第11話 追い風は、待ってくれない
生活を立て直した主人公ですが、次なる課題が浮上します。
異世界に来て、五日目。
俺の朝は、ずいぶんまともになった。
軒先の野宿は卒業した。
安宿の固いベッドでも、屋根の下で眠れるだけで天国だ。
腹も毎日ちゃんと満たせているし、ダイチのおかげで稼ぎが安定した。
ダイチを前に立たせ、自分は肉体強化で後ろからちまちま仕留める。
マナの減りはわずかで、拾う結晶がそれを上回る。
差し引き、いつもほんのり黒だ。
派手さはまるでないが、毎日確実に、銅貨が少しずつ貯まっていく。
……悪くない。
宿を出る前、いつものように窓辺へ肉の串を一本置いた。
昨日も一昨日も、朝になるとそれはきれいに消えていて、
皿の上に串だけがちょこんと残っている。
あの路地裏の、痩せた獣人の子だ。
声をかければまだ逃げるが、俺がいないあいだに、こっそり食べていくらしい。
……それでいい。気長にいこう。
俺はふっと笑って、宿を出た。
ダンジョンの浅い層は、もうすっかり勝手知ったる職場だった。
灰鼠の巣くう一帯で、いつものようにダイチを呼ぶ。
土を踏むような、のっそりした相棒が、今日も黙々と前を固めてくれる。
『……まかせろ』
「ああ。頼むな、ダイチ」
だがその日は、いつもと何かが違った。
奥のほうから、わあっ、と歓声が響いてくる。
何人ものハンターの、はしゃいだ声。
普段この層はもっと淡々としていて、誰もが無言で奥へ潜っていくだけだ。
こんなふうに人がわいわい群がる場所じゃない。
「なんだ……?」
気になって声のするほうへ足を向け、横穴をひとつ抜けた、その先。
——空気が、違った。
壁からにじむマナの光が、いつもよりずっと濃い。
ふわりと温かい風が、下から吹き上げてくる。
澱んだ浅層のじめついた空気とは、まるで別物だった。
そしてその光の中を、淡く輝く小さな獣たちが、
ぴょんぴょんと跳ねていた。
兎のような姿だが、毛は金の光をまとい、跳ねるたびきらきらと尾を引く。
地を蹴り、壁を蹴り、マナの光を求めて上へ上へと跳ねあがっていく。
その跳ねる獣を、ハンターたちがわれ先にと追いかけていた。
「捕まえろ! 落ちる前にだ!」
ひとりの大男が、跳ねる獣めがけて武器を振り下ろす。命中。
獣はぱあんとはじけて光に変わり
——その瞬間、じゃらじゃらじゃら、と目を疑うほどの青白い結晶が、
降り注ぐ宝みたいにぶちまけられた。
「うおおっ、大当たりだ!」
大男が駆け寄って、両手で結晶をかき集める。
ひと振りで、あの量。俺が半日かけてダイチと稼ぐぶんを、たった一撃で。
……なんだ、これ。
俺はごくりと唾を飲み、反射的に、跳ねる獣の一匹へ鑑定を向けた。
▼ 鑑定結果
名称:翔け兎 / 群れ:多数
─── 相場環境 ───
地合い ……… 上昇・順風(強気)
変動性 ……… 低
主導要因 …… 単一
複雑度 ……… ★☆☆☆☆
─────────────
見立て:素直な追い風。脅威は薄い。乗らねば、取り逃す。
上昇・順風。強気。
……これも相場の天気予報か。けど今までとまるで逆だ。
灰鼠も黒犬も、どれも「軟調」「弱気」の、沈んだ下げ調子の相場だった。
でもこれは違う。上昇、順風——追い風が吹いている。
脅威は薄く、複雑度も★1。危なくはない。
ただ、「乗らねば、取り逃す」。
乗らねば。……要するに、稼ぎどきってことか!
