22)リンと高貴なお坊ちゃま03
「わかってる、大丈夫だから。……湖って、あれか、お坊ちゃまが気に入って絵に描いていたところだな」
リンは首を縦に振って肯定する。ルカも頷くと、魔石カンテラの明るさを一番強く調整してリンの手を握った。
「おまえを一人で帰すのは危険だし、湖に向かったお坊ちゃまを帰るように説得するには、おまえがいた方が良さそうだからな。行くぞ」
「は、はい!」
リンはルカに手を引かれ、夜の山道を歩き始めた。
先ほどの道となにも変わりはない。落ち葉が積もり、木の根や岩を覆い隠していて歩きにくい。それなのに、ルカに手を引かれているだけで足を滑らせることも、躓くこともない。
魔石カンテラの灯り、手のぬくもり、自分を引っ張る力強さがそうさせているのだと気付いた瞬間、嬉しいという気持ちと同時に気恥ずかしさを感じた。
「湖まではそう遠くない、怖いかもしれないが我慢してくれ」
「……だ、大丈夫です。怖くはないです」
「そうか、あのお坊ちゃんのためだものな」
怖くないのは、今ルカが居てくれるから、なのだが……それを口にすることはできなかった。胸がドキドキと激しく鼓動し、恥ずかしさで喉が詰まってしまっていたからだ。
湖の近くに到着するまでずっとリンは黙ったまま、ルカの手を握って足を動かしていた。
カッチーニ山の山道を進み、ルカは足を止める。
「る、ルカさん?」
「この巨木の脇を右に入って進んだ先が湖だ。……お坊ちゃんが居るといいんだが」
大きなクヌギの木の右脇に生えた背の高い草を避けると、人が歩いて踏み固められた道らしきものがあった。この道を小さなアンジェロが一人で通ったのだろうか? リンは不安に駆られ、ルカの手を握り込んだ。無意識だった。
「……行ってみよう、気配がある」
振り返ってリンを見つめ、ルカはそう言って歩き出した。リンも後ろに続く。
両側に生える背の高い草を払いながら進めば、ぽっかりと開いた空間が現れる。そこにあるのが湖だ。山の湧水が溜まって出来た湖は青緑色に澄んだ水を湛え、淡水で生きる魚たちが暮らしている。
アンジェロの描いた絵では見た。実物を見るのは初めてだ……星明りの下ではよく見えない可能性が高いのだが、見てみたい。いや、それよりもアンジェロだ。
ぐるぐると様々なことを考えながら歩いていると、ルカが足を止めリンを手で留めた。魔石カンテラの灯りを小さく搾ってリンに手渡し、唇前で立てられた人差し指によって〝喋らないで〟という意味を読み取る。それと同時に、生き物の気配とフーフーという荒い呼吸音が聞こえた。
ルカが短剣を抜き、腰を落とす。
星明りに照らされているのは、大きな猪だ。怒っているのか興奮しているのかはわからないが、落ち着いているとは言えない。体長は一メートルを越えており、左右二本ある牙は大きく先端は鋭く尖っている。その牙を、木の根元に蹲ったアンジェロに向けているのだ。
アンジェロは体を震わせ、泣いている。自分よりも大きなイノシシに牙を向けられているのだから、当然だろう。
悲鳴は辛うじて飲み込んだが、息が詰まった。
イノシシは「ピギイイイ!」と声をあげ、アンジェロに向かって一直線に突進する。巨大な体、鋭い牙でもってぶつかられでもしたら、アンジェロなどペシャンコに潰されてしまう。
リンは「きゃあああ」と衝動的に叫んだ。
その声とほぼ同時にルカの手から雷魔法が放たれ、イノシシを貫く。バリバリッという大きな音、金色の光が爆ぜる。
周囲が光に埋め尽くされ、ゆっくりと夜の闇が戻って来ると……イノシシは倒れていた。
「……もう大丈夫だ」
「あ、アンジェロ坊ちゃま!」
