第21話 甘い匂いの底
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岩陰に腰を下ろし、俺はオルカに問うた。
「なあオルカ。シルクの鼻と目と耳は、この豊穣が、奥の何かに仕組まれたものだって言う。俺の鑑定は、順風だと言う。……この"豊穣"は、いったい、何なんだ」
「(ひとつ分、"種"を。……この甘い匂いの、正体を)」
つうっとマナが抜けて、くらりとめまいがする。その向こうで、オルカの声が響いた。
「(この"豊穣"は——過熱です。皆が儲かると信じ、乗り遅れるなと群がり、われ先に飛び込む。その熱狂そのものが、金蛾を溢れさせ、稼ぎを吊り上げている。ですが、それは中身の裏づけのない、熱だけの高騰です)」
「熱だけの……高騰」
「(ええ。だから荒れが、異様に低い。だから誰も売らず、誰も疑わず、皆がただ群がるから、波が立たない。凪いで見える。——けれど、中身が空っぽの熱は、いつか必ず冷めます。冷めた瞬間に、皆が一斉に逃げ出し、"豊穣"は一夜で"地獄"に変わる。ガク様の世界では、これを——バブル、と呼びます)」
バブル。泡。
……ああ。俺は、それを知っている。前世で、俺を殺したものだ。
あの一社も、そうだった。「絶対に上がる」「今買わなきゃ損だ」と、誰もが囃し立てていた。テレビも、ネットも、隣の同僚も。俺は、その熱に浮かされて、全財産をぶちこんだ。そして、化けの皮が剥がれた瞬間——泡は、はじけた。あの時、俺の目に見えていたのは、甘い匂いだけだった。底が腐っていることには、気づけなかった。
「……なあ、オルカ。ひとつ、わからないことがある」
「(どうぞ)」
「こいつら、なんで誰も帰らないんだ? 金蛾なんて、危なくもなんともない。ずだ袋がふくれたら、そこで切り上げて、帰ればいいだけだろ。……なのに、誰も帰らない」
「(金蛾に、攻撃力がないからです)」
……は?
「(この層には、痛みがひとつもありません。噛まれもしない、削られもしない、費えもかからない。降りるのに理由が要る局面では、人は降ります。ですが、ここには降りる理由が、どこにも落ちていないのです)」
オルカの声が、静かに続いた。
「(居続けるのが、ただ気持ちいい。それが、この層のいちばん怖いところです。——痛みのない場所からは、誰も、自分から出ていけません)」
……ぞくり、とした。
前世の俺も、そうだった。含み益が乗っている間、売る理由なんてどこにもなかった。むしろ売るほうが損に思えた。だから、持ち続けた。はじけるまで。
「(賢い人ほど、こう言い残しています。——"皆が「絶対に儲かる」と言う時こそ、いちばん危ない"、と。順風は気持ちいい。だから、疑うのが難しい。けれど、疑える者だけが、泡が弾ける前に、逃げられるのです)」
皆が「絶対に儲かる」と言う時こそ、危ない。
*
「相棒! 何ぼやぼやしてんだ! 早く俺を出せって! この追い風、ぜんぶ焼き払って、大儲けしようぜ!」
ホムラが、じれったそうに燃え立つ。
「……やめとく。ホムラ、悪いな」
「あぁ!? なんでだよ!」
ホムラの焔が、ぶわっと大きくなった。
「さっき、あんたが言ったんだろうが! ◎だって! 昨日と同じ印だって! あんたの力がそう言ってんのに、なんで従わねえんだよ!」
……そうだ。俺が、そう読み上げた。
俺は、噛み合わせの印を、もう一度見た。ホムラ、◎。何も間違っていない。ホムラを出せば、たぶん昨日の何倍も稼げる。この層にいる誰よりも、大きく。
こいつには、この印しか届いていない。窓が見えないこいつには、俺が読んだひと言だけが渡っている。荒れの色も、凶兆の「読み取れず」も、見立ての一行も、伝えたのは俺じゃない。
……伝えていないものが、いちばん大事な部分だった。
だからこそ、指先が冷たくなった。
「(ガク様)」
オルカが、そっと告げた。
「(◎は、効きの話です。正しさの話では、ありません)」
……ああ。
「(この印は「この札がいちばんよく効きます」としか言っていない。「出すべきです」とは、一度も言っていないのです。効きが最高だからこそ、外した時にいちばん深く沈む。——ここで決められるのは、印ではなく、見立ての一行と、あの子の鼻だけです)」
過熱の、兆し。
したが、くさってる。
……決まりだ。
「ホムラ。窓は、お前がいちばんよく効くと言ってる。それは本当だと思う」
俺は、足元の焔に向かって、はっきり言った。
「でもな。この追い風は、本物じゃない。奥の何かが、撒いてる甘い罠だ。よく効く札を、罠のど真ん中で振り回したら、どうなると思う。——いちばんよく効くやつが、いちばん深く沈むんだ。昨日、お前が溶けたみたいに」
「……っ」
「熱に浮かされて全部賭けるのは、俺が前世でやって、死んだやり方だ。同じ轍は、踏まない」
ホムラは、しばらく黙っていた。それから、ちっ、と小さく鼻を鳴らして、勢いをすとんと落とした。
「……わあったよ。あんたがそう言うなら、従うさ。——約束したしな。出番のときだけ、呼ぶって」
「ああ。ここは、出番じゃない」
*
拾えるだけ拾って、さっさと逃げる。それが、いちばん賢いやり方だろう。
——でも。
俺は、まわりを見た。金蛾を払い、結晶を抱えて、頬を上気させて笑っている、大勢の顔。この甘い匂いの正体も、奥に潜む"何か"も知らないまま、ただ夢中で、宴に踊っている。
……こいつら全員、泡がはじけた瞬間、俺が前世で落ちたのと、同じ地獄に真っ逆さまだ。全財産を溶かし、明日を失い、抜け殻になる。中には、命を絶つやつだって、出るかもしれない。
知らないやつらだ。一人も、知らない。話したことも、ない。
……けど。
黙って、自分だけ、こっそり逃げられるか?