心臓が跳ねた。
こんなチャンス、めったにない。
あの結晶の山をいくつかかき集められたら、
まともな部屋に何日も泊まれるし、腹いっぱい食える。
俺は勢いこんで相棒に命じた。
「ダイチ! あの兎を捕まえるぞ!」
『……うむ』
ダイチがのっそり前に出て、
短い手足をよいしょよいしょと動かし、
跳ねる兎の群れへ向かっていく。
——遅い。
……いや、遅いのはわかってた。けど。
ダイチがようやく一匹に近づいたその時には、
兎はもう、ぴょんと軽やかに跳ねて別の場所へ移っている。
丸い体が空をつかむ。
よいしょ、と向きを変えるが、また兎は跳ねて逃げる。
「ダイチ、そっちだ! ——あ、いや、こっち!」
『……む。……むむ』
ダイチは必死だった。
けれど、いかんせん足が遅い。
守りは滅法堅いが、こいつは踏ん張って受け止めるための相棒だ。
素早く跳ね回るものを追いかけて捕まえるのは、
ダイチのいちばん苦手とする戦い方だった。
その間にも、まわりのハンターたちは、ばすばすと兎を叩き落としていく。
歓声。結晶の雨。みんな笑って、みんな稼いでいる。
俺だけが、のろまな相棒と空回りしている。
「くそ……っ」
焦りで頭が熱くなる。
じゃあ自分でやるかと肉体強化で追いかけたが、
その素早さは屈強なハンターたちにまるで敵わない。
はじき飛ばされ、横から獲物をかっさらわれる。
届かない。
あんなにすぐそこで宝が跳ねているのに。
手を伸ばせば届きそうなのに。
俺の手は、その一匹にすら届かない。
やがて、ふっと温かい風がやんだ。
壁の光がもとの淡さに戻っていく。
跳ねていた金色の兎たちは、いつのまにか一匹残らず消えていた。
あとには、稼ぎ尽くした満足げなハンターたちの、
ふくらんだずだ袋だけが残っている。
追い風は、行ってしまった。
俺の足元には、たった三つ。
はじき飛ばされた拍子に転がってきた、
おこぼれの結晶が、ころりと寂しく落ちているだけだった。
……はは。乾いた笑いが漏れた。
「ダイチ。……ごめんな。お前のせいじゃない」
『…………すまぬ』
ダイチが、しゅん、と苔の芽を垂れる。
違う。お前は悪くない。悪いのは——また、俺だ。
ハンターたちが引き上げていく。
その背中をぼんやり見送りながら、
俺は岩に腰を下ろした。
わかっている。
これもたぶん、あの時と同じ過ちだ。
何日か前、ただ弱気なだけの単純な相手に、万能の大砲をぶつけて自滅した。
使いどころを間違えた。
そして今日は、揺るがぬ守りの相棒であるダイチを、
跳ね回る追い風の中に放りこんだ。
守るための盾を、宝を掴む手の代わりに使おうとした。
……また、配分を間違えたのだ。
(……ガク様)
オルカの思念が、そっと触れてきた。
空回りしただけで、マナはあまり減っていない。
今は少し余裕があるらしい。
(ひとつ分だけ"種"を渡せます。今日の、答え合わせを)
「……ああ。頼む」
つうっとマナがわずかに抜けて、くらりとめまいがする。
知ることにすら対価を求める、いつものやり方だ。
めまいの向こうで、オルカの声がはっきりと響いた。
(今日の環境は、追い風。強気の上げ相場でした。
沈んだ下げ相場とは正反対。
ここで恐ろしいのは、傷つくことではありません)
「……乗り遅れること、か」
(ええ。ダイチの守りは、悪い相場で崩れぬための備え。
けれど勢いよく駆けあがる良い波には、盾では乗れません。
盾を構えているうちに、波は過ぎ去る。
——たった今、味わった通りに)
……ぐうの音も出ない。
(この過ぎ去る波をみすみす見送ること、
掴めたはずの実りを取り逃すこと。
それをガク様の世界では——機会損失、と呼びます)
機会損失。
……ああ。聞いたことが、ある。
前世でかじった投資の本。
そのなかでも儲け話の章だけは、夢中で読んだ。
「この波に乗れ」「乗り遅れるな」——威勢のいい話は、大好物だったから。
なのにいざ本物の追い風が目の前で吹いたとき、
俺は守りにしがみついて立ちすくんでいた。
……皮肉なものだ。何日か前まで、何にでも大砲をぶっ放して自滅していた。
それを反省して守りを覚え、ダイチのありがたみを知った。
そうしたら今度は、その守りに頼りすぎて、追い風を丸ごと見送っている。
ひとつ学ぶたびに、それへしがみついて、また別の場所でつまずく。
……我ながら、不器用にもほどがある。
新しい仲間の予感です。登場にはもう少しかかります。




