第17話 溶ける
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温かかった水がすうっと冷たく暗くなり、明るかったマナがごっそりと引いていく。満ちていた潮が、引き潮に転じた。潮目が、変わったのだ。
「な——っ!?」
鑑定の窓が、ちかちかと明滅する。地合い、反転。強気が、弱気へ。追い風が、逆風へ。
窓の隅の印が、音もなく書き換わった。
▼ 噛み合わせ 【引き潮】
ホムラ ………… ✕
ダイチ ………… ◎
オルカ ………… ○
……✕。
さっきまで◎だったやつが、一瞬で✕になる。そんなことが、起きるのか。
そして湖の中心で、潮目の主がぐわりと鎌首をもたげた。引き潮の冷たい闇をまとって、深追いしたホムラめがけて。
「ホムラ! 戻れ——っ!」
遅かった。主のいる中心まで突っ込んでいたホムラは、あまりに遠く、俺の手も、誰の守りも届かない。潮目の主が長い胴を鞭のようにしならせ、ホムラを叩く。引き潮の、冷たい一撃。逆風のただ中で。
——ホムラが、軋んだ。
「ぐ……あ、っ!?」
燃えていた体が、じゅう、と嫌な音を立てる。冷たい潮に炙られた火が、みるみる勢いを失っていく。さっきまで、あんなに明るかった焔が。
「相棒……っ、これやべえ! 力が出ねえ! 体が、溶け……っ!」
ホムラの威勢のいい声が、悲鳴に変わる。同時に、俺の中からマナが滝のように流れ出していくのがわかった。ホムラはもともとコストの高い攻めの精霊だ。それが逆風の中で削られ、炙られ、消えまいともがくたびに、とんでもない量のマナを食い、燃やし、垂れ流していく。
収支が見える。見えてしまう。
……真っ赤だ。
さっき刈り取った結晶が、ばからしくなるほどの勢いで、マナが、貨幣が、命が、ごっそりと溶けていく。
頭から、血の気が引いた。
——この感覚を、俺は知っている。
前世のあの日。化けの皮の剥がれたたった一社に、なけなしの全財産をぶちこんで、「まだ上がる」「もっといける」と深追いして、気づいた時にはすべてが紙くずになっていた、あの——。
「ホムラッ! もういい、戻れ! 顕現を解く!」
俺は半ば絶叫しながら、縁を手繰った。燃えさしのようになったホムラが、すんでのところで光にほどけ、俺の中へ引っこむ。冷たい潮の一撃が、空を切った。
俺は湖の縁まで、転がるように後退した。
心臓が痛い。冷や汗が止まらない。手の中のずだ袋は、刈り取った結晶ごと、ほとんど空に近かった。
……あと一歩、戻るのが遅かったら。俺はホムラを——大事な相棒を、永遠に失っていた。
*
湖から十分に離れた岩陰で、俺は膝を抱えて荒い息をついていた。震えが、止まらない。
「(……ガク様)」
オルカの思念が、静かに寄り添ってきた。責める色はない。
「(ひとつ分、"種"を。……今の戦いの、答え合わせをしておきましょう)」
「……ああ」
つうっと、わずかなマナが抜けて、くらりとめまいがする。けれど今は、その対価がむしろありがたかった。何がいけなかったのか。知らなければならない。
「(まず、ひとつ。……ガク様は、ホムラ様が何に殺されかけたと、思っておいでですか)」
「……何にって。あの一撃だろ。主の胴が、ホムラを叩いた」
「(いいえ)」
オルカの答えは、はっきりしていた。
「(引き潮の窓を、思い出してください。荒れ——VIX 13.0。緑です。あの相手は、満ち潮でも引き潮でも、殴る力そのものは低い。もしあの場にダイチ様が立っていたら、あの一撃を、こつんと受け止めて、びくともしなかったでしょう)」
……え。
「(ホムラ様を溶かしたのは、攻撃ではありません。環境です)」
窓の残像が、俺の頭の中でもう一度、開いた。
引き潮。底の深さ、マイナス十八パーセント、進行中——赤。締め付けの鎖、プラスに転じている——赤。
「(底が、進行中に抜けていく。立っているだけで足元が削られ続ける。そこへ、締め付けの鎖が緩みから締まりへ変わった。伸びしろに値が乗った札——ホムラ様のような攻めの精霊は、この二つがそろった時、いちばん確実に死にます)」
「……殴られたんじゃなくて」
「(そこに、居ただけで。溶けたのです)」
……ぞわり、と鳥肌が立った。
殴られて死ぬなら、まだ話はわかる。強いやつに負けた、というだけだ。
でも、そうじゃない。あいつは、ただそこに在っただけだ。天気が変わって、俺の相棒が、その天気に耐えられなかった。それだけの話だった。
「(もうひとつ。……ガク様は、引き潮の窓を見て、危ないと思われましたか)」
「……いや」
正直に答えた。
「荒れは緑だった。商いも落ちてるだけで、赤くない。……ぱっと見、地味だった。四日目の、黒犬の時と似てるくらいだ」
「(そこが、この相手のいちばん恐ろしいところです)」
オルカの声が、静かに沈んだ。