「……オルカ、シルク。俺は、水晶を拾いに来たんじゃない」
俺は、立ち上がった。
「この宴を仕組んだ、奥の何かを、何とかしたい。泡が、あいつら全員を巻き込んで、はじける前に。——止められるか、追い払えるか、それとも、せめて、逃げろと叫ぶだけになるのか。それは、行ってみなきゃ、わからない。けど」
前世の俺には、誰も、教えてくれなかった。「その泡は、はじけるぞ」と。手を引いて、止めてくれる誰かが、いなかった。
——だったら、せめて、俺が。
「知らないやつらでも。見捨てて、逃げるのは、違う気がするんだ」
オルカの光が、静かに揺れた。
「(……承知しました。ガク様らしい)」
その声には、いつもの淡々とした響きの奥に、ほんの少しだけ、違う色がまじった気がした。……たぶん、気のせいだ。
シルクが、俺の裾を、ぎゅっと握った。
「……シルクも、いく。……はな、きく。め、みえる。……やくに、たつ」
「ああ。頼りにしてる。——お前がいなきゃ、俺は、この甘い匂いに、まんまと騙されてた」
*
層の、いちばん奥。誰もまだ足を踏み入れていない、暗がりのほうへ、俺たちは歩き出した。
背後では、相変わらず、歓声と笑い声が響いている。金蛾が舞い、結晶がこぼれ、人々が浮かれている。甘い、甘い、匂いの中で。
その甘さの、底。いちばん深く、いちばん腐った場所で、脈打つ"何か"。金蛾を送り出し、甘い罠を撒き、これだけの人々を、静かに破滅へ誘い込んでいる、その正体。
……確かめに行こう。
守りのダイチ。攻めのホムラ。全天候のオルカ。そして、目に見えぬ腐敗を嗅ぎ分ける、シルクの鼻。俺の手には、もう、ひと通りが揃っている。
ただし、決して、ひとつには賭けずに。
(第22話へ続く)
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【用語辞書】第21話に出てきた「投資」の話
● バブル(泡)=中身の裏づけのない高騰
実力以上に、値段だけが熱狂で吊り上がった相場のこと。誰でも簡単に儲かるように見えますが、それは群衆の熱だけで膨らんだ泡です。泡はいつか必ずはじけ、その瞬間、皆が一斉に逃げ出して大暴落します。チューリップ・バブルやITバブルなど、人類は何度もこれを繰り返してきました。
● 群衆心理とFOMO(取り残される恐怖)
「みんなが買っている」「乗り遅れたら損」という空気は、人を熱狂に巻き込みます。周りが儲けていると、冷静さを保つのが極端に難しくなる。これが、バブルで人が高値掴みをしてしまう最大の理由です。
● 痛みのない場所からは、誰も出ていけない
金蛾に攻撃力がないから、誰も帰らない。含み益が乗っている間、売る理由はどこにもありません。むしろ売るほうが損に思える。だから持ち続けて、はじけるまで居座る。降りる基準を、儲かる前に決めておく必要があるのは、このためです。
● 「よく効く」と「出すべき」は違う
この回のいちばんの肝です。ある資産がこの局面で最も高いリターンを出す、という判断と、だから買うべきだ、という判断は別のものです。よく効く札ほど、外した時に深く沈みます。期待できる利益の大きさだけを見て、外した時にどこまで沈むかを見ないのが、破産する人の共通点です。
● 二次的思考
「みんなが良いと言うから買う」の一歩先——「なぜ皆がそう言うのか」「その熱の中身は本物か」を疑うこと。バブルを生き延びる人は、順風の中でも疑える人です。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の銘柄・商品の売買を勧めるものではありません。
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