ルカに促され、リンは小さく体を丸めて震えているアンジェロの元へ駆け寄る。小さな背中や手足を見てケガがないことを確認すると、ホッと息を吐いた。
「……リン?」
「アンジェロ坊ちゃま、心配しました! こんな暗い中を山道に入るなんて、とても危険なことなんですよ!? クマもオオカミも住んでいる山なんです。事実、イノシシに襲われそうになっていましたよね!?」
「リン、リン……どうして一緒に来てくれなかったのぉお! 一人になって怖かったんだから!!」
うわああんと子どもらしい声をあげてアンジェロは泣き出して、リンにしがみ付く。
アンジェロの外套も靴も汚れている、被せた帽子には沢山の木の葉がついている、頬には土がついている。ここに至るまでの間、アンジェロが怖い思いをして必死であったことが伺えた。
「アンジェロ坊ちゃまが私を置いて行ってしまったのですよ」
「違うもん! リンが……来て、くれなかった……んだ……」
お腹にしがみ付く力強さ、高い体温、涙の湿り気。アンジェロが無事にここにいる、それがわかってリンはそれ以上言うのを止めた。お叱りは別の人がする方がいい。リンはアンジェロの無事を素直に喜べばいい。
「……さて、そろそろ帰るぞ」
ルカは苦笑いを浮かべ、一発の信号弾を打ち上げた。夜空に上がった信号弾は水色の光を放つ。
「これでお坊ちゃまを発見したことが皆に伝わった。後はコマドリ亭に戻って今夜は寝ろ、ジュリオ隊長の説教は明日になるだろう。覚悟しとけよ」
ヒッと顔を引き攣らせたアンジェロに、ルカとリンは顔を見合わせて笑った。警備隊を纏めるジュリオは優しく気さくな男であるし、愛娘を愛して止まない親馬鹿でもある……が、説教をするときは変わる。怖く、厳しく、そして長いのだ。
リンはアンジェロを抱っこし、山道に戻ろうとルカと共に草をかき分けながら歩き出す。
現在、警備隊の全員がアンジェロを捜索するために山に入っているのだという。湖、滝、花畑のどこかへ向かったと想定し、山道を中心に探しながら滑落や穴への転落なども考えて探している。
ミケーレは眠っているところを叩き起こされ、ウイカさんも休まずに留守を預かっているだろう。
「……」
それを聞いたアンジェロは口を引き結び、リンの胸に顔を埋める。
完全には理解できていないかもしれないが、それでも自分の行動で大勢の人間が動いていることを知り、幼いなりに事実を受け止め考えている様子だ。
「アンジェロ、おまえがリンと一緒に湖を見たいって、そう思う気持ちは問題ない。ただ、やり方を考えなくちゃダメだ。危険な行動をとれば、周囲の者にも影響する。今回の場合はおまえ自身、リン、俺たち警備隊員、ミケーレもウイカさんもだ」
「……ごめんなさい」
前を歩いていたルカが振り返り、アンジェロの頭に手を置いた。
そのとき、ガサガサと背の高い草が動き、何かが勢いよく飛び出してアンジェロを抱っこしたリンに向かって飛んだ。それは信号弾の音と人間の存在に驚き慌てた土ウサギだった。
「リン!」
一瞬のことでリンはアンジェロを庇うように体をひねる。左の肩から背中に衝撃が走り、その勢いのまま倒れた。しかし、地面にたっぷりと積み重なった木の葉が受け止めてくれる。おかげでリンもアンジェロも大したことはなかった、が、夜露に濡れた木の葉は二人を受け止めた勢いのまま、滑った。
「え……きゃ、きゃああ」
「リン!」
ルカの伸ばした手は空を掴み、大量の木の葉はまるで滝を落ちる水のように、リンとアンジェロを押し流したのだ。
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