「(黒犬の底の深さは、マイナス八パーセント。ただしそれは、もう終わっている下げでした。潮目の主の引き潮は、マイナス十八パーセントで、まだ進行中。数字の見た目は似ていて、中身はまるで違う。——地味だから安全だ、という思い込みが、殺しにくるのです)」
……地味だから、安全。
昨日までの俺なら、たぶん気にも留めなかった一行だ。
「(では、本題です)」
オルカが、続けた。
「(今日の相手は、複雑度★★★。強気と弱気が、交互に反転する。そういう揺れ動く相場で、ガク様は攻めの一手だけにすべてを賭けました。満ち潮の間はよかった。ホムラ様は輝いた。けれど潮目が変わった瞬間——逆風の中で、攻めの精霊は真っ先に溶ける。ガク様は、その逆風を耐える"守り"を、一体も置いていなかった)」
「……っ」
「(攻めだけでは、潮が引いた時に溶ける。——では、守りだけならどうか。ダイチ様だけを出していたら?)」
「……満ち潮を、取り逃す。……機会損失だ。翔け兎の時と、同じ」
「(その通りです。攻めだけでも、守りだけでも、この相場は越えられない。どちらか一方にすべてを賭けた時点で、半分の潮で必ず死ぬのです)」
……どちらか一方に、すべてを賭ける。
その言葉が、ぐさりと刺さった。
「(答えはひとつ。攻めと守りを、両方併せ持つこと。潮が引く間はダイチ様で揺るがず耐え、潮が満ちた時だけホムラ様を放って獲る。性質の違うものを組み合わせ、ひとつの流れにすべてを賭けない。——これをガク様の世界では、分散、あるいはバランス、と呼びます)」
分散。
……ああ。また、あの読み飛ばした章の言葉だ。でも今度は、痛いほどピンと来た。
前世の俺の死因。たった一社に全財産を賭けて、その一社が傾いた瞬間に、すべてを失った。もしあの時、財産をいくつかに分けていたら。性質の違う別のものにも置いていたら。あの一社が紙くずになっても、俺は死なずに済んだ。残ったもので、立て直せた。
俺は知っていたはずだ。「ひとつに賭けるな」と。本の中で、何度も読んだはずだった。なのに欲が出ると忘れ、勝ちに酔うと、また同じように、ひとつにすべてを賭けてしまう。
……ホムラ一体に全部賭けたさっきの俺は、前世で死んだ時の俺と、何ひとつ変わっていなかった。
それに——窓は、最初から全部見せていた。
満ち潮と、変わり目と、引き潮。三つの顔を、並べて。見立てにはこう書いてあった。一手では喰われる、と。
答えは、書いてあったのだ。俺が、読まなかっただけで。
「ホムラ。……悪かった」
俺は縁の向こうの相棒に呼びかけた。
「お前を無理やり、一体だけで逆風に突っ込ませた。……お前のせいじゃない。全部、俺の欲だ」
「……べつに」
ホムラの声は、まだ少し掠れていた。
「……生きてりゃいいさ。あんたがちゃんと引っこめてくれたしな。——次はしくじるなよ、相棒」
……ああ。次は、しくじらない。
俺はゆっくりと立ち上がった。
(第18話へ続く)
【用語辞書】第17話に出てきた「投資」の話
● 下げ相場は、殴ってこない
ホムラが溶けたのは、敵の攻撃力が高かったからではありません。荒れ(VIX)は低いままでした。溶かしたのは環境のほうです。相場でも同じで、大きく損をするのは派手な暴落の日だけではありません。じりじりと下げ続ける相場に、値動きの大きい資産を置きっぱなしにしておくと、殴られていないのに資産が減っていきます。
● 実質金利(締め付けの鎖)
金利からインフレ分を差し引いた、本当の金利。これがマイナスからプラスに転じると、「将来の成長に期待して買われている資産」が最も強く売られます。将来のもうけを今の値段に換算するとき、金利が上がるほど価値が目減りするからです。ホムラのような成長期待型の資産にとって、これが最大の死因になります。
● ドローダウン(底の深さ)
高値からどれだけ下げたか。ここで大事なのは「終わった下げ」と「進行中の下げ」はまったく別物だという点です。数字が似ていても、下げ止まったあとの−8%と、まだ進行中の−18%では、意味が正反対。地味に見える指標ほど、進行中かどうかを確かめる必要があります。
● 分散=ひとつに賭けない
卵をひとつのカゴに盛るな、というやつです。ひとつの対象に全財産を賭けると、それがコケた瞬間に全滅します。性質の違うものに分けて持てば、どれかが傾いても他が支えてくれる。主人公が前世で財産を失ったのは、たった一社への一点集中が原因でした。
● 攻めだけでも、守りだけでも足りない
攻め一辺倒なら逆風で溶け、守り一辺倒なら追い風を取り逃す。天気が変わる相場では、どちらか片方に全部を賭けた時点で、半分の局面で必ず負けることが決まります。
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