第20話 したが、くさってる
話数も増えてきました。読んでいただけたことに感謝です。
しゃがれた、小さな声だった。ひどく、たどたどしい。言葉を、必死につなぎ合わせるように。
「あまい……けど。した……したが、くさ、くさってる。ここ、だめ。にげ……にげたほうが、いい」
甘い。けど、下が、腐っている。
その一言が、俺の中で、鑑定の窓と、ぴたりと重なった。俺の鑑定は、この層を「順風・過熱」と映した。表向きは、晴天。誰の目にも、順風満帆。——けれど、この子の鼻は、その甘い匂いの底を嗅いでいる。俺の目にはまだ見えない、腐敗の臭いを。
「……お前、それ、匂いで、わかるのか」
こくり、と、その子は頷いた。それから、震える指で、いくつかのことを、順に示してみせた。
まず、鼻。層のいちばん奥、暗がりのほうを指して、鼻を、きゅっとつまむ仕草。あそこが、いちばん臭い、と。
次に、目。舞い飛ぶ金蛾を指し、それから、その奥をたどるように、腕をすうっと動かす。よく見ろ、と言うように。俺は目を凝らした。——ああ。金蛾は、ただ湧いているんじゃない。みんな、層のいちばん奥の、あの暗がりから、次から次へと、流れ出してきている。誰かが、送り出しているみたいに。
最後に、耳。自分の大きな耳を、ぴん、と立てて、それから、地面を指した。
「……おと。みんな、きこえてない。……でも、おくから。どく、どく、って。……いきてる、みたいな、おと」
俺には、聞こえない。歓声にまぎれて。でも、この子の耳は、拾っている。層の奥から響く、脈打つような音を。まるで、何か大きなものが、息をしているみたいな。
鼻で、腐敗を。目で、金蛾の流れを。耳で、奥の鼓動を。——三つを、この子は、つなぎ合わせていた。
「……おくに、なにか、いる」その子は、はっきりと言った。「あまいにおいで、むしを、よんで……ひとも、よんでる。ぜんぶ、あそこから」
甘い匂いで、虫を呼び、人を呼ぶ。すべては、奥の"何か"から始まっている。
……ぞくりとした。この"豊穣"は、自然に湧いたものじゃない。奥にいる何かが、甘い匂いを撒き、金蛾を送り出し、人を誘い込んでいる。誰かに、仕組まれた宴だ。
「(……ガク様)」
オルカの思念が、ひどく静かだった。
「(カブの窓は、この層の危険を、ひとつも数えられませんでした。凶兆の欄は、読み取れずのまま塞がっている)」
「……ああ」
「(けれど今、その欄に入るはずだったものを、この子が三つ、並べてみせました。腐敗の在り処。金蛾の出どころ。奥の鼓動。——鑑定が数えられなかったものを、この子の鼻と目と耳が、数えたのです)」
……窓の外に、答えがあった。
俺の力は、女神からもらった大層なものだ。数値が出て、色が点いて、見立てまで告げてくれる。それでも、測れないものがある。測れないと表示することしか、できないものが。
その空白を、埋めたのは。骨と皮ばかりの、この小さな子だった。
*
俺は、しゃがんで、その子と目線を合わせた。骨と皮ばかりの体。ぼさぼさの毛。けれど、その目も、鼻も、耳も、驚くほど、鋭い。
「……お前、名前は?」
その子は、しばらくためらってから、消え入りそうな声で言った。
「……シ、シルク」
「シルク、か。——いい名前だ」
シルク。俺は、その名を、胸に刻んだ。
「なあ、シルク。お前のその鼻と、目と、耳。あれが見えて、聞こえて、嗅げるやつは、そういない。俺の鑑定にも映らないものを、お前は掴む。——先に立って、危険や獲物の在り処を、みんなに教える役を、斥候っていうんだ。お前のそれは、立派な、斥候の才だ」
シルクが、きょとん、と俺を見上げた。
「仲間に、なってくれないか。——無理にとは、言わない。ただ、お前が嗅いだこと、見たこと、聞いたことを、俺たちに教えてくれるなら。俺は、お前が二度と食いっぱぐれないようにする。稼ぎは、ちゃんと分ける。約束だ」
シルクは、俺の顔をじっと見ていた。値踏みするように。何度も裏切られてきた者の、慎重な目で。それから、ふところから、何かを取り出して、俺に見せた。
……串だった。今日、俺が窓辺に置いた、肉の串。それも、全部。ほとんど手つかずのまま。
「これ……食べて、なかったのか?」
「……なか、まに。……もっと、はらへってる、こに」
仲間に。もっと腹を空かせている子に。——自分だって痩せこけているくせに、こいつは、もらった飯を、自分より弱い誰かに分けていた。
……胸の奥が、じん、と熱くなった。世間に見くびられ、役立たずと無視されて、それでも自分より弱い者に手を差し伸べる。……前世の俺なんかより、ずっと、まっとうだ。
「……その仲間のぶんも、これからは、俺が何とかする。だから——お前は、お前のことも、ちゃんと考えていい」
しばらくの沈黙のあと。シルクは、こくり、と、しっかり頷いた。
「よし、俺の名はガクだ。——よろしくな、シルク」
「……よろ、しく。ガク」
小さな手が、おそるおそる、俺の手を握り返してきた。ひどく細くて、そのくせ、指の力だけは、しっかりしていた。
……鑑定の窓には、こいつの欄はない。精霊じゃないから、噛み合わせの印も並ばない。
それでいい、と思った。
窓の中だけを見ていたら、俺は今日、この甘い匂いにまんまと踊らされていた。窓の外に、頼れるものが一人できた。それは、たぶん、◎がひとつ増えるよりも、ずっと大きい。
(第21話へ続く)
【用語辞書】第20話に出てきた「投資」の話
● 指標に出ないものを、誰かが見ている
数値化されたデータは強力ですが、必ず取りこぼしがあります。現場を歩いた人だけが気づく違和感、働いている人の表情、店の客足——プロの投資家がわざわざ現地を見に行くのは、集計された数字が拾えないものを拾うためです。シルクの鼻・目・耳は、この「現場の情報」にあたります。
● 三つをつなぐ
シルクは、腐敗の匂い、金蛾の出どころ、奥の鼓動という三つの別々の観察を、ひとつの結論につないでみせました。単独では意味を持たない事実を並べて、何が起きているかを組み立てる。これが分析の基本形です。ひとつの数字だけを見ていては、この結論には辿り着けません。
● 自分の道具の限界を知る
鑑定は「測れない」と正直に表示しました。優れた道具ほど、測れない範囲をはっきり示します。危ないのは、なんでも答えが出てしまう道具のほう。自分の分析手法が何を見ていないのかを把握している人だけが、その外側を誰かに補ってもらえます。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の銘柄・商品の売買を勧めるものではありません。
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