から、外へ逃がしてくれ。お前の足なら、できる」
「……っ、うん! まかせ、て!」
シルクが、たたっと駆け出す。素早さだけは、誰にも負けない。その小さな体が、人混みを縫って、一人、また一人と、袖を引いて出口へ押しやっていく。
全員は、無理だ。それでも——一人でも、二人でも。
「俺は、こいつを止める。——ダイチ、ホムラ、オルカ。頼む」
*
その時、捕食する豊穣が、大きく、脈打った。
ぐぶり、と花の口が開き、これまでとは比べ物にならない、むせ返るほどの甘い匂いが、あふれ出す。同時に——鑑定の窓が、けたたましく鳴った。
地合い、反転。
「(来ます! ——"収穫"です!)」
(第23話へ続く)
【用語辞書】第22話に出てきた「投資」の話
● 「測れない」のは、対象が違っていたから
層の危険度が測れなかったのは、層そのものが結果でしかなかったからです。原因のほうに辿り着くと、途端に数えられるようになる。指標が読めない時、道具のせいではなく、見ている対象がずれていることがあります。
● 低すぎるボラティリティは、下限がある
VIXは下がり続けることはできません。8.5まで凪いだということは、もうこれ以上静かになれない、つまり次の動きは上(=荒れる方向)しかない、ということです。だから同じ「低い」でも、9.1は琥珀で、8.5は赤になります。
● 逆イールド(長短金利の逆転)
ふつう、遠い将来のお金を貸すほうが金利は高くなります。それが逆転し、近い将来の金利のほうが高くなる状態が逆イールド。人々が「遠い未来より、目先が危ない」と考えはじめた時にだけ起きるため、景気後退の前兆として最も有名な指標のひとつです。
● CAPE(奢り)
株価が、企業の実力(利益)の何年分にあたるかを、物価の影響をならして測った数字。四十二という値は、実力に対して値段が四十二年分まで買われている、という意味です。歴史的に見て、この水準は数えるほどしかありません。
● 見えるものが増えるのは、いいことばかりではない
分析の解像度が上がると、それまで見えなかったリスクまで見えるようになります。知らなければ平気でいられたことを、知ってしまう。それでも見えているほうが、確実に生き延びられます。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の銘柄・商品の売買を勧めるものではありません。
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