第19話 数えられない星
投稿しました。読んでいただけると幸いです。
異世界に来て、八日目。町は、朝から浮き立っていた。
どこへ行っても、話題はひとつ。"豊穣の層"だ。新しく開いた層で、潜れば潜るほど、面白いように結晶が手に入るという。昨日まで文無しだった若造が一日で銅貨の山を築いたとか、隣町から一攫千金を狙う連中が押し寄せているとか——景気のいい噂ばかりが、通りを飛び交っている。
露店の主人も、宿の女将も、みんな目の色が違った。手持ちの貨幣をはたいて装備を買い込み、われ先にとダンジョンへ向かっていく。乗り遅れるな、と誰もが顔に書いていた。
「なあ相棒、行こうぜ! 早く! 出遅れたら、もったいねえ!」
足元で、ホムラがうずうずと急かしてくる。……正直、俺の胸も、少し高鳴っていた。あの潮目の主の大結晶を、毎日拾えるようなものだ。そんな夢みたいな話が、本当にあるなら。
「……ちょっと、見るだけだ。ひとつには、賭けない。それだけは、忘れない」
昨日の湖で、体に刻んだ言葉だ。俺は自分に言い聞かせて、人の波に混じった。
*
豊穣の層は、これまでのダンジョンと、まるで空気が違った。
暗くじめついた浅層とも、危険な下層とも違う。ふわりと温かく、明るい。壁からにじむマナの光は濃く、そして——甘い匂いがした。熟れた果実みたいな、うっとりする甘さ。吸い込むだけで、心がふわっと軽くなる。
その甘い匂いに誘われるように、無数の蛾が舞っていた。金色の鱗粉をまとった、掌ほどの大きさの蛾。ふわふわと頼りなく飛んでは、マナの光に群がっている。
「それ、それ! こいつだよ!」
近くのハンターが、金の蛾を、ぱん、と手で払った。それだけで、蛾はほどけて光に変わり——じゃらり、と、青白い結晶をこぼした。剣も、精霊も要らない。子どもでも狩れる。そんな弱さの魔物が、甘い匂いに引かれて、あとからあとから、湧いてくる。
「見ろよ! こんなに簡単に!」
「今日で三度目だ! こんな儲け話、今しかねえ!」
……すごい。本当に、誰でも稼げる。
俺も、ふらりと寄ってきた一匹を、手で払ってみた。ほどけて、こつん、と結晶が落ちる。上等な品だ。もう一匹、もう一匹と払ううちに、あっという間にずだ袋がふくれていく。稼げている。何の苦労もなく。
「な! な! 言った通りだろ!」ホムラが得意げに燃える。「こいつら、ぜんぶ俺が焼き払えば、一気に大儲けだぜ! なあ相棒、全部いこうぜ、全部!」
全部。——その言葉に、ぞくりとした。
昨日、聞いたばかりの声だ。いけるうちに、もっと。その囁きこそ、いちばん危ない毒だと。
俺は、払いかけた手を止めて、鑑定を向けた。この、あまりに気前のいい戦域そのものに。
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▼ 鑑定 豊穣の層/戦域(金蛾・群れ多数)
[順風・過熱] 複雑度 ???(測れず)
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荒れ(VIX 9.1) ●琥珀 ⚠
商い(出来高 平均の4.5倍) ●緑
底の深さ(なし/十四日連続)●緑
凶兆(読み取れず) ●?
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見立て:皆が笑い、誰も疑わぬ。
順風、あまりに順風。
——過熱の兆し。
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……はてな、マーク?
俺は、窓を二度見した。
複雑度の欄に、星が並んでいない。★でも☆でもなく、???と出ている。そんな表示は、はじめてだった。
「オルカ。……これ、壊れてないか」
「(いいえ。正しく、測れないと表示しています)」
「測れないって……昨日、教えてくれただろ。星の数は、赤い相の数だって。だったら数えりゃいいだけの話じゃないか。……ほら、赤がない。ひとつもない。だったら★ゼロってことだろ?」
言いながら、自分の声が、少し上ずっているのがわかった。
「(ガク様。よく、見てください。——荒れの色を)」
言われて、俺は目を戻した。
荒れ、9.1。琥珀色。そして、小さな⚠。
……琥珀。緑でも、赤でもない。
「(荒れが低いのは、ふつう、良いことです。海が凪いでいるのですから。ですが、これは低すぎる。誰も売らず、誰も疑わず、皆がただ一方向に群がっているから、波が立たないのです。——凪の底、と言います)」
「凪が……危ないのか」
「(危ないのに、緑に見える。だから琥珀なのです。そして、それだけではありません)」
オルカの思念が、ゆっくりと窓をなぞっていく。
「(商い、4.5倍。作中で見たどの相場より賑わっています。良いことに見えます。底の深さ、なし。十四日、一度も押し目がない。これも良いことに見えます。……ですが、一度も下げない相場というのは、この世に存在しないものです)」
……ぞくり、とした。
「(そして、凶兆。読み取れず、と出ています)」
「読み取れずって、それは……ないってことじゃないのか」
「(いいえ)」
オルカの答えは、静かで、はっきりしていた。
「(読めないことと、無いことは、違います)」
……ああ。
そこで、ようやく腑に落ちた。
この窓に赤がないのは、危険がないからじゃない。危険な相が、ぜんぶ"有利"の顔をして点いているからだ。凪は「安全」の顔で。賑わいは「活況」の顔で。押し目がないことは「一度も損していない」という顔で。
だから、数えられない。俺の鑑定は、見えている危険しか数えられない。安全の顔をして立っている危険を、数える欄を持っていない。
……★は、ここで役に立たないのか。
昨日、俺は賢くなった気になっていた。星の数は赤い相の数だ、と。そのルールを覚えた次の日に、そのルールごと通用しない場所に立っている。
もうひとつ、気づいたことがあった。
荒れ、9.1。——昨日の満ち潮は、10.0だった。
ここは、あの日の湖より、もっと凪いでいる。もっと穏やかで、もっと波がない。
なのに、あっちは★みっつで、こっちは測れない。
「(そうです)」
オルカが言った。
「(あの湖は、危ない顔を、危ない顔のまま見せていました。だから数えられた。……ここは、見せていないのです)」
見せて、いない。
……隠されているんじゃない。目の前にぜんぶ出ている。出ているのに、ぜんぶ、いい顔をしている。
窓の隅に、見慣れた印が並んだ。
▼ 噛み合わせ 【豊穣の層】
ホムラ ………… ◎
ダイチ ………… ✕
オルカ ………… ○
「ホムラ……◎、か」
思わず、声に出ていた。
「お、聞いたか今の! ◎だってよ! なあ相棒、俺の番だろ、それ!」
足元でホムラが跳ねる。……こいつには、窓は見えない。ダイチにも。この窓を読めるのは俺と、隣で淡く光っているオルカだけだ。
だから、俺が読み上げたひと言が、こいつらにとっては世界のすべてになる。
昨日、俺を大黒字にしたあの印が、また灯っている。窓は、ホムラを出せと言っている。効きは、最高だと。
まわりを見渡す。歓声。笑い声。上気した顔、顔、顔。誰ひとり、疑っていない。みんな、絶対に儲かると信じきっている。
……なのに、見立ての一行だけが、こう言っている。
過熱の、兆し。
「(ガク様)」オルカの思念が、低く沈んだ。「(この層は、私の目でも、底が見通せません。——ただ、ひとつだけ言えます。誰も疑わない相場ほど、恐ろしいものはありません)」
誰も、疑わない。
その光景が、なぜだか俺の背筋を、すうっと冷やした。
*
その時だった。
人混みの隅、崩れた岩の陰で、小さな影がうずくまっているのが見えた。
痩せた獣人の子だ。あの、路地裏の。串を分けてやっていた、あの子。こんな奥まで、来ていたのか。
けれど、様子がおかしい。みんなが浮かれて金蛾を払いまくる中、その子だけが、狩ろうともせず、鼻をひくひくと動かし、耳をぴんと立て、大きな目で、暗い層の奥をじっと睨んでいる。そして、その小さな顔は——はっきりと、怯えていた。
俺と、目が合った。
いつもなら、びくっと逃げる。けれど今日は、逃げなかった。それどころか、意を決したように、俺のほうへ、たたたっと駆け寄ってきて、俺の裾を、きゅっと掴んだ。
「……く、くさい」
(第20話へ続く)
【用語辞書】第19話に出てきた「投資」の話
● 低すぎるボラティリティは、安全ではない
荒れ(VIX)は、市場がこの先どれだけ荒れそうかを示す指標です。低いほど落ち着いている——のですが、極端に低い状態は「誰も下落を警戒していない」という意味でもあります。過去のバブルの天井付近では、この指標が異様に低く沈むことが繰り返し起きています。静かな水面の下に、はじける力が溜まっている状態です。
● 「一度も下げていない」は、褒め言葉ではない
十四日連続で押し目なし。買った人が全員儲かっている状態です。ただし、下げを経験していない相場は、下げに対する耐性を誰も持っていません。全員が含み益で浮かれている市場ほど、最初の一撃で崩れます。
● 危険が「有利」の顔をして点灯する
この回のいちばんの肝です。凪は安全に見え、活況は好調に見え、下げていないことは健全に見える。危険な兆候が、ぜんぶ良い知らせの顔をしてそこにある。だから危険度が数えられません。リスク指標が「安全」と表示している時ほど、その指標が何を測っていないかを考える必要があります。
● 「読めない」と「無い」は違う
データが取れないことを、危険がないことと取り違えるのは、投資でよくある事故です。測れないものはゼロとして扱われがちですが、測れないだけで、そこに在ります。
● 同じ数字でも、意味が同じとは限らない
前話の湖は荒れ10.0、この層は9.1。数字はほとんど同じで、片方は危険度が測れて、もう片方は測れません。指標の値だけを並べて比べても、その値が何を映しているかまでは分かりません。数字が近いことは、状況が近いことを意味しません。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の銘柄・商品の売買を勧めるものではありません。